第二十六話 境界を別ける杖
軋みを立てて、閉ざされていたはずの門扉がゆっくりと開いていく。
隙間から漏れる松明の灯りに、幾つもの影が浮かび上がった。鍬や薪割り斧を手にした住民たちが、警戒を隠さぬ様子でこちらを窺っている。先頭に立つのは、片目に古い傷を持つ痩せた老爺だった。
「……あんた、本当に狩人か」
誰何というより、縋るような響きだった。皹割れた声の奥に、疑いと期待が同居している。
アレクトゥスは答えあぐねた。狩人、という呼び名にどう応じたものか判断がつかない。ただ、今しがた自分が振るった武器の熱が、まだ掌に残っていることだけは確かだった。
「俺は──自分はアレクトゥス。旅の者です」
名乗ってから、少し罪悪感を覚えた。いや、これは虚無感か。自身のことを何も知らないまま語ることに自嘲している。
「ここで何があったのですか?」
問いに、老爺は口をつぐんだ。答えを渋っているというより、答え方そのものを知らないという顔だった。周囲の住民たちも、互いに視線を交わすばかりで誰も言葉を継ごうとしない。
その沈黙を破ったのは、群衆の奥から響く落ち着いた声だった。
「──よく、ここまで辿り着いてくださいました」
人垣が割れる。松明の光の輪の外から歩み出てきたのは、白と紺の法衣を纏った壮年の男だった。柔らかな物腰と、深く落ち着いた声音。だがその目だけは、笑みの形をした口元とは裏腹に、値踏みするような光を宿していた。
「私はヴェリタス。この教会を預かる司祭です。──さあ、中へ。外はまだ危険だ」
差し伸べられた手のひらは、驚くほど乾いていた。
ヴェリタス司祭から街の状況を聞く。
事の発端は三ヶ月前、突然街で爆発事件が起こってからだった。当初それは悪魔の民族による襲撃とされていたが、それにしては追撃の兵がやってこないことなど違和感が多かった。同時期に原因不明の体調不良を訴える市民が増えたが、この時点では両者を結びつけるものはいなかった。
やがて魔獣による被害増加が目立つようになり、それと共に奇妙な噂が流れ始めた。人が魔獣に変わるのを見たと言う。
そして事件は起こる。街の診療所が魔獣で溢れかえったのだ。多数の人が魔獣化する瞬間を目撃し、噂が真実であることが確認された。
もはや憲兵だけで解決する規模ではなく、軍の投入が望まれたが、政府機能は弱まっており、互いの国を事件の首謀者と主張し暴走した軍隊は街中でもところ構わず戦闘を繰り返していた。
これに対し街の病院とアスト・ラナ教会は結託し、事態の収拾に取りかかる。医者たちはすでにどこからか噂になっていた人間を魔獣に変える病気の存在を仮定し、感染の疑いがあるものを隔離する。同時に教会は街に溢れた魔獣に対処する狩人部隊を編成した。
だが病原の特定には至らず、狩人にも魔獣化が広まったため対応は常に後手に回った。
そうしているうちに現在の状況に至る。
「私たちにもどうなっているのかわからないというのが実情です」とヴェリタス司祭は苦々しげに語った。
「この教会には何人避難しているんですか?」
「現在十五名がここで暮らしています。街のほかの教会や診療所でも行き場を失った人の保護を進めていますが、感染の疑いがある以上慎重にならざるを得ません」
都市の人口からすれば全く微々たるものということだろう。それでもやらないよりは、ということか。
「──今日はもうお疲れでしょう。ベッドと食事を用意します。ゆっくりと休んでください」
通された個室で質素なパンとスープの食事を済ませる。簡易なベッドが用意されていたが、まだ寝る前にすることがある。
そもそも不用心が過ぎるのだ。これまでの話しぶりからして、この教会が疫病について相応の知識を持っていることは窺える。それでいて、素性の知れない余所者である自分を、なぜ疑いもせず迎え入れたのか。
なにか意図がある。彼はそう疑った。それに少女の両親のことも気になった。
なので教会に避難している住民に話を聞きに行くことにした。
「最近は狩人でさえ奴らに喰われるか、奴らの仲間になるか、だ」と古傷の老農夫は語った。
「この教会は私のような異教徒も保護してくれます」とサルボ教の修道女アドロアは感謝を捧げた。
「誰も信用出来ない、だろう? 俺はお前の正体だって知ってるさ。余所者め! 話すことなんかないって!」と偏屈な男は邪険に追い払った。
「あの女の子の親を探してるんだって? アタシ知ってるわ。教会を出ていくところを見たのよ」と娼婦アリアナは声を抑えて教えてくれた。
詳しく聞くと、オディウムとパリトという夫妻がこの教会に避難していたが、子供の治療法を探すと言って少し前に診療所へと向かったらしい。
「ありがとう。その診療所というのは、この病気に詳しいのかな?」
「ごめんなさい、よく知らないの。でも、CVという組織が解決策を探しているって聞いたわ」
CV? とアレクトゥスは訝しむ。そして持っていた袋を取り出す。そこにはCVの文字が印字されていた。
「そ、それって、もしかしてワクチンじゃない?」
一体どうやって手に入れたのか聞くアリアナに、アレクトゥスは曖昧な返答しかできなかった。
「わかったわ。詳しくは聞かない。訳ありなのは皆同じよ。で、でも、その代わりアタシにもくれないかしら?」
本物かどうかわからないし、やめたほうがいいと言ったが、彼女は諦めなかった。
「どうせここで待っていても助からないわ。ならそのワクチンに賭けてもいいじゃないの」
結局押し切られる形で、彼女にワクチンと思わしき注射器を一本あげることになった。
「ああっ、神様。地獄みたいなところにもあなたのような人がいるのね。ありがとう。お礼にこれを持っていって」
彼女は小さな杖をアレクトゥスに渡した。カバの牙を削り出して作られた湾曲したそれには、女神と獣神とおぼしき二体の像が並んで刻まれ、その傍らに呪文らしき文言が連なっている。「我々は来た。異なる宇宙。死と再生」そんな意味の言葉だ。
強烈な既視感に目が眩んだ。
──これが何か知っている、知るはずがない。
矛盾する思考に翻弄される。鋭い頭痛に立っていられない。嘲笑う老婆の声を聞いた気がした。
「ちょっと、大丈夫?」
アリアナが心配そうに顔を覗き込んでいる。
頭痛はすぐに治まった。
「診療所に行ってみる」
アレクトゥスがそう言うと、彼女は神妙に頷いて、気を付けてね。と送り出した。
教会から出ると、ヴェリタス司祭と鉢合わせた。
「おや、こんな時間にどこへ?」
「診療所へ行ってみようかと。……なにか手がかりがあるかもしれない」
司祭は少し思案する様子を見せたが、すぐに笑顔で了承した。
「なるほど。では私も同行しましょう。丁度食料を届けるところでしたから」
一緒に来てもらえると助かります。と司祭は夜の道を先導する。この場はついて行くしかなさそうだった。
次回の更新は9月5日(土)です。




