金色の道化と、冷めた抱擁
シャンデリアの光が、まるで無数の刃のように大理石の床へ降り注いでいた。
王宮の夜会。それは私にとって、華やかな社交の場などではなく、ただの「戦場」であり、同時に「処理場」でもあった。
「おい、オリヴィア! 私のグラスが空になっているのが見えないのか? お前は婚約者でありながら、そんな基本的な気配りすらできないのか!」
頭上から降ってきたのは、苛立ちを含んだ高い声だった。
声の主は、私の婚約者であり、このルミナス王国の第一王子であるジュリアス。金糸のような美しい髪に、高貴な青い瞳。天は彼に素晴らしい容姿を与えたが、その中身を詰め忘れたらしい。彼が手にしている給仕用のトレイから私がグラスを取ろうとすると、ジュリアスはふん、と鼻を鳴らしてわざとらしく私を避けた。
「……申し訳ございません、ジュリアス殿下。少々、他の給仕への指示に気を取られておりました」
私は完璧な淑女の礼を保ったまま、静かに頭を下げた。
心の中では、ため息すら出ない。
彼が「気配りがない」と詰る私の視線の先には、先ほどジュリアスが勝手に輸入を許可しようとしていた、関税法違反の疑いがある外国商人の姿があった。私が今、裏で衛兵や文官に指示を出してその商人を別室へ連行させなければ、将来にわたり、我が国の経済に数億銀貨の損失が出ていたところだ。
しかし、目の前の「若き国王」は、そんな国家の危機など微塵も理解していない。彼の頭にあるのは、いかに自分が偉大で、いかに周囲が自分を崇拝しているか、という一点のみだった。
「言い訳など聞きたくはない。まったく、お前はいつもそうだ。公爵令嬢という立場を鼻にかけて、私をどこか見下している。お前のような可愛げのない女が、将来の王妃として私の隣に立つなど、想像するだけで虫酸が走るな」
ジュリアスの声は、広い会場に響き渡っていた。
周囲の貴族たちが、一瞬にして静まり返る。
だが、その静寂はジュリアスが期待しているような「王子の威厳に恐れおののいたもの」ではなかった。
私は周囲の視線をそれとなく観察した。
侯爵、伯爵、ベテランの文官たち、そして近衛騎士たち――彼らの目に宿っているのは、完全なる「冷めきった呆れ」だった。また始まった、というような、哀れみすら混じった視線。彼らが私を見る目は「同情」であり、ジュリアスを見る目は「ゴミを見る目」そのものだった。賢王からゴミへの引き継ぎは、多くの貴族を落胆させ、愚直だけならまだしも、その高慢さが、庇護派の貴族すら、遠ざけていた。
ジュリアスだけが、その事実に気づいていない。彼は自分が場の空気を支配していると信じ込んで、満足げに薄い唇を歪めている。
「殿下、あまり声を荒らげないで下さい。その……周囲の耳もございます」
私が極めて冷静にに、しかし義務としての忠告を口にすると、それが彼のちっぽけなプライドをさらに刺激したようだった。
「うるさい! 貴様の如きが、この偉大な王である私に指図をするな! お前のような女に、私の隣は荷が重すぎたのだ。今日、この良き日に、私はお前にふさわしい現実を突きつけてやろう」
ジュリアスは、芝居がかった仕草でパチンと指を鳴らした。
会場の重厚な扉が開き、一人の令嬢がしずしずと歩を進めてくる。
薄桃色のドレスを身にまとった、儚げな少女。男爵令嬢のエルナ・マインだった。彼女は怯えたような、あるいはひどく緊張したような面持ちで、うつむきながらジュリアスの元へと歩み寄る。
ジュリアスは勝ち誇ったような笑みを浮かべ、エルナの肩を抱き寄せた。エルナの身体がビクリと強張ったのを、私は見逃さなかった。
「紹介しよう。我が真実の愛、エルナだ。彼女はお前と違って優しく、私の言葉に耳を傾け、常に反論など口にせず、私を心から敬ってくれる。オリヴィア・アトワール! お前との婚約は、今この瞬間を以て破棄する! 新たな王太子妃には、このエルナが就く!」
ジュリアスの声が、シャンデリアを震わせる。
「婚約破棄」。
貴族社会において、これ以上ないスキャンダルであり、破滅を意味する言葉。
普通であれば、糾弾された令嬢は泣き崩れるか、あるいは怒りに狂って反論するだろう。会場の貴族たちも、大騒ぎになるはずだった。
しかし――。
会場は、しんと静まり返ったままだった。
誰も声を上げない。悲鳴も、驚きの囁きも、何一つとして湧き上がらない。
ただ、何人かの高位貴族が「ああ、ついにやったか……」「バカに付ける薬はないな」と、小声で、しかしはっきりと聞こえるトーンで呟いただけだった。
「……。殿下、本気で仰っているのですか?」
私は確認のために問いかけた。声に動揺は一切ない。むしろ、長年の重荷がようやく肩から降りるかもしれないという、一筋の希望すら感じていた。
「当然だ! 聞き苦しいぞ、オリヴィア。いくら泣きつこうとも、私の決意は変わらん。お前のような不敬な女は、我が国には不要なのだ!」
ジュリアスは、私が絶望していると勘違いしたのか、ますます声を張り上げる。その腕に抱かれたエルナは、なぜか顔を真っ青にして、地面を見つめたまま小刻みに震えていた。
私はエルナに視線を向けた。
マイン男爵家。地方の弱小貴族であり、最近、領地の鉱山開発に失敗して莫大な借金を抱えたという報告を、私は数日前の書類で目にしていた。
なるほど、と合点がいった。
「エルナ様」
私が彼女の名前を呼ぶと、エルナは弾かれたように顔を上げた。その瞳には、恐怖と、それ以上に「限界」の色が浮かんでいた。
「な、何よ、オリヴィア、様……! 殿下は私を選ばれたのよ! あなたのような恐ろしい……お、お方は、殿下にふさわしくありませんわ!」
エルナはあらかじめ用意されていたかのような台詞を口にした。しかし、その声は上ずっており、台詞を喋るマリオネットのようだった。
「マイン男爵令嬢。貴女の実家が抱える三千銀貨の債務……それが、この『演技』の対価ですか?」
私が淡々と事実を告げると、エルナは息を呑み、ジュリアスは眉を跳ね上げた。
「な、何を言っている、オリヴィア! エルナの実家の話など関係ない! これは純粋な愛の――」
「ジュリアス殿下。貴方が彼女の父親に『私の恋人の振りをすれば、男爵家の借金を王室の予算から補填してやる』と持ちかけたことは、既に財務部の記録と、私の個人的な調査で把握しております。ちなみに、王室の予算を私的な理由で、しかも他家の借金返済に充てることは、王国憲章第十四条において固く禁じられています」
「な……っ!? 黙れ……私が法だ」
ジュリアスの顔が、みるみるうちに赤から紫へと変わっていく。
「さらに言えば、マイン男爵は貴方からその提案を受けた際、非常に困惑し、私の実家であるアトワール公爵家に『殿下からこのような脅迫めいた打診があったが、どうすればいいか』と、涙ながらに相談に法律上のアドバイスを求めてこられました。つまり、私は最初から全て知っていたのです」
私は一歩、彼らに近づいた。
エルナは完全に怯え、ジュリアスの腕からすり抜けるようにして、一歩、また一歩と後ろへ下がっていく。
「エルナ、何を下がっている! この女のハッタリに惑わされるな!」
ジュリアスが声を荒らげるが、エルナの限界は、既に限界を迎えていた。
「……もう、嫌です」
ぽつりと、エルナの口から細い声が漏れた。
「何だと!?」
「もう嫌です、と言ったのです、ジュリアス殿下!」
エルナは突然、狂ったように叫んだ。彼女の目から、大粒の涙が溢れ出す。
「私は、お父様と家族を助けるために、貴方の独りよがりな、中身のない自慢話を毎日毎日、笑顔で聞く演技をしてきました! でも……もう限界です! 貴方はご自分が偉大だと思い込んでいらっしゃいますが、実際にはオリヴィア様が裏で回した書類にサインをしているだけじゃないですか! 貴方の立案した政策は、どれも子供の妄想以下です! そんなこと、私のような男爵令嬢でも分かります!」
「エ、エルナ……!? お前、何を言って――」
呆然とするジュリアスを置き去りにし、エルナは私の方を向き、深く、深く頭を下げた。
「オリヴィア様! 本当に、本当に申し訳ありませんでした! 王太子殿下に逆らえば、我が家は本当に潰されると思い、嫌々ながら婚約者気取りをしておりました……! 公爵家からのご支援の確約がなければ、私はもっと早くに頭がおかしくなっていたでしょう。お約束通り、私はこれにて退場させていただきます!」
エルナがそう叫ぶと、会場の端から一人の若い男が足早に歩み寄ってきた。仕立ての良い、しかし高価すぎない服を着た、見栄えのする青年だ。彼はエルナの肩を優しく抱き寄せ、彼女の涙を拭った。
「エルナ、よく頑張ったね。もう大丈夫だ」
「レオン……! ごめんなさい、こんな大役、本当に怖かった……!」
その青年は、エルナの幼馴染であり、マイン男爵領の次期政務官を任される予定の、彼女の本物の恋人だった。二人は寄り添い合い、私に対してもう一度一礼すると、ジュリアスの方には一瞥もくれず、堂々と夜会の会場を去っていった。
会場に残されたのは、静まり返る群衆と、私、そして――文字通り、口をあんぐりと開けて固まっているジュリアスだけだった。
「な……な、な……っ!」
ジュリアスの喉から、ひきつけを起こしたような声が出る。
信じていた「真実の愛」が、ただの金目当ての、それも嫌悪感を伴う演技だったと突きつけられたのだ。彼のプライドは、今や粉々に砕け散ろうとしていた。
「ええい! どいつもこいつも!! オリヴィア……! お前か! お前が仕組んだのか!」
ジュリアスは血走った目で私を睨みつけ、大股で詰め寄ってきた。その端正だった顔は、今や見苦しい怒りで歪みきっている。
「私は何も仕組んでおりません。ただ、マイン男爵家からの相談に対し、法的な保護と、正当な事業投資としての融資を公爵家から行うと約束しただけです。殿下のように、国の金を私物化するような真似はいたしません」
「黙れ! 黙れ黙れ黙れぇぇ! 私は王だぞ! 国王だ! お前のような女、今すぐここで不敬罪で処刑してやる! この私こそが絶対的な法であり、神だ!」
ジュリアスは理性を失い、周囲を威圧するように怒鳴り散らした。
「衛兵! 衛兵はいないのか! この傲慢な女を捕らえろ! 今すぐ地下牢へぶち込め! 王の命令だ!」
ジュリアスの怒号が会場に響き渡る。
壁際に控えていた十数人の近衛衛兵たちが、一斉に動き出した。彼らの鎧が金属音を立てる。
ジュリアスはそれを見て、「ははは! 見ろ! これが力だ!」と、狂ったように笑った。
しかし――。
衛兵たちは、私の前を素通りした。
そして、ジュリアスを取り囲むようにして、彼を包囲した。彼らの槍の矛先は、私ではなく、明確にジュリアスへと向けられていた。
「……え? お、おい、何をしている? こっちじゃない! 捕らえるのはそのクソ女だ! 耳が聞こえないのか! 間抜けども!」
ジュリアスが混乱し、衛兵の胸甲を叩こうとする。だが、衛兵隊長は微動だにせず、冷徹な声で告げた。
「ジュリアス殿下。我々近衛兵が忠誠を誓うのは、ルミナス王国と、正当なる王命のみです。国家憲章を犯し、私怨で公爵令嬢を拘束しようとする貴方の暴挙に、従う義務はありません」
「な、何だと……!? 私は国王だぞ! 私の命令こそがこの国の意思であり、王命そのものだ!」
「いいえ、殿下」
私が静かに口を挟んだ。
「貴方はまだ、正式には王に指名されてはいません。貴族の足並みはまったく揃っていないのですから。あなたはただの『第一王子』です。そして、我が国の法律では、国王の崩御または退位の際、枢密院の承認を経て初めて次期国王が決定します。貴方の独裁が通る場所は、この王宮、そしてこの国のどこにもありません」
「お、おのれぇ……!」
ジュリアスは、自分が完全に孤立していることに、ようやく気づいたようだった。周囲の貴族たちは、誰一人として彼を助けようとしない。それどころか、憐れみの視線すら消え、ただ「見苦しい犯罪者」を見るような目で彼を凝視していた。
「終わりましたね、ジュリアス殿下」
私がそう告げた、その時だった。
「――本当に、見苦しいな。兄上」
会場の入り口から、低く、しかし驚くほどよく通る、澄んだ声が響いた。
その声には、ジュリアスのような薄っぺらな傲慢さではなく、芯の通った、真の支配者が持つ圧倒的な威厳が宿っていた。
会場にいる全員が、一斉に振り返る。
そこに立っていたのは、一人の青年だった。
仕立ての良い漆黒の夜会服をまとい、ジュリアスと同じ金色の髪を短く刈り込んでいる。だが、その瞳の輝き、佇まい、そして醸し出す圧倒的な覇気は、ジュリアスとは比べものにならなかった。何より、その顔立ちは、数年前に喪され、貴族、王国民から「賢王」「名君」と称えられた先代の国王陛下の、まさに生き写しだった。
「な……っ!?」
ジュリアスが、この日一番の、あるいは人生で一番の衝撃に目を見開いた。その顔から、完全に血の気が引いていく。
「お、お前……! なぜ生きて……! お前は、死んだはずだ……!」
ジュリアスの唇が、ガタガタと震える。
青年の名は、エドワード・フォン・ルミナス。
ジュリアスの二歳下の弟であり、かつて「神童」と称えられ、誰もが次期国王にふさわしいと認めていた、第二王子。
しかし、五年前――彼は行幸の途中で賊に襲われ、崖から転落して、遺体も見つからないまま「死亡」と処理されていたはずだった。
エドワード殿下は、ゆっくりと大理石の床を踏み締め、こちらへと歩いてくる。その姿に、周囲の貴族たちから「エドワード殿下……?」「まさか、本当に?」「ああ、あの御高名な……!」と、地鳴り(じなり)のようなざわめきが広がっていく。
「久しぶりだね、兄上。私が生きていて、不都合でもあったかい?」
エドワード殿下は、ジュリアスの目の前で立ち止まり、冷ややかな、しかし全てを見透かしたような笑みを浮かべた。
「なぜ……なぜだ! お前は、あの時、確かに……!」
ジュリアスはそこまで言って、ハッと口を塞いだが、既に遅かった。
「確かに、兄上が放った刺客に胸を刺され、崖から突き落とされた、と言いたいのだろう?」
エドワード殿下の言葉に、会場全体が息を呑んだ。
「実の弟の暗殺未遂」。それは、国家を揺るがす大罪だった。
「が、崖から落ちた私は、運良く下を流れる川に救われ、心ある庶民の老医師に拾われた。だが、受けた傷は深く、毒も回っていた。長年、まともに動くこともできず、治療に専念せざるを得なかったのだ。それに……」
エドワード殿下は、ジュリアスをまっすぐに見据えた。
「私が生きていると知れば、兄上は再び刺客を送っただろう? 私は、自分が生き延び、兄上の悪政の証拠が集まるその日まで、僅かな忠臣の護衛と共に、息を殺して庶民として隠れ住むしかなかったのだ」
エドワード殿下の告白に、会場の貴族たちから怒りの声が上がり始める。
「実の弟を暗殺しようとするなど、王族のやることではない!」「そんな男が王位に就こうとしていたのか!」
「嘘だ! そんなものは邪推だ! 証拠でもあるのか!」
ジュリアスが狂ったように叫ぶ。
「証拠なら、ここにある」
エドワード殿下は、懐から一冊の古びた手帳を取り出した。
「当時の暗殺ギルドの長が残した、依頼主の署名入りの帳簿だ。兄上の側近が、兄上の個人資産から報酬を支払った記録も、全てここに記されている。言い逃れはできないよ」
ジュリアスは、その手帳を見た瞬間、膝から崩れ落ちた。
彼のプライド、彼の権力、彼の未来――その全てが、音を立てて崩壊していく。
「ジュリアス・フォン・ルミナス」
エドワード殿下の声が、冷徹に響く。
「王族暗殺未遂、国家予算の私的流用、および不当な権力乱用の罪により、そなたの身柄を拘束する。……衛兵、連れて行け」
「はっ!」
先ほどまでジュリアスの命令を無視していた衛兵たちが、今度は一糸乱れぬ動きでジュリアスの両腕を掴んだ。
「放せ! 放せ! 私は王だ! 国王だぞ! この裏切り者共が! オリヴィア! お前からも何か言え! 私を助けろぉ!」
引きずられていくジュリアスが、惨めに見苦しく私に手を伸ばす。
私は、その姿を冷ややかに見下ろした。
「さようなら、ジュリアス殿下。貴方の輝かしい未来に、祝杯を上げることは二度とないでしょう」
ジュリアスは絶叫しながら、会場から連れ去られていった。彼が向かう先は、王宮の最下層にある、二度と光の差さない幽閉塔だ。
静まり返った会場で、私は一つ、深い息を吐いた。
ようやく、全てが終わった。
「――お疲れ様、オリヴィア。長年、あの愚兄の尻拭いをさせてしまって、本当に申し訳なかった」
振り返ると、エドワード殿下が、先ほどまでの冷徹な表情を消し、ひどく優しく、そしてどこか懐かしそうな笑みを私に向けていた。
「エドワード殿下……」
私は彼の手を取り、今度は義務ではなく、心からの敬意を込めて、深く頭を下げたのだった。




