第十三話 他者のような自己自身(idem/ipse)
タウミエル魔獣研究所は、思っていたよりも静かだった。
石造りの外壁は無骨だが清潔に保たれ、正門には控えめな真鍮の銘板が掲げられている。戦地の喧騒を抜けてきた身には、その静謐さがかえって不自然に思えた。
馬車を降りたプラエトルを出迎えたのは、白衣を纏った女──143号、スコリアだった。
「これはこれは、議員閣下自ら足をお運びとは。光栄です」
口調は変わらない。以前顔を合わせたときと同じ、飄々とした若い研究者のそれだ。プラエトルは杖を突きながら、努めて普段通りに頷いた。
「急な訪問ですまんな。少し確認したいことがあってな」
「ええ、閣下ならいつでも歓迎です。どうぞこちらへ」
案内されるまま、プラエトルは施設の廊下を進んだ。片側は分厚い硝子張りになっており、その向こうに研究室が広がっている。魔導計器の並んだ作業台、積み上げられた記録帳、忙しなく行き交う白衣の職員たち。どこにでもある、真面目な研究施設の光景だった。
だが歩みを進めるうちに、老いた胸の奥に小さな棘が刺さるような違和感が募っていく。
何かが足りない。
その正体に思い至らぬまま、二人は応接室に通された。年季の入った革張りの椅子と、埃を被った書棚。窓の外には先ほどの研究室が、変わらぬ角度で見えている。
「所長を呼んで参ります。少々お待ちを」
スコリアが一礼して部屋を出ていく。扉が閉まる音は、思いのほか軽かった。
一人になったプラエトルは、杖の柄に手を置いたまま、窓の外を見据えた。
硝子越しの光景を、もう一度なぞる。作業台、記録帳、行き交う職員──。
そこで、ようやく気づいた。
魔獣が、一匹もいない。
魔獣研究所と名乗りながら、視界に入るどの区画にも、檻の一つ、鎖の一本すら見当たらなかった。研究対象そのものが、この目の届く範囲から徹底して排除されている。
まさか──。
思考が像を結ぼうとしたその瞬間、背後で鈍い音が響いた。
扉の鍵が落ちる音。
振り返る間もなく、天井の通気口から白い霧が音もなく吹き出し始めた。
「魔力封じか……」
ガスを吸い込まないようにハンカチで口と鼻を覆う。気休めだがやらないよりはマシだ。
窓へ駆け寄るがはめ込みであり開けることはできない。
杖で破壊を試みたところ、逆にシャッターが降りてしまった。
残るは入ってきた扉と反対の扉。
こちらは暗証番号式の鍵が付いていた。
懐から常備している粉の喉薬を取り出し、暗証番号のボタンに吹きかける。
付着した形跡からおおよその番号を割り出す。
白い煙は徐々に濃度を増していた。
ボタンを押す指が逸る。
十回目で正解を引けたのか、扉がカチャリと音を立てた。
プラエトルは様子を伺いながら慎重に外に出た。
そこは表向きの研究所とはまるで空気が違う通路だった。
石畳の廊下は、先ほどまでの清潔な研究施設とは似ても似つかない。
壁は継ぎ接ぎだらけのコンクリートが剥き出しで、ところどころに滲んだ染みが黒々と広がっている。それが血なのか、黒い泥なのか、判別する気にもなれなかった。天井から下がる魔導灯は半数近くが消えかけ、明滅するたびに廊下の輪郭が伸び縮みするように歪んで見える。
魔法は使えない。さっきのガスを少し吸い込んだのか、しばらくは無理だろう。
空気は淀んでいた。消毒液の匂いの奥に、獣臭と、もっと生々しい何かが混じっている。
プラエトルはハンカチで口元を覆ったまま、杖を支えに一歩ずつ進んだ。老骨に鞭打つような緊張が、鼓動を早める。
やがて、通路の両側に等間隔で並ぶものが見えてきた。
鉄格子だった。
本来ならば魔獣を収容するための檻なのだろう。床には申し訳程度の藁が敷かれ、隅には錆びた餌桶が転がっている。しかし、その中にいるのは獣ではなかった。
「……っ」
思わず息を呑む。
薄闇の中、うずくまっているのは人の形をしたものだった。一人ではない。両隣の檻にも、さらにその奥にも、同じような影が転がっている。皆一様に虚ろな目をして、壁にもたれかかるか、床に横たわるか、あるいは膝を抱えて小さく震えているだけだった。
誰も声を上げない。
プラエトルが通り過ぎても、視線すら向けてこない者がほとんどだった。
さらに奥へ進むと、通路の中央に立ち塞がる人影があった。照明が消えかけていてよく見えないが、知っている顔であるようだ。
「──115号か?」
プラエトルが声をかけると、焦点の合っていなかった目がギョロリと動く。
「……おれは、だれだ」
ぼう、っと開いた口から零れ落ちるような声だった。
「おれは、わたしは、きみは、おまえは──ダレダアアアアアアッ!」
クローン115号と思われる人物はプラエトルに目もくれず、頭を抱えたまま猛然と走り、そして──そのまま頭から壁にぶつかった。
壁に鮮血が飛び散り、男だったものは床に大股開きで倒れた。
──物音に反応したのか、鉄格子の中から人と思えないような叫びと、檻を揺らす音が通路まで響いてきた。
プラエトルはその騒音に追い立てられるように先に向かった。
第二実験棟。案内板による現在地の名称だ。
とにかく情報が欲しかった彼は、手近な研究室に入り込む。幸い鍵はかかっていなかった。
作業台に無造作に放置された記録帳に目を通す。
とあるファイルに目が止まった。
『アイデンティティ・コリジョン』について──
そのとき、研究室のロッカーから物音が聞こえた。
プラエトルはファイルを一旦机に置き、ロッカーへ近付く。
杖でロッカーの扉を小突くと、中から小さな悲鳴が聞こえた。
「……出て来なさい。危害は加えないから」
ごそごそと様子を伺う気配がする。
「──ホントに?」
プラエトルは溜め息をついた。
「本当だ。飴玉をやろう」
バン、とロッカーが開く。
出てきたのはとても小柄でブカブカの白衣を腕まくりした女性だった。




