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第十七話 二重思考の果て



 タウミエル魔獣研究所は、静まり返っていた。


 正門は開け放たれたまま、誰の手も入っていない。真鍮の銘板だけが、何事もなかったような顔で西日を照り返していた。


 これほど呆気なく辿り着けたことが、かえってラティウスの警戒を強くさせた。


 正門の前に、白衣の女が一人立っていた。


「──やっぱり、来たね」


 スコリアだった。両手を白衣のポケットに突っ込んだまま、彼女はいつもの飄々とした調子でラティウスを迎えた。だがその声には、以前にはなかった硬さが薄く張りついている。


「……本当に信じられない。いや、信じたくないんだが」


 ラティウスは再支給されたばかりの軍刀の柄に手をかけたまま、間合いを詰めるでもなく、その場に立ち止まった。


「お前が21号に乗っ取られてるって話、黄泉路歩きから聞いた。────どこまで本当だ?」


 スコリアは、しばらく答えなかった。


 その沈黙は、否定するための間ではなかった。何をどこまで話すべきか、言葉を選んでいるような、そんな質の沈黙だった。


「乗っ取られてる、ねぇ……。半分正解で、半分違う」


 彼女は乾いた笑いを漏らす。


「あたしはまだ、ここにいるよ。消されちゃいない。ただ──」


 言葉を切り、自分の胸のあたりを軽く押さえる。まるで、そこに誰か別の者が同居していることを確かめるように。


「──『あたし』が、誰なのか、だんだん分かんなくなるんだ」


 その声には、恐怖でも怒りでもない、奇妙な凪いだ響きがあった。


「もともとあたしたちはアレクトゥスクローンだ。そこにさらに記憶を上書きされて、二重人格ってやつになってさ。最初は抵抗したよ。でも、そのうち気づいたんだ。──あたしの中の『あたし』も、コルテスの中の『あたし』も、どっちも同じくらい、本物らしい顔してる。なら、どっちが本当の143号なわけ?」


「……それがどうした。お前はお前だろうが」


「言うと思った」


 スコリアは薄く笑った。今度の笑みには、どこか哀れむような色が滲んでいた。


「あんたはまだ、そう言い切れるんだね。羨ましいよ、140号」


 その呼び方に、ラティウスの背筋がわずかに強張る。


「──コルテスは、正しいのかもしれない。個も、記憶も、境界なんて最初から曖昧なものだって、あの人はそれを証明しようとしてる。だったら、抵抗する意味なんてある? どうせ、あたしって輪郭は、最初からそんなに確かなものじゃなかったんだから」


 ラティウスは奥歯を噛みしめた。何か言い返そうとして、しかし言葉が出てこない。


 その隙を突くように、スコリアの瞳から、それまでの飄々とした光が消えた。


 代わりに宿ったのは、見慣れた──いや、見間違えようのない、静かな昂揚だった。


「……ま、いいさ。理屈は後で、ゆっくり教えてやるよ」


 声色が、変わった。


「ご機嫌よう、140号」


 もはや隠す気もないその声に、ラティウスは軍刀を抜き放った。


「コルテス──」


 言うと同時に地を蹴る。切っ先が喉元を狙うが、コルテスは半歩引いてそれを躱した。手にした魔鞭が虚空を叩き、紫がかった魔力の波紋が広がる。地面の陰から、継ぎ接ぎのような異形の魔獣ドローンが二体、身を起こした。


「そうだ。アレクトゥスクローンナンバー21。個体名コルテス。こうして話すだけで、お前は私をコルテスと認識した。──そら、これだけで十分ではないか? 同一性など幻想だと」


 ドローンの一体が横合いから牙を剥く。ラティウスは半身を捻って躱すと、返す刀でその首を薙いだ。


「黙れ……」


「いつからだ? アレクトゥスの記憶を転写された我々が、あたかも個性を、自由を手にしたと認識したのは」


 鞭がしなり、もう一体のドローンをラティウスの死角へ差し向ける。彼はマスケット銃を抜き放ち、振り向きざまに魔法弾を撃ち込んだ。獣は声もなく頽れる。


「思い上がりも甚だしい。始めから、我々はアレクトゥスのために捧げられた生贄だ。全ては彼の手の中にある」


「俺は学習を続けている。いずれ──」


 息を整える間もなく、三体目が突進してくる。軍刀で受け止めるが、力任せに押し込まれ、ラティウスの靴底が石畳を擦った。


「アレクトゥスとは違う答えに辿り着き、彼を越える。──なぁラティウス。憐れな140号よ。記憶転写魔法にはブラックボックスがあることを知っているか?」


 ドローンを蹴り離し、距離を取る。荒い息の合間に、ラティウスは吐き捨てた。


「その話は止めろ」


「アレクトゥスは記憶を操る魔法を体系化した。だが記憶というのはとても複雑だ」


 鞭が地を叩くたび、新たなドローンが影から滲み出るように現れる。数が、着実に増えていく。


「脳機能だけじゃない、体中の部位や外部の環境とも相互に作用している。──故に彼はそれをそのままコピーした。中身がどう動いているのか分からないまま結果だけは同じものを出力する魔法を作った」


 四体目が飛びかかる。銃とレイピアを同時に振るい、辛うじて凌ぐ。腕に浅い傷が走った。


「大規模言語模型……」


「その通り。我々はアレクトゥスを学習したそれっぽく動く人形だ。だがそれの何が悪い? こうして他者から見ても区別がつかないのなら、それは真実だ」


 包囲が狭まる。ラティウスは背に汗を滲ませながら、じりじりと後退した。


「詭弁だ。俺には俺の意思がある。そこは否定できない」


「コギト・エルゴ・スムかね? それでは聞くが、一体誰がそれを書き込んだ?」


 鞭の先端が空気を裂き、ラティウスの頬を掠める。細い血の筋が滲んだ。


「普通の人間ならば答えを信仰や信条で誤魔化せる。しかし我々クローンは違う。明確な人物がいる。アレクトゥスだ。──そしてブラックボックスに彼が何か仕込んでいても、誰もそれを監視できない」


「うるさい!」


 叫びとともに、ラティウスは残る力を振り絞って前へ踏み込んだ。軍刀が唸り、目の前のドローン二体を一息に薙ぎ払う。だがその向こうで、コルテスは涼しい顔のまま、鞭を握り直していた。


「さぁ、大人しく君も私を受け入れたまえ。いずれそれが正しかったと理解できる」


 それが最後の逡巡を払った。

 ラティウスは手にした銃とレイピアを地面に落とす。

 その様子に満足したコルテスが彼に近付く。


「次に目覚めるときは、世界が新しく見えるだろう」


 コルテスが伸ばした手を掴んで払い除ける。


「寝ぼけたこと言ってんじゃねーよ。──起きろ」


 驚いた表情の奴の懐に入り込み、屈んだ状態から鳩尾に向けて全力で右の拳を振り上げる。


「がっ──」


 身体が宙に浮くほどのアッパー。

 だがラティウスはさらにコルテスの下顎にもう一度、今度は左拳を減り込ませる。ダメ押しに膝蹴りを腹に打ち込みながら自らも跳び上がった。

 ドゴン、と凄まじい音を立てながら高く吹き飛んだコルテスが地面に落下する。

 さらりと着地したラティウスは地面に落ちた軍刀を拾った。


「武器を落とした程度で軍人に近付いてんじゃねーよ。──どうした、立て!」


 大の字のまま激しく咳込んだ彼女には、21号の気配はなかった。


「ラティウス……。もう──終わらせて」


 仰向けに寝たまま息も絶え絶えに、143号──スコリアは懇願した。


「……それでいいのか?」


 スコリアの喉元にレイピアを突き付ける。


「あたしは、多くの仲間たちをあたしと同じ地獄に落とした。今さら救いは求めないよ」


「──そうか」


「最期に一つだけ。──21号を止めて。彼だって、結局ただのサンクコストの亡霊、なんだから」


「──最初からそのつもりだ」


 スコリアは微かにほほ笑み、ラティウスの刃を受け入れた。

 肉を突く確かな感触が、やけに手にこびり付いて離れなかった。



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