第十話 月の夜、悪魔の血に狂う
村へ続く坂道を下るにつれ、焦げた臭いが鼻先を掠めた。
最初は錯覚かと思った。だがストルオ5世の足がぴたりと止まり、その横顔から血の気が引いていくのを見て、ユイは覚悟を決めた。
坂の下、フェリクス村はすでに輪郭を失いかけていた。
赤茶けた瓦張りの屋根から黒煙が幾筋も立ち上り、夕暮れ前の空を汚している。井戸端の桶は転がり、先ほどまで笑い声が響いていたはずの通りには、割れた甕と、誰のものともわからない足跡だけが残されていた。
悲鳴が、遠くから届く。
一つではない。幾重にも重なり、やがて一つの塊のようになって空気を震わせていた。
「──っ、兄さん……!」
ストルオが声を詰まらせ、駆け出そうとする。ユイは咄嗟にその腕を掴んだ。
「待って。闇雲に飛び出しても、何もできません」
自分で言いながら、声が震えているのがわかった。頭では冷静さを保とうとしているのに、目の前の光景がそれを許してくれない。
村の広場に、人影の群れが見えた。
毛皮と鋼が入り混じった異形の輪郭。悪魔の民族だ。噂には聞いていたが、実際に目にするのは初めてだった。彼らは手際よく、しかし遊ぶように村人たちを追い立てている。
その中央で、縄を打たれた女性たちが数珠繋ぎに引き立てられていくのが見えた。
「……噂を、聞いたことがあります」
連れ去られる彼女たちから視線を外さずストルオが小声で話す。
なんでも悪魔の民族は侵略したあちこちで人攫いを行っているらしい。どうも民族単位で、いわゆる交雑を積極的にしているそうだ。攫われた後に数年経って解放され帰ってきた例もあるらしい。
「ずいぶん悪辣な誘拐じゃない。子供を産むことを強制しているのでしょう?」
ユイは憤り、決意する。
「助けましょう。ほうってはおけない」
機を伺うため二人は近くの民家に隠れる。内部は荒らされ、家主であろう男は殺されていた。
無惨な死体に視線を釘付けにされながら、ポエナがなぜあんなアドバイスをしたのかユイは思案する。
すると、奥の部屋から子供が二人出てくる。
「ユタ! 無事だったのか──その子は?」
ユタ少年の隣にはボロ布を纏った褐色の男の子がいた。無言のままユイを睨みつけ、口を利く様子はない。
どうやら村の子ではなく、どこからか迷い込んだらしい。
「ストルオにいちゃん。母ちゃんが、連れてかれちゃった」
ユタは泣いていたが、必死で状況を伝えようとしていた。
村の外れに悪魔の野営地があり、攫われた人達はそこにいるらしい。
まだ村には獣兵がうろついているため、子供二人を置いて行くわけにもいかず、一行は慎重に野営地へと向かった。
幸い見つかることはなかったが、すでに日は落ち月が出ていた。
野営地は松明が煌々と焚かれ、その一角に捕虜を収容する簡易的な木の牢屋があり、捕虜が縄で繋がれていた。
食事時のようで、中央の焚き火に兵士たちが集まって略奪した食料を食べている。
獣兵の会話が断片的に聞こえてくる。
「──次はルーペス砦だな」
「だがあそこは難攻不落。攻略には一月はかかるぞ──」
暗闇に紛れ、ユイは牢に近づく。簡易的な拘束であれば壊すのは簡単そうだった。
しかしそれを褐色の男の子が制止した。
「やめておけ。なにを企むかと思い泳がせたが、力もなく、策もなく、この先に踏み込めば、待っているのは死だ」
あなたは、一体……。と、ユイは困惑する。
「どうしてここまでスムーズに潜入できたと思っている? 当然、オレの手引きだとも。だが無駄だったな。まさか何も考えていないとは」
パチリと手を叩くと、見張りの獣兵が駆けつける。獣兵は褐色の男の子をエラクと呼んだ。
「エラク。我が長よ。そいつらをどうするんだ?」
「男二人は殺せ。女は、好きにしろ」
エラクの指示に獣兵が沸き立つ。
ストルオがユタを庇い後ろに下がるが、岩壁に阻まれ逃げ場がなかった。
「──相も変わらず。やることに新鮮さがないねぇ。あなたたちは」
野営地に氷のような声が響く。視えない斬撃が獣兵を襲った。
「貴様! 何者だ!」
エラクは姿を視せない襲撃者に怒りながら問う。
「私が何者か、かぁ。なかなか哲学的な問いをするね。どのみち、あなたたちは私を視ることはできないよ」
「なに──?」
その意味を考え込むと、やがて口端から笑いが溢れる。
「──くくくっ、ふっふっふっ、ハーハッハッ! そういうことか! よくぞここで出会った、英雄──いや、今は魔女か。さぁ、全ての因縁にケリをつけるぞ」
褐色の男児だった容姿は、しかし瞬く間に巨大化し、漆黒の毛並みと鋭い牙をもつ怪獣へと変化していく。
だが声の主──ポエナの返答は冷たかった。
「──生憎と、今の私はあなたたちが求めている存在じゃないし、あなたと戯れる気はないの。それにほら、そんなに興奮すると、出ちゃうわよ? あなたの一族の宿痾が」
「!? ──がっ!」
血気盛んだったエラクが突如血を吐く。
周囲の獣兵にも動揺が広がった。
「エラク!」
「貴様──なにを、した……!」
苦しみに胸を抑えながら、黒い巨獣は視えぬポエナに殺意を向ける。
「なにも──ただ、あなたが私という天敵に出会った危機感が、血の暴走を誘発しただけ」
「相対することさえ、できないというのか……!?」
その慟哭は伝搬し、獣兵すら絶望に包まれる。
エラクの目の奥に赤い光が宿り始めている。事態が呑めず立ち尽くしていたユイ一行も、それが危険な兆候であることは本能で理解した。
「グッ──お、オオオオオオオッ!」
それは聞くもの全てを恐怖に落とす雄叫び。エラクの仲間たちすら、助けに入るか逃げ出すか迷っている。
「このまま暴走すれば全てを鏖殺するまで止まれない。でも私という危機が去れば暴走は収まるわ。一つだけ約束をしなさい。それで私は引いてあげる」
「ナっ、に──を……!?」
「ユイさんとの交渉に応じなさい。私からの要求はそれだけ。──もう行くわ。すでに干渉しすぎているの」
消えかかるポエナの気配に、ユイは慌てて引き留める。
「ポエナさん! ありがとうございます! その、本当は関わるつもりは無かったんですよね? だから──」
「──そうね。結局無理やり干渉してしまった。でもわかったことがある。厄災の封印は解けていない。あれは……私が責任を持って管理するから、心配無用よ」
ユイの頭の中はハテナで埋め尽くされた。ポエナはストルオがもう少し頼りになれば出てこなかったのに。なんて軽口とも言える愚痴をこぼした。
「とにかく、ユイさんは自分の物語に専念すること、いいわね?」
有無を言わさぬ物言いに、ユイは頷くしかなかった。
フッ、と魔女の気配が消える。
エラクの姿は褐色の男児に戻り、乱れた息を整えていた。
「エラクさん──で、いいのですよね? 私はユイ。在野でアスト・ラナ教の研究をしています。──お話を聞いて頂けますか?」
エラクは額の汗を拭い、舌打ちをしながらも提案を了承した。
こうしてエラクとの交渉の結果、ルーペス砦の隠し通路に案内する代わりに捕虜に手を出さないこと、隠し通路の確認が取れたら捕虜含め村を解放することを約束したのだった。
……。
「──そこでおとなしくしているがいい。追って沙汰がくだるだろう」
全てをプラエトルに話終えたユイは、彼の事務所地下にある牢に入れられた。
簡素なベッドに腰掛け一息つく。ルーペス砦のあと、エラクはどうなったのだろうか。ユイは牢の小さな窓の外を見つめながら想った。




