最終話:オリオン座が結んだ未来
目を瞑りながらゆっくりと深呼吸をした。
それを数回繰り返してようやく気を落ち着けることができた。
そしてようやく決心を固めて瞼を持ち上げた。
——実に、衝撃的な光景だった。
普段は意識していなかったけど、空の上にはこんな光景が広がっているんだ……。
圧倒的なまでの光の集合。
一粒一粒は決して強い輝きではない。しかしその小さな燐光が空一面に散りばめられることによって闇をその煌々たる様相へと変化させていた。
先ほどの望遠鏡の光景も目を見張るものであったが、この頭上の情景には遠く及ばなかった。
達也は先ほどの強張りも解けて眼前の星の海に見入っていた。
「すごい……」
「ね、簡単だったでしょ?」
すぐ後ろから声をかけられた。未来だ。
達也ははっとした。
気がつくと彼女の手はもう達也の頭にはなく、彼の双肩へと移っていた。そこから未来の重みが伝わってくる。それが心地良く感じられた。
「星を眺めるなんて今まであまりしたことなかったけど、すごく素敵だね。僕はこれからもずっと星を見ていたいな」
それを聞いた未来はしばらく何も応えなかった。
慌てて振り返ったが、その口元は上向きの曲線を描いていたので達也は安心した。
「……なら、星座を覚えてみるっていうのはどう?」
「星座か……そうだね。ただ空を眺めるだけでも飽きることはないと思うけど、僕は空のこと、星のことをもっと知ってみたい。未来は何か知ってる?」
「うーん、星座か……あっ、ひとつだけ知ってる!」
そう言って大きく光っている星の位置を「えーとね、あれと……あれと……」と順番に指し示した。
「……それに、あれを繋ぐの! ほらっ、わかる?」
「うん」
「あれはね、オリオン座っていうんだよ」
「オリオン座……」
「わたしね、お星さまのことはよくわからないけど、オリオン座だけは知ってるの。だってね、ほかの星座とはちがって見つけやすいの。それにとってもきれい!」
説明しているうちに達也と同様に星の輝きに魅了されたせいか、未来の口調はいつものそれよりも少しだけ子供っぽくなっていた。彼の前では歳上のお姉さんらしくあろう、という普段の気持ちはすっかりなくなってしまっていた。
そして無邪気に、一切のためらいもなく、彼女の望みを口にした。
「十年後も、そのもっと将来も、こうして一緒に星を眺めようね」
それだけ言うと、彼女は達也の顔から視線を外し、再び天体観測へと戻った。
——十年後も、そのもっと将来もこうして一緒に星を眺めようね。
そう、
「今日がその十年後だったんだな」
達也は未来に問いかける。
「覚えていてくれてたんだね」
「さっきまで忘れていたんだけどね。恥ずかしい限りだよ」
「でも、思い出してくれた」
未来は嬉しいような寂しいような、そのような複雑な表情をしていた。達也にわかったのは彼女の目元が涙で滲んでいたということだけであった。
「それで、未来に伝えたいことがあるんだ」
「うん、聞くね。それに、実は私も達也くんに伝えたいことがあるんだ」
「わかった。聞くよ」
達也は決意を固めた。
十年後も一緒に星を見る。その約束を未来は守ってくれた。
これは彼女なりのけじめだったのだろう。高校生活の最後に後悔しないため、これからの未来へと一歩進むために必要なことだったんだ。
ならば俺も決心しなければ。
今までの優しく穏やかな時間を壊してしまうかもしれないけれど。
すでに好きな人がいる未来の心を損なってしまうかもしれないけれど。
だってこれが俺の最後なのだから。
「俺はさ、未来と出会うまで本当に内気で臆病な人間だったんだ。だから親に引っ越しと転校をしなきゃいけないって聞いた時は嫌で嫌でたまらなかったんだ。布団にくるまってこっそり泣いたこともあったっけな。だけど今ではこっちに引っ越してきて心の底から良かったと思うよ。だって未来に会えたんだから」
未来は何も言わずそっと達也の告白を聞いていた。
手に持っていた懐中電灯は二つとも地面に向けられていたので彼女の表情をうまく読み取ることができない。
掌を汗が伝う。そのせいで気を抜いたら懐中電灯を落としてしまいそうなくらいだった。
それにやけに心臓の音がうるさい。
でも、
それでも続けなければ。これからのために。
「こっちに来てからは毎日が楽しかった。未来はいつも俺を引っ張って色々な世界を見せてくれた。そして天体観測という自分が本心から好きだって思えることを見つけられたんだ。だから……」
だから……。
「未来、君のことが好きなんだ」
その台詞を聞いた未来の影が大きく揺れた。しかし暗いせいで彼女の様子を伺うことができない。暗闇を裂く数々の流星が一瞬彼女の顔を照らしたように錯覚させるだけであった。
けれど、達也は構わなかった。彼はそのまま続けた。
「好きだ。けれど別に付き合って欲しいとかそういうわけじゃない。未来に好きな人がいるっていうのは知ってるから。ただ、俺も後悔したくない、そう思ったから……」
「ばかっ」
言葉を続けようとした彼を未来が遮った。それは普段の彼女から想像のつかない怒りを含んだ声であった。
「えっ、馬鹿?」
「そう、ばか!」
予想外の返答に彼は面食らった。彼女は怒り心頭といった様相だ。思わず懐中電灯を上に向けると未来の顔が明らかとなった。
彼女の顔は濡れていた。
「私、あの時言ったよね、高校生活最後の年だから後悔しないようにがんばるねって」
「あ、ああ」
「そんなとき、たまたま今日が十年目ってことを思い出して、オリオン座に勇気を借りればがんばれるかなって思って誘ったのに」
「ということは……」
「そう。私ね、好きな人ができたんだ。その人は……」
未来は右手を上げた。そしてある方向を指差した。
その先には……。
「達也くん、あなただよ」
達也がいた。
彼はあまりの衝撃に何も言葉を発することができないでいた。
「ちょっとー、達也くん何か言ってよ。恥ずかしいんだけど、私」
未来は身体をもじもじさせて言った。この暗さでは顔色はわからないが、きっと真っ赤なのだろうと達也は思った。そんな彼の顔も真っ赤であった。
「あ、ああごめん。あまりの衝撃で……」
「もう格好つかないなー。まあそれが達也くんらしいといえばらしいんだけど」
未来は口元に手を当てて笑った。いつもの彼女であった。
ひとしきり笑った後、彼女は居住まいを正した。
そして、告げる。
「じゃあ、もう一回聞くね?」
未来はすぅと息を吸って、あの時と同じ質問を投げかけた。
「達也くん、あなたは私の恋を応援してくれる?」
当然、彼の回答はとっくに決まっていた。
達也は未来に一歩、また一歩と近づいた。
彼女の目の前に立つと、おもむろに彼女を抱きしめた。そして問いに対する返事をした。
「ああ、もちろんだ」
その瞬間、星々の流れが一層激しくなった。
まるでこれからの二人を祝うかのように。
結局、アルテミスの放った矢がオリオンに命中することはなかった。
外れた矢の軌跡は、二人の未来を導いていた。
未来と俺を結んでくれたオリオン座に感謝を。
達也は腕の中に彼女の体温を感じながら空を見上げる。
彼の動作を見た未来もそれに倣った。
しばらく二人は夜空を見上げていたが、やがていつの間にか互いが顔を見合わせる形となっていた。
どちらからともなく瞼を閉じる。
そして穏やかに自分らを結んでくれた光の連なりへと祈りを捧げた。
達也と未来、二人のやり方で。
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