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大理石の床に響いていたジュリアスの見苦しい叫び声が、重厚な扉の向こうへと消えていった。
夜会会場を包み込んでいた静寂は、まるで張り詰めた糸が切れたかのように、一瞬にしてざわめきへと変わる。高位貴族たちの困惑、動揺、そしてどこか胸のすく思いが混ざり合った視線が、一斉に中央へと集まっていた。
その中心に立つのは、五年ぶりに姿を現した第二王子、エドワード殿下。
そして、その傍らに佇む私――オリヴィア・アトワールだった。
「……皆様、夜分遅くに大変なお見苦しいところをお見せいたしました」
私は深く息を吸い込み、乱れかけたドレスの裾を整えると、公爵令嬢としての矜持を胸に声を張り上げた。私の一声で、騒がしかった会場の視線が再び一点に収束する。
「本日の夜会は、不測の事態によりこれにておひらきとさせていただきます。皆様には大変ご迷惑をおかけいたしましたが、王宮警備および枢密院の指示に従い、順次お下がりいただけますようお願い申し上げます」
私の手際良い指示に、ベテランの文官や近衛兵たちがすぐさま動き出す。長年、ジュリアスの後ろで実質的な社交の差配を取り仕切っていたのは私だ。この程度の混乱を収拾することなど、私にとっては息をするよりも易しいことだった。
貴族たちが口々に噂を囁き合いながら会場をあとに整備されていく中、エドワード殿下がふっと喉の奥で小さく笑った。
「相変わらず見事な手腕だね、オリヴィア。君がいてくれなければ、この会場は今頃パニックに陥っていたはずだ」
「……お褒めに預かり光栄です、エドワード殿下。ですが、この状況を作り出した元凶の一人は、紛れもなく突然現れた貴方様ですよ」
私は少しだけ口元を緩め、嫌味交じりに答えた。
かつて、彼がまだ十四歳で私が十三歳だった頃、私たちはこうしてよく軽口を叩き合っていた。当時の記憶が、怒涛の勢いで脳裏に蘇ってくる。
「ふふ、否定はできないな。だが、私としても劇的なタイミングを狙っていたわけではないんだよ。兄上が君に対してあまりにも酷い仕打ちを始めようとしていたから、思わず足が早まってしまってね」
エドワード殿下は申し訳なさそうに眉を下げると、私に向かって静かに右手を差し出した。
「立ち話もなんだ。少し、風に当たらないかい? 君とゆっくり話したいことが、山ほどあるんだ」
「……喜んで」
私はその手の上に、自分の手をそっと重ねた。
彼の掌は、記憶にあるものよりも一回り大きく、そして幾多の苦難を乗り越えてきた者特有の、力強く温かな硬さを持っていた。
◇
王宮の喧騒から離れた、広大な庭園に面したバルコニー。
夜風が冷たく頬を撫でるが、肩に羽織らされたエドワード殿下のジャケットのおかげで、少しも寒くはなかった。
夜空には二つの月が浮かび、静謐な銀色の光が私たちを照らしている。
「まずは……改めて謝らせてほしい」
エドワード殿下はバルコニーの手すりに寄りかかり、遠くの夜景を見つめながら静かな声で言った。
「五年前、私が兄上の刺客に襲われ、姿を消さざるを得なくなった時……君に何の連絡も残せなかった。君がどれほど傷つき、どれほど苦しい立場に立たされるか分かっていたのに、私は自分の命を守ることで精一杯だったんだ」
「……殿下」
「あの時、私の死が伝えられた直後、父上(先代国王)も病で急逝された。混乱する国を抑えるため、枢密院は嫌がる君と兄上の婚約を強引に結ばせた。私を失った絶望の中で、君は国の為、公爵家のために、あの身勝手な兄上の隣に立ち続けてくれた……。本当に、すまなかった」
彼の声には、絞り出すような痛恨の情が滲んでいた。
私はそっと胸に手を当てた。
そう、五年前。エドワード殿下の訃報を聞いた日の絶望を、私は今でも鮮明に覚えている。
優しく、利発で、誰よりもこの国と国民を愛していた第二王子。私にとっても、ただの幼馴染以上の、胸の奥で密かに憧れを抱いていた大切な人だった。
彼が失われ、その後に宛てがわれたのは、傲慢で無能な第一王子ジュリアス。
ジュリアスはエドワード殿下に対する強いコンプレックスを抱えており、事あるごとに「エドワードならどうした」「エドワードの方が優秀だった」という周囲の比較に苛立っていた。そして、その鬱憤の矛先はすべて、エドワード殿下の許嫁になるはずだった私へと向けられたのだ。
『お前は私ではなく、死んだエドワードを見ていただろう!』
『私に服従しろ! 私の偉大さを認めろ!』
ジュリアスのヒステリックな叫び声、投げつけられた書類、見当違いの政策の修正、夜会での侮辱……。
この五年間の苦痛が、走馬灯のように頭を駆け巡る。
「……謝らないでください、エドワード殿下」
私は首を横に振った。
「貴方様が生きていてくださった。それだけで、私のこの五年間の苦労はすべて報われました。……本当に、生きていてくださってよかった」
気づけば、私の目から一筋の涙が零れ落ちていた。
ジュリアスにどんなに酷い言葉を投げかけられても、どんなに無理難題を押し付けられても決して流さなかった涙が、今さらになって溢れてくる。
エドワード殿下は息を呑み、優しく私の頬に手を伸ばすと、親指でその涙をぬぐい取ってくれた。
「オリヴィア……」
「私、ずっと悔しかったのです。貴方様が創ろうとしていた平和で豊かなこの王国が、ジュリアス殿下の愚行によって少しずつ蝕まれていくのが……。私がどれほど裏で書類を書き換え、税収を調整し、他国との摩擦を防いでも、あの人は一瞬でそれを台無しにしようとしました。今日だって……もしエルナ様(男爵令嬢)の件が解決していなければ、王室の信頼は完全に失墜していたでしょう」
「分かっている。すべて分かっているよ」
エドワード殿下は私の体を優しく引き寄せ、その胸の中に抱きしめてくれた。
心地よい体温と、ほのかに香る白檀の香りが私を包み込む。
「君が裏で回していた書類、隠してあった国政の修正記録……実は、隠れ潜んでいた私のもとにも届いていたんだ」
「え……? どうして……」
「私の忠臣たちが、王宮内部から君の働きを報告してくれていたのさ。君がたった一人で兄上の暴走を止め、この国を支え続けてくれていたことを、私は知っていた。君が残した緻密な計算と政策の痕跡を見るたびに、私はどれほど救われ、同時にどれほど胸を痛めたか……」
エドワード殿下は私の背中をあやすように優しく叩きながら、耳元で低く囁いた。
「君はもう、一人で戦わなくていいんだ、オリヴィア。これからは私が君を守る。君が守り抜いてくれたこの国を、今度は私が立て直す」
その言葉は、凍りついていた私の心を温かく溶かしていくようだった。
ジュリアスの冷たい抱擁とは違う、心からの信頼と慈愛に満ちた腕の中で、私はようやく長年の緊張から解放され、静かに息を吐き出した。
◇
翌朝。王宮の空気は一変していた。
第一王子ジュリアスの幽閉と、第二王子エドワードの生存・帰還のニュースは、一夜にして全土へと駆け巡った。
街では民衆が「エドワード殿下万歳!」「正義は勝った!」と歓声を上げ、ジュリアスの悪政に苦しめられていた地方の領主たちからは、祝状と支持の誓約書が山のように届いていた。
私はアトワール公爵家の執務室で、父であるアトワール公爵と向き合っていた。
「オリヴィア、本当によく耐えてくれた」
父は深々とため息をつき、お茶を口に運んだ。その顔には、長年の重圧から解放された安堵の色が浮かんでいた。
「ジュリアス殿下の暴走には、私も枢密院も頭を痛めていたのだ。だが、王家の血筋を途絶えさせるわけにはいかず、先代国王陛下への義理もあり、強く出られなかった……。お前にばかり苦労をかけて、情けない父親だ」
「いいえ、お父様。お父様が裏で枢密院を取りまとめてくださっていたからこそ、私も思い切った動きができました。それに……マイン男爵家への融資の手配も、お父様のおかげです」
「ふん、あの男爵も災難だったな。借金につけ込まれ、娘を愚かな王子の『当て馬』にされそうになるとは。まあ、マイン男爵領の鉱山事業は、正しく投資すれば必ず利益が出る見込みがあった。公爵家としても良い投資になったよ。あの娘と幼馴染の青年も、無事に領地へ戻ったそうだ」
「よかったです……」
私は安堵の胸を撫で下ろした。
エルナ様とレオン様は、今頃二人で平穏な幸せを噛み締めているだろう。彼らが勇気を出してジュリアスの茶番を暴露してくれたおかげで、私たちは完璧な形でジュリアスを追い詰めることができたのだ。




