第二十四話 蛹を破り、蝶は舞う
「坩堝に銅と亜鉛。炉に泥炭と大樹の皮。双頭の蛇は眠り、欠けた月は霧に覆われる。黒炎よ渦巻け、仮面の蜘蛛よ糸を引け」
それは遠くから聞こえる声。
いつか唱えた呪文、かつて聞いた祝福。
仮面の老婆が儀式を紡いでいる。
「──渇け、渇け、渇け、渇け。滞留する度に分裂せよ。我は語り得ぬものを騙るもの。我は知り得ぬものを識るもの」
嗄れた老婆の言葉は耳ではなく脳を震わせる。
割れるような頭痛。熱にうなされ、血が沸騰しているようだ。
その狭間で、前世の記憶を垣間見る。
「汝、偽りの根を辿り、深淵を欲するならば掴め。理の拒絶者よ!」
黒い泥の濁流に溺れ、自身を見失う。
暗闇に降りてきた一本の白き糸を必死に手繰り寄せる。
目覚めぬ方が安寧を享受できただろうに、この身体は未だ果てを知らず。
「──悪夢は巡り、繰り返すものだろう?」
嘲笑う老婆の声が、いつまでも脳裏にこびり付いて離れなかった。
そうして意識が浮上する。
窓のない石造りの地下室、古びた錬金炉と埃被った作業台。
棺のような黒い容器から、一人起き上がる。
人気の無い荒れた工房は、しかし男にとって懐かしいものだった。
「フィデリウス家の秘密工房……」
そんな呟きが乾いた喉を震わす。
「アレクトゥス──俺の始まりの場所」
頭痛が鋭く響く。男の自己認識はアレクトゥスだ。しかし同時にクローンであることも理解できた。
ならば製造番号はいくつだ? ──わからない。
なぜ誰もいないのに目覚めた? ──わからない。
記憶に混濁は認められず、しかし今の状況は不可解過ぎた。
辺りをよく見ると、作業台の上に埃を被っていない見慣れない袋が置いてあった。
袋にはCVの文字が描かれている。中をのぞくと瓶詰めされた薬品と注射器が入っていた。
とにかくここに居ても仕方がないと、袋を持って地下室から外に出た。
フィデリウスの屋敷は壊滅していた。
アレクトゥスの時代から百年経っているとは言え、アレクトゥスは次男だったし、家督は兄が継いで問題なく継続しているはずだった。
それが今は見る陰もなく壊され荒れ果てている。
建物の損壊状態を調べると、破壊されたのはごく最近であるようだった。
屋敷の中に入り、まだ使えるものがないか探す。
仕込み杖とフリントロック式の単発ピストルを発見した。
それと探索中、鏡があったので自身の姿を確認した。
容姿は完全にアレクトゥスのものだった。
この形のクローンは最初期の十二人以降製造されていないはずだ。
ますます自分がなんなのかわからなくなるが、製造番号も個体名もないのでとりあえずアレクトゥスと名乗ることにした。
そうすればほかのクローンたちも探しやすいとの思惑もあった。とにかく情報が欲しかった。
なので近くのシレンティアの街へ向かうことにした。
フィデリウス家のお膝元であるシレンティアの街はテラソリス王国における典型的な二番手の都市だ。そこそこの規模でそこそこに栄えている。人口も市場も大きい。
だから、そんな都市が封鎖されているなんていうのは異常事態としか言いようがなかった。
まず昼間だというのに通りに人っ子一人いない。建物の門戸は尽く固く閉じられている。
その代わり、魔力の反応が多数ある。魔獣の気配だった。
情報を集めようにもこれでは難しい。
あまり期待はできないが、一応周辺の家の扉を叩いて周った。
多くはなんの反応もなかった。あとは中に動く気配は感じるものの、応答する気はないようだった。
最も反応があったところで、「失せろ!」や「来ないで!」といったものしか得られなかったのだが。
それでも、一件だけ話を聞くことができた。
「ねぇ、あなたは狩人さまなの?」
とある家の窓際の小さな陰から、女の子の声が問いかける。
「狩人?」
「あの魔獣たちと戦う人のことよ。家の外にいる人は、魔獣か狩人さましか、もういないんだって」
「そんなことになっていたのか……。一体なにがあったんだ?」
「知らないわ。いつの間にか外は魔獣だらけになって、お父さんもお母さんも教会へ連れてかれちゃった」
「君は独りなのかい?」
「──いいえ。でもずっと外に出ていないの。わたしじゃ鍵を開けられないから」
そのとき、路地の向こうから魔獣の声がこだまする。
「やつらがくるわ……! ごめんなさい、うちは扉が開かないの。逃げてっ」
アレクトゥスはその場を去る。
追っ手の気配は執拗についてくる。獣の俊敏さと隠密性を備えた相手に街を逃げるのは無謀だった。
あっさりと路地の行き止まりに追い詰められる。
仕込み杖から刃を解き放つ。ピストルに魔力を込める。
戦闘態勢に入ったアレクトゥスの前に現れたのは、真っ黒い異形だった。
一見狼や猟犬のようなフォルムだが二回りは大きい。皮膚は爛れ、灰色の毛がわずかに斑に残り、大量の歪な爪が足に出鱈目に生え、鋭い牙が覗く口からは鞭のように長い舌が垂れている。
殺意を剥き出して襲いかかる獣をピストルで迎撃する。怯んだところに仕込み杖の刃で喉を突く。
噴水のように黒い血を噴き出しながらも長い舌を鞭のようにしならせアレクトゥスの右肩を叩いた。
痛みに顔をしかめながらも連続で魔法弾を魔獣に撃ち込むと、やがて獣は動かなくなり、黒い泥となって消えた。
右肩の負傷で思うように仕込み杖を握れないまま、次の敵を見据える。
路地には同じ魔獣があと三体ほど集まってきていた。
「──くそが」
銃声が響き、仕込み杖が地面を転がる。
アレクトゥスは腕を噛まれ、喉に喰い付かれ、足を引き倒される。
その先はただの食事の光景だ。
薄れ行く意識の中で、疑問だけが渦巻いていた。




