204話
気持ちは大事だけれど、気持ちだけで全部解決するほど世の中は甘くなかった。
ロープでぶら下げられる方の修行は、気持ち以上に腕力を問われた。
でも、超えた。
次第に暗くなっていく世界。ギシギシと今にも切れそうにきしむロープの音。絶壁には時折強い風が吹いて、メリンダの体は冗談みたいに揺れた。
何度『あと少しでのぼりきれたのに』と思っただろうか。
いったいどれぐらい落とされただろうか。
気が遠くなるほどの回数をこなし、メリンダがロープをのぼりきって修行を終えたところで、ちょうど朝になった。
息も絶え絶えに崖のふちでへたり込む。
最初は『怖い』とか思っていた崖っぷちも、今では安息の地のように思える。
地面がある。
それだけで人はここまで安らげるものなのかと、メリンダは大地の偉大さを知った。
もうこのまま眠ってしまいたいほど、心が疲弊している。
しかし――
「では次の修行に入りましょう」
休憩とかは、ないらしかった。
アレクの修行は徹底的に修行者を追い込むものらしい。
というかアレクとモリーンこそ休憩とかはいいのだろうか?
メリンダが修行をしているあいだ、ずっと休まず付き合ってくれていたのだけれど……
たぶんアレクは休憩とかいらないのだろうとは、なんとなく思う。
でも、モリーンはいいのか?
メリンダはまだ立てないので、大地に倒れ伏したまま、いつの間にか近くに来ていたモリーンを見上げる。
モリーンはしゃがみこんで、こっそりとささやいた。
「アレク様の修行は、ここからが大変なのですわ」
今までは?
そう口走りそうになったけれど、メリンダはなんとかこらえた。
もしも『今までは?』とたずねて『大変でもなんでもない』と答えられたら、立ち直れないような気がしたのだ。
モリーンは真剣な顔をしている。
嫌な予感はしたけれど、疲れ果てているメリンダは、彼女を見上げたまま、その声を聞くしかできない。
「よろしいでしょうか、メリンダさん。次の修行こそが、もっともきついと評判のものなのです。崖から落ちる修行は一瞬で苦しまず死ぬことができますけれど、これから行う修行は延々と苦しみ抜いて死ぬことになるのですわ」
モリーンの言葉を理解するまで、ワンテンポ必要だった。
修行ってなんだっけ、という当たり前すぎる疑問が脳裏をよぎったのだ。
一瞬で苦しまずに死ぬ。
延々と苦しみ抜いて死ぬ。
どうだろう、メリンダの常識だと、修行というのは修行を終えた先に目標があるから行うものであり、死んじゃダメな気がするのだけれど……
まあ、今さらだ。
やけに冷えた心でメリンダは笑った。
目は死んでいた。
モリーンはなぜか優しく笑った。
そして、メリンダから視線をどこかへ移して、言う。
「あ、アレク様、これから行う修行内容を、わたくしの口から説明させていただいてもよろしいでしょうか?」
その問いかけは、アレクに対するものだった。
メリンダが視線を向ければ、アレクは「お任せします」とつぶやく。
かくしてモリーンの口から『もっともきつい』修行の説明が開始されることとなった。
「メリンダさん、では、修行の説明をさせていただきます。……メリンダさんは、普段、どんなものを召し上がられますの?」
修行の説明をされていると思ったら、食生活を聞かれた。
どうつながるのかはわからないが――メリンダは考えて、答える。
「え、えっと、メリンダはあんまり豪華なものは食べてないです……野草とか、穀物とか、たまに干し肉とか……でも小食だから、あんまり食べられなくて、貧弱で……」
「やっぱり力をつけるには、お肉とか食べないといけませんわよね。わたくしもあまり食事はとらない方でしたので、弱くて愚図でしたのよ」
「そ、そうなんですか……」
「食生活は体作りの基本ですわよね。お肉を食べれば力がつきますし、なにも食べなければ頭がぼんやりしますし……勝負事の前には、験担ぎでおめでたいものを食べたりする方もいらっしゃいますわね」
「そう、ですね……?」
「これから行う修行では、『食事が体を作る』という事実を深く理解させられる羽目になるのですわ」
おぞましい気配がしてきた。
モリーンの口ぶりから、『嫌でもわかる』というようなニュアンスが感じとれたのだ。
「メリンダはなにをさせられるんですか……?」
「お豆を食べます」
「……お豆を、食べる? それが修行なんですか?」
「はい。わたくしも最初聞いた時は、『それが修行なのか』と思ったものですが――食事が体を作るのは、『そんな気がする』ではなく、事実なのです。とる食物によって、本当に体力がついたりするのです。ですから、食べることもまた、修行なのですわ」
なるほど、と思わせられるような説明だった。
強くなるには食事も必要――メリンダにも言っていることはわかる。
だから問題は。
なぜその『食べること』がもっともきつい修行扱いされているか、ということで。
「すでにご承知かと思いますけれど、アレク様の修行は『死ぬ気で行う』ことで効果を見込むものなのですわ。これからあなたが行うであろうどの修行も、冗談でもたとえ話でもなく、すべてにおいてあなたの『必死さ』を試すようなものばかりなのです」
「……」
「食事も修行と、先ほど申し上げました通り――食事もまた、死ぬ気で行う。これからあなたに課せられる修行とは、そういうものなのですわ」
モリーンの表情は真剣そのものだった。
メリンダは考える。
『アレクの修行は死ぬ気で行う』『食事もまた修行』『だから食事も死ぬ気で行う』――ここまではわかる。
でも訂正したい部分があった。
世間一般で『死ぬ気』という表現を用いた場合、それは比喩だ。
必死とは、普通の人が普通の状況で口にする場合、必ず死ぬという意味ではない。
『すごく、がんばる』。
そのぐらいの意味だ。
けれど、アレクとモリーンの語る『死ぬ気』『必死』は、世間とは意味が違う。
本当に死ぬのだ。
つまり、これから行われる修行とは――
「次の修行は、お豆を食べます。死ぬまで」
そう語るモリーンの顔は真剣そのものだった。
メリンダは自分の心がやけに冷えているのを先ほどから感じていた。
頭は今までになく澄み渡っている。
モリーンの言葉は本当で、これから自分は豆を死ぬまで、本当に死ぬまで食べ続ける羽目になるのだと、そう理解できてしまう。
笑う。
目は死んでいる。
歯がガチガチと鳴った。
だって先ほどからモリーンは一生懸命に説明をしてくれている。豆を食べて死ぬのだと言っている。まるでどれほど言葉にしても、その修行のきつさは全然まったく伝わらないのだと言うかのように、同じ意味のことを、言い回しを変えて、何度も。
メリンダは歯を食いしばる。
そして、わけもわからず「うー……!」とうなった。
なにかをこらえている。
なにをこらえているのかは、自分でもわからないけれど――ここで歯を食いしばるのをやめてしまったら、きっと、後戻りできないような、そんな気がしたのだ。
メリンダは今、どんな顔をしているのだろうか?
本人にはわからないが、メリンダの顔を見て、モリーンは同情するような顔になっていた。
「……あの、わたくしの立場でこのようなことを申し上げるのはどうかと思うのですが……もしも無理そうでしたら、別な方法を模索するのも手かもしれませんわよ?」
「……?」
「あなたの事情は、本当に、つらい修行に耐えることでしか好転しないものですの? 他にやりようがありそうでしたら、わたくしもお手伝いさせていただきますので、他の方法を試してみてもよろしいかと思いますわ」
「……」
「だって、アレク様の修行は、死ぬ気になっていては超えられませんもの。……絶対になにがあっても生き抜くと思わなければ、到底、超えられませんわ。だって死ぬのは楽ですものね」
生き抜く。
メリンダは死ねない。
姉がいる。足の不自由な――不自由になってしまった、姉がいるのだ。
彼女を支えるため生きていかねばならない。
だからこそメリンダはこの宿に来たはずだった。
死ぬ気にはなれない。死んではいけない。
だから――『死なない宿屋』に、来たのだ。
たしかに死ぬのは楽だった。
崖から落ちる修行を思い出す。
一度踏み越えてしまえば、すんなりと一歩踏み出せる。
でも、生き抜くのは大変だった。
生きるためにロープをのぼることは、苦しくてつらかった。
でも――生き抜いてみれば、達成感があった。
ロープをのぼりきったあとの光景を覚えている。
大地に寝転がった時の安堵を覚えている。
生きているという強い実感を、覚えている。
メリンダは気付いた。
修行が自分の中で息づいている。
正直なところ、今までやってきたことに意味があると信じ切ることができていなかった。
なんか殺された。
その程度の認識だったような気がする。
でも、努力が、苦労が、つらさが、それらが報われた瞬間の達成感と安堵――
実際の腕力や体力以上に、『自分の力でつらいことを成し遂げた』という経験こそが財産になっているように思えたのだ。
だから――
「……やります」
がんばれば報われる。
だから、がんばる。――自分の力で。
そうして努力の果てに得た達成感は、必ず自分を強くしてくれるはずだと、メリンダにはなんとなくそう思えたから。
……そして。
ようやく心から、アレクの課す修行で本当に強くなれるのだと、信じることができた気がしたから。
「メリンダ、豆を食べます。死ぬまで、食べます……!」
生き抜く覚悟を、ようやく決める。
死ぬよりつらくて苦しいだろうけれど、負けないという熱が、ようやく、わいてきた。
モリーンは微笑む。
それから、肩をすくめた。
「……必ずしも無理をなさらなくてもよろしいと、わたくしは思うのですけれど」
「……はい」
「無理をしたい時というのも、ありますわよね。……どうか、生き抜いてくださいまし。本当にもう無理だと思った時はおっしゃってくださいね。こんなわたくしですけれど、なにかの助けになれるかもしれませんわ」
「はい……あ、あの、ありがとうございます、モリーンさん……」
礼を言われて、彼女は笑った。
アレクが近付いてくる。
「話はまとまったようですね」
「……はい。メリンダ、豆を食べますよ……!」
「結構。では、修行に入りましょう」
彼も笑う。
メリンダは拳を握りしめた。
胸の奥には、かつてない熱意と、今ならなんだってできそうな予感が、たしかに存在した。




