第二十七話 ヨセファ診療所
街を少し歩いた先、かつては市場の倉庫として使われていたという建物が食糧庫になっているという。
霧深き深夜、アレクトゥスはヴェリタスに連れられ教会を出た。
「診療所への配給はこの時間にしているんです、少しでも魔獣を避けるために」
司祭の声は落ち着いていたが、どこか台詞めいて聞こえた。
まるで、何度も同じ言葉を誰かに言い聞かせてきたかのように。
人気のない通りを、二人は影を選びながら進んだ。焼け落ちた店の看板、割れた窓硝子、主のいない荷馬車。かつての賑わいの残骸が、霧の中に幽霊のように浮かんでは消えていく。
食糧庫に差し掛かったところで、前方の闇が揺らいだ。
「──っ、伏せろ!」
アレクトゥスが叫ぶと同時に、瓦礫の陰から影が飛び出す。四肢の長さが不揃いに歪んだ、蜘蛛と獣の中間のような魔獣だった。
ヴェリタスの動きは、法衣の司祭のものとは思えないほど洗練されていた。腰の帯から抜き放った短剣を逆手に構え、間合いを潰しながら喉元を薙ぐ。同時に、もう片方の手からは指の間に挟んだ投げナイフが立て続けに放たれ、背後から迫っていた別の個体の目を正確に貫いた。
「随分と戦い慣れていますね」
「狩人とは、もともと教会の魔獣対策班から派生したものです。この時世、祈るだけが信仰の形ではないのですよ」
軽口を交わす余裕すらある。二人の呼吸は、初めて組んだにしては悪くなかった。
アレクトゥスが仕込み杖で足を薙ぎ、怯んだ隙にヴェリタスの短剣が心臓を貫く。
「魔獣増加後から、民間とも協力して狩人の増員をしましたが、結局手は追いつきませんでした」
もう一体、横合いから飛びかかってきた個体は、投げナイフの連続攻撃が怯ませたところを二人で挟み撃つように仕留めた。
黒い泥に還っていく死骸を見下ろしながら、アレクトゥスは肩で息をつく。
「──助かった。あなたがいなければ危なかったかもしれない」
「いえ、こちらこそ。あなたのような方が来てくださって、本当に感謝しているのです。──これで失敗作を処理し、新しい実験体も手に入るのだから」
「──何を言って」
言葉が、途中で途切れた。
振り向いた先、ヴェリタスの顔からは、先ほどまでの温和な笑みが綺麗に抜け落ちていた。
値踏みするような、あの目だけが残っている。
問いかけを最後まで紡ぐことはできなかった。
彼の隣に上空から白い糸が垂れ、蜘蛛型の魔獣がぶら下がっていたからだ。
腹部に猛烈な痛みが走る。脇腹には蜘蛛から伸びた長い鋏角の牙が刺さっていた。
傷口から広がるように灼熱のような痛覚に、意識は急速に暗闇の中に沈んでいった。
次に目を覚ますと、最初に感じたのは、手首と足首を締め付ける冷たい金属の感触だった。
目を開けると、消毒液の匂いが鼻を突いた。白い壁、並んだ寝台、規則正しく響く水滴の音。
アレクトゥスは拘束具で寝台に固定されていた。動かそうとした腕は、びくともしない。
視線を巡らせて、彼は言葉を失った。
並んだ寝台の一つ一つに、人がいた。
いや、正確には──人だったもの、というべきかもしれない。
ある者は皮膚の一部が既に灰褐色に変色し、粗い体毛が斑に浮き出ている。ある者は指先が黒く爛れ、爪の代わりに鉤爪のようなものが伸びかけていた。誰もが虚ろな目をして、時折意味をなさない呻き声を漏らすだけだった。
その間を、白衣を纏った人影が静かに行き来している。手には記録帳と、何かの薬液を満たした注射器。
壁には、案内板が掛けられていた。
──ヨセファ診療所。第三診察室。
隣の診察台に貼り付けられた紙に、几帳面な筆跡でこう書き足されている。
『変質過程の記録、並びに制御方の検証』
急速に回転した思考が状況を把握し、ああ、そういうことか。と納得する。
アレクトゥスが起きたことに気付いたのか、白衣の人物は振り返った。
「あら、目が覚めたのね。あなたに聞きたいことがあるの。この薬は一体なに?」
白衣の女が手に持った注射器を示しながら問いかける。
それはアレクトゥスが持っていた袋の中身だった。
「──わからない。あんた、それを患者に打ったのか?」
女医の胸元には名札が付いている。ヨセファ、つまりここは彼女の診療所らしい。
「質問しているのは私よ。CVはワクチンを完成させたの?」
──なんて。と彼女は俯いて震える。
それは喜びや驚きなどではない、研究者の失望感だと、立場を同じくするアレクトゥスは悟った。
「──なんて余計なことを! このウイルスは私たちの福音よ! 人の殻を破り、新たな種に転生する方舟。それを邪魔するなんて!」
やはり狂人の類だった。事態の規模と深刻さから、そのような思想が生まれてもおかしくないと、どこかで諦観していたことに、今さらながらアレクトゥスは気付いた。
「あんたの理想に興味はないが、その薬が本当にワクチンかどうかは俺も知らない。ただの拾い物だ。CVとやらが関わっているのかも定かじゃない」
その言葉を聞いて、ヨセファは落ち着きを取り戻す。
「そう……。どうせすぐにわかるわ。あなたも、もう感染しているのだから、大人しく祝福を受け入れることね」
脇腹を見ると、傷口が膿んでいる。そう認識した途端、身体中に熱さが戻ってきた。
「……全く、あんたも一端の医者だっただろうに、どこで狂ったんだ?」
その呟きはほとんど自嘲だ。研究者が狂う理由など、アレクトゥスが一番わかっている。
だが今はそんなことも言っていられない。確かめなければならないことがある。
「なぁ、ここに夫婦が来なかったか? オディウムとパリトっていう」
ぶつぶつと考え事をしていたヨセファが、アレクトゥスの言葉に顔を上げてにやりと嗤う。
「……ああ、その二人なら──ここよ」
そう言って彼女の後ろの診察台を指差した。
そこには先程からうめき声を上げていた変異途中の人間が横たわっている。
「この二人は変異スピードが早いわ。おそらく診療所に来る前には感染していたんじゃないかしら」
そんな予感はしていたが、当たってほしくはなかった。
そして止める間もなくヨセファは拘束された二人に注射を打っていく。
「さぁ、どうなるか見てみましょう?」
彼女の表情にはもはや人に対する情を感じなかった。
それはいつか鏡で見た顔にそっくりだった。
次回の更新は9月12日(土)です。




