第十八話 目覚め前
牢の小さな窓から差し込む月明かりは、ひどく頼りなかった。
ユイは簡素なベッドに腰掛け、膝を抱えていた。ラティウスはあの後どうなったのだろうか、セリカリアの街はあの直後に悪魔の民族との戦闘に入ったと聞く。生きているのか、それすらも定かではない。
考え込んでいると、不意に空気が変わった。
物音はしなかった。扉が開いた気配も、鍵が外れる音もない。ただ、いつの間にか牢の中に、もう一つの気配が立っていた。
「──っ!」
ユイは思わず身を引く。
闇の中に立っていたのは、着物を肩からはだけさせた大柄な影──黄泉路歩きだった。彼の背には、ぐったりと力の抜けた褐色の身体が担がれている。
「エラク……!」
ユイは駆け寄ろうとして、しかし枷が鈍い音を立て、それ以上進めなかった。
黄泉路歩きは無言のまま、牢の隅にエラクを横たえる。呼吸はある。ただ目を閉じたまま、ぴくりとも動かない。
「どうして、彼をここへ……? まさか、あなたが看病を? いえ、それよりも──あなたは、一体何を考えているんですか」
問いかけに、黄泉路歩きは応えなかった。ただ膝をつき、エラクの首筋に指を這わせ、脈を確かめるような仕草をしただけだった。
「答えてください。ルーペス砦で、あなたはエラクと戦っていた。でも──」
結局殺しはしていない。と言いかけて、ユイは口をつぐんだ。理由があるのだろう。
だが聞いていいのか。
黄泉路歩きの視線が、初めてユイに向いた。だが、そこに言葉はなかった。ただ静かに、値踏みするような一瞥をくれただけで、彼はまた視線をエラクに戻す。
沈黙が牢を満たしたところに、足音が近づいてきた。
「──失礼します、66号」
現れたのはスクリバだった。片手に数冊の記録帳を抱え、もう片方の手には燭台。彼は牢の奥に佇む黄泉路歩きの姿を認めても、眉一つ動かさなかった。
「45号も、こちらに。ちょうどよろしゅうございました」
「……驚かないんですね」
ユイが呟くと、スクリバは静かに記録帳を机代わりの棚に並べた。
「議員閣下不在の間、この屋敷に出入りする者を逐一記録するのが私の仕事です。45号がここに至るまでの足取りは、およそ十分前から把握しておりました」
平然と言い切るスクリバに、ユイは絶句する。
「それより、66号。少々お耳に入れておきたいことが」
スクリバは記録帳の一冊を開き、机の上に広げた。びっしりと書き込まれた日付と地名、そして戦況の概要。
「これは、45号──黄泉路歩きに関する、過去二十年ほどの出現記録です。閣下の指示で、以前より折を見て収集しておりました」
「なぜそんなものを……」
「45号殿は、閣下の指揮下にない稀有な存在です。制御できぬものは、せめて把握しておく。それが閣下の流儀ですので」
スクリバは淡々と、記録の一つ一つを指でなぞっていく。
「ご覧の通り、出現地点に規則性はありません。国境も、陣営も、彼にとっては意味を成さない。ただ──」
スクリバは一箇所で指を止めた。
「出現した戦場のほぼ全てに、共通点が一つだけあります。いずれも、クローンが深く関与する事変であった、ということです。ルーペス砦、セリカリアの街、フェリクス村の周辺。そして、第二クローン製造工房が稼働を停止した時期と、45号殿の初出現の記録が、奇妙に近い」
ユイは息を呑んだ。
「それは……偶然、ではないんですか」
「偶然にしては、出来すぎているように思われます。もっとも、私はただの記録係。結論を出す立場にはございません」
スクリバはそう言って、静かに記録帳を閉じた。それから、黄泉路歩きへと視線を移す。
「──いかがでしょうか、45号。何か、訂正すべき点は」
黄泉路歩きは答えなかった。
否定もしない。ただエラクの傍らに片膝をついたまま、微動だにせず、闇の中でその輪郭だけを浮かび上がらせていた。
その沈黙こそが、何よりの答えのように、ユイには思えた。
「……あなたは、自分がクローンを追っているつもりなど、ないんでしょうね」
ユイが小さく呟くと、黄泉路歩きはゆっくりと立ち上がった。
「──此奴の始末、任せた」
初めて発した言葉は、それだけだった。
彼はエラクの方を一瞥もせず、踵を返す。着物の裾が闇に溶けるように翻り、次の瞬間には、その姿はもう牢のどこにもなかった。
「……行ってしまいました」
ユイが呆然と呟く。
スクリバは燭台の炎を見つめながら、静かに言った。
「おそらく、タウミエル魔獣研究所へ向かわれたのでしょう。あの場所で今、これまでのどの戦場よりも大きな『何か』が起きている──45号が、それを感知しないはずがない」
その声には、確信めいた響きがあった。
「何かあったのですか?」
「21号に不審な動きが見られます。──そう言えば、悪魔の民族の獣化魔法は、魔獣との関連が疑われていましたね」
確か21号の研究だったはずです。とスクリバは補足する。
「それって、黄泉路歩きがエラクを気にするのも、つまり──」
「私の所感ですが、45号は彼を今回の事件の鍵として見ているのでは?」
意味深な沈黙が牢を支配する。そのとき、エラクが咳込んだ。
「エラク!」
「目が覚めた様ですね」
スクリバは彼のための水と着替えを取りに戻っていった。




