205話
残念ながら人には限界があって、気持ちだけで超えられないことは山ほどある。
熱意や予感なんかを軽く踏みにじるのが現実で、胸の奥に存在した熱い気持ちは豆一粒ごとにどんどんとその温度を下げていった。
メリンダは最終的によだれと涙と鼻水で顔をグチャグチャにする羽目になった――しかし、リタイアだけはしなかった。
豆を食べきることはできなかったけれど、アレクに『もういい』と言われるまではがんばったのだ。
「まあ、個人差がありますし。豆を食べられる分量は、HP伸び率と関係があるので、あなたの成長度合いから考えると、かなりがんばった方ですよ」
変わらぬ笑顔で言われた。
フォローされているのか、事実を述べているだけなのか、判断が難しい。
ともあれ修行初日――夜明けをまたいでいるので二日目かもしれないが――は、終わった。
真っ赤な光が世界を照らす時刻、メリンダは宿に戻ることになる。
『銀の狐亭』。
部屋に案内はされたが、すぐに修行に出たので、じっくりと室内を見回すのはこれが初めてになる。
大きな家具は、ベッド、化粧台の二つぐらいだろうか。
クローゼットは壁と一体化しているんですのよ、お風呂は時間になったら一階の裏庭に出しますわ、お食事が必要でしたら食堂に行きましょう――
と、なぜか部屋までついて来たモリーンが紹介してくれた。
「いえ、その、わたくしも一応従業員でして、お部屋の説明を……あなたの接客を任されましたもので」
そういうことらしかった。
お部屋の説明――なるほど、宿屋にはそういうのもあるのかとメリンダは納得する。
メリンダの家は王都にあるので、基本的に宿を利用することはなかったのだ。
まあ、その家も、お金ができないとなくなってしまうのだけれど……
「なにか気になることなどございましたら、お気軽におたずねくださいまし。お疲れでしょうから、わたくしはこれで――」
「あ、あの……」
メリンダはモリーンを呼び止めた。
彼女は首をかしげる。
「なんでございましょう?」
当たり前の質問をされて、しかしメリンダは固まった。
特になにかを考えていたわけではなかったのだ――一人にされることが急に不安になって、つい呼び止めてしまったというのが、正直なところだ。
しかし呼び止めてしまったからにはなにか言わなければいけなくって、でも用事なんて急に思いつかないし、メリンダはどんどん焦っていく。
「不安ですのね?」
メリンダはなにも言っていない。
だが、モリーンは、メリンダの内心を言い当てた。
「わかりますわ。わたくしも、そうでしたもの。住んでいた家を追い出されるまで、宿屋など利用したことがなく……」
「も、モリーンさんも、初めてはこの宿なんですか? あ、メリンダは、家がまだ王都にあるので、宿に泊まるのは初めてで、えっと……」
「いえ、ここにたどり着く前にも、いくつか……『狐』というのが屋号に入った宿には片っ端から宿泊しておりましたわ」
「え、なんで……」
「……ええと、それは、まあ……えへへ」
モリーンは笑った。
なにか語りたくない過去があるらしい。
「……ともかく、初めて宿に泊まるのは、なにかと不安で怖いものですわよね」
「モリーンさんも怖かったんですか?」
「そうですわね。まあ、宿が怖かったというか、修行が怖かったというか……」
「……はい」
「その当時わたくしは、毎日一人で机に向かって書き物をしておりましたわ。己を奮い立たせるために……」
「書き物……」
「でものちに読み返すと、自分の精神が変貌していく様子が克明に記されていて、とても悲しい気持ちになるので、書き物で心の均衡を保つというのは、おすすめいたしませんわね……当時のわたくしは今よりなお愚かで、アレク様を疑い……」
声は小さくなり、目はうつろになっていった。
なにか語ってはいけない過去があるらしい。
話を変えなければとメリンダは思った。
しかし話題の提供は苦手だ。考えるけれど、思いつかない。
しばらく考えて、ようやく思いついたことは――
メリンダにとって唯一の肉親のことだった。
「あ、あの……そういえば、一度、家に帰ってもいいでしょうか……?」
「あら? ご宿泊になりませんの?」
「い、いえ、逃げるわけじゃないです」
「……別に『逃げる』とは言っていませんけれど……」
「ただちょっと、その、家に残してきた姉のことが心配で……め、メリンダの姉は、歩けないんです。あ、まったく歩けないわけじゃなくって、その、片足がちょっと……昔冒険者をやってた時に、えっと……」
「あら、そうでしたの? ……でしたら、あなたのお姉様も、この宿に連れてきてはいかがでしょうか? アレク様にお願いすればどうにかしてくださると思いますわよ?」
それは、メリンダも考えないわけではなかった。
しかし――賛成はできなかった。
『ここまで連れて来るのが大変』『家を守らなければならない』『二人分の宿代は大変』――そんな言い訳がバラバラと思い浮かんだ。
でも、どれも本当の『姉を連れて来たくない理由』ではない。
本当の理由は――もっとわがままで、勝手なものだ。
……そもそも、他の話題さえ思いつけば、ここで姉のことを口の端にのぼらせる予定はなかったし――修業が終わるまで様子見に帰るつもりさえも、なかったはずだ。
メリンダは姉を連れてこない大義名分をモリーンに語れず、
「……そう、ですね。その方が、いいと思います」
百人がいたら百人に賛同してもらえるような、模範的な回答をする。
モリーンは笑顔でうなずく。
「でしたら、早速向かいましょう。わたくしも同行させていただきますわ」
「あの」
メリンダは、またしてもほとんど無意識に声をかける。
ただし――今度は、かけるべき言葉がすぐに出て来た。
「どうして、そんなにメリンダを気にするんですか?」
従業員だから。
同じ人種――差別的に扱われることの多い、魔族だから。
宿での修行をメリンダより先にくぐり抜けた先輩だから。
パッと思いつく理由はそのぐらいだろう。
勝手にてきとうな理由を選んで、納得していてもいいのだろう。
でも、メリンダはどうしても、聞きたかった。
モリーンの口から語られた理由は――
「……どうしてなのでしょう?」
わからない、というものだった。
ごまかしている感じでもなく、本当に、モリーンもわかっていないという様子だ。
「それらしい理由は色々と思いつくのですけれど、いざ問われると返答に窮すると申し上げますか……ただ」
「……ただ?」
「ロレッタさんのことはご存じですわよね?」
「は、はい……」
メリンダにこの宿を紹介してくれたのが、ロレッタだ。
知らないはずがない。
「ロレッタさんは、わたくしのお友達なのです。ですので、彼女から紹介されたあなたの様子を見ておく必要を感じた――と、そんな感じでしょうか?」
モリーンは笑う。
でも、自分の口から出た言葉に納得はしていないようだった。




