美しさを奪う術
晴明の屋敷へ戻った頃には、すっかり日が落ちていた。
昼間なら珍しそうに都を眺めていた源一郎も、帰り道ではほとんど寄り道をしなかった。頭に残っているのは、鏡の奥に積み重なっていた鼻や唇、髪の残像と、庭の木の下で見た若い女の顔だった。
まだ18歳だったという。
昨日まで普通に働いていた女が、一晩で顔を傷つけられ、そのまま命を絶った。
92年生きてきた源一郎でも、あの光景は簡単には頭から離れそうになかった。
屋敷へ入ると、晴明はそのまま仕事部屋へ向かった。
問題の鏡も、依頼人の許可を得て持ち帰っている。
女の妖怪そのものは消えていたが、鏡にはまだ大量の妖気と執着が残っているらしい。紫苑が結界で幾重にも包み、その上から厚い布を掛けて運んできた。
「そこに置いてください」
晴明に言われ、紫苑が部屋の中央へ鏡を下ろす。
「はぁ、重かった」
源一郎が紫苑を見る。
「片手で持っとったじゃろ」
「あら、見てたの?」
「見れば分かる」
「源ちゃんが持ってくれてもよかったのに」
「頼まれれば持ったぞ」
紫苑の目が楽しそうに細くなる。
「じゃあ次からお願いしよ」
そう言って、当然のように源一郎の腕へ絡みついた。
柔らかな感触が腕に当たり、源一郎の視線が一瞬だけ下へ落ちる。
紫苑は見逃さない。
「源ちゃん」
「なんじゃ」
「ちょっと元気になった?」
「何の話じゃ」
「帰ってくるまで、ずっと難しい顔してたから」
からかっているような口調だったが、目は少しだけ優しかった。
源一郎はそれに気づき、短く息を吐く。
「……まあ、少しな」
「ならよかった」
紫苑はそれ以上は何も言わず、源一郎の腕から離れた。
少し離れた場所で見ていた晴明が、鏡の横へ腰を下ろす。
「2人とも、遊ぶなら後にしてください」
「遊んどらんぞ」
「私は少し遊んでた」
「紫苑」
晴明の声に、紫苑は悪びれもせず肩をすくめた。
源一郎も少しだけ笑う。
胸に残った重さが消えたわけではない。それでも、この2人といると考え込みすぎずに済むらしい。
「それで晴明。その鏡から何が分かる?」
晴明は頷き、鏡を覆っていた布を外した。
鏡面は静かだった。
あの女の姿はもうどこにもない。ただ、じっと目を凝らせば、その奥に鼻や唇、目元、長い髪といった残像がまだ薄く積み重なっている。
源一郎はわずかに眉を寄せた。
何度見ても気分のいいものではない。
晴明は鏡を裏返した。
木枠の裏には、細かな線と文字がびっしりと刻まれていた。源一郎にはただの複雑な模様にしか見えないが、晴明と紫苑の表情を見る限り、かなり込み入ったものらしい。
「随分ごちゃごちゃしとるな」
「術式です」
「それくらいは分かる」
「では何の術か分かります?」
「分からん」
「でしょうね」
「お前さん、最近儂の扱いが雑じゃないか?」
晴明は返事をせず、灯りを鏡へ近づけた。
紫苑も晴明の横へ座り、術式を覗き込む。
「結界じゃないわね」
「ええ」
「封印でもない」
「違います」
2人だけで話が進み始めたので、源一郎は腕を組んだ。
「儂にも分かるように話せ」
晴明は術式から目を離さないまま答える。
「簡単に言えば、何かを抜き取るための術です」
「何をじゃ?」
「それを今見ています」
晴明は紙を取り出し、筆で鏡の裏に刻まれた術式を書き写していく。
一部を書いては線を追い、別の場所と繋げる。
源一郎はしばらく横で眺めていたが、途中から何をしているのか完全に分からなくなった。
「これは儂には無理じゃな」
「諦めるのが早いですね」
「分からんものを分かったふりする方が時間の無駄じゃ」
晴明の手が一瞬止まった。
「それは正しいですね」
「じゃろ?」
源一郎は満足そうに座り直した。
やがて、晴明が筆を置いた。
「源一郎」
「なんじゃ?」
「鏡の中に残っていたものを思い出してください」
「鼻、口、髪、目の辺り……そんなところじゃな」
「共通しているものは?」
源一郎は少し考えた。
「どれも綺麗なもんばかりじゃった」
晴明が頷く。
「この術は、人間の身体そのものを奪うためのものではありません」
「では?」
「その人間が持つ性質を抜き取る術です」
源一郎の眉が寄る。
「性質?」
晴明は自分の髪に触れた。
「例えば、艶のある美しい髪。髪そのものを切り取るのではなく、それを美しく見せているものだけを抜く」
次に鼻筋を指す。
「整った鼻であれば、その形を美しく見せている特徴を奪う。肌の白さ、目元の印象、唇の形も同じです」
「そんなことができるのか?」
「普通はできません」
今度は紫苑が口を挟んだ。
「少し呪術を覚えた程度じゃ絶対無理ね。人の見た目を一時的に変えるくらいならともかく、美しさだけ抜くなんて面倒すぎるもの」
源一郎は改めて鏡を見る。
「では、あの女は……」
晴明が静かに答えた。
「この術の被害者だった可能性があります」
部屋の空気が少し変わった。
源一郎の脳裏に、鏡から現れた女の姿が浮かぶ。
長い髪に隠れた顔。
何度も繰り返していた言葉。
――返して。
晴明は術式の一部を指先でなぞった。
「元々は美しい女だったのかもしれません。そして何らかの理由で、この鏡を使った」
「使うたびに美しさを取られた?」
「恐らく」
「奪ったものは、どこへ行く?」
晴明が鏡の裏側を指す。
術式の一部が途中で途切れていた。
他の部分は複雑に繋がっているのに、そこだけが不自然に切れている。
「ここから先へ流れるように作られています」
「誰かに渡していたということか?」
「その可能性が高い」
「誰に?」
晴明は首を横に振った。
「分かりません」
「術を辿れんのか?」
「辿れないようにされています」
源一郎の目が細くなる。
晴明は指先で途切れた箇所を示した。
「壊れているのではありません。ここだけ意図的に消されている」
紫苑も顔を近づけて確認する。
「本当ね。しかも綺麗に消してる」
「自分がやったと分からんようにしたわけか」
「そう考えるのが自然でしょう」
源一郎はしばらく黙って鏡を見つめた。
美しさを奪う。
別の誰かへ送る。
そして自分の痕跡だけは消す。
随分と手の込んだことをする。
「こんな術を使える奴は多いのか?」
晴明はすぐには答えなかった。
一度術式全体を見渡してから、静かに口を開く。
「限られます」
「どれくらいじゃ?」
「私が知る者の中なら、片手で足ります」
源一郎の表情が変わった。
「そんなに少ないのか」
「外見を少し変えるだけなら、もっといます。しかし他人の美しさだけを抜き取り、長期間保存し、それを別の者へ移す。さらに自分の痕跡まで消すとなれば、話は別です」
「晴明ならできるのか?」
晴明は少しだけ眉を上げた。
「できます」
源一郎が晴明を見る。
「できるんかい」
紫苑が吹き出した。
「源ちゃん、相手は安倍晴明よ?」
「有名なのは知っとる。じゃが、どの程度すごいのかは知らん」
「今さらですね」
晴明が少し不満そうな顔をする。
源一郎はまじまじと晴明を見た。
27歳。
夜になれば酒を飲み、女たちから次々と声をかけられる。部屋では服を脱ぎっぱなしにし、紫苑には私生活を好き放題暴露されている。
そのくせ、術の話になると途端に底が見えなくなる。
「お前さん、結構すごい奴なんじゃな」
「結構、ですか」
「褒めとるぞ」
「もう少し敬意があってもいいと思います」
「嫌じゃ」
「なぜです?」
「敬って距離を置いたら、また生前と同じになるじゃろ」
源一郎が当然のように答えると、晴明は少し黙った。
その横で紫苑が楽しそうに笑っている。
「源ちゃん、晴明の扱いだけどんどん雑になってない?」
「仲良くなった証拠じゃ」
「勝手に決めないでください」
源一郎は笑った。
だが、すぐに表情を戻す。
「晴明でもできるほどの術なら、余計に厄介じゃな」
「ええ」
晴明の声も仕事のものへ戻った。
「それに、気になる点がもう1つあります」
「まだあるのか?」
「この術は、妖怪を生み出すために作られたものではありません」
源一郎は腕を組んだ。
「人の美しさを奪うための術だったからか」
「そうです」
晴明が頷く。
「あの女が妖怪になったことは、術者にとって予定外だった可能性があります」
紫苑が鏡へ視線を向ける。
「美しさを奪われ続けて、そのまま死んだ。その恨みが鏡に残ったのね」
「ええ。そして最初は、自分のものを返してほしかっただけだったのでしょう」
晴明の声は淡々としていた。
「しかし長く鏡に縛られ、美しい人間を見るたびに、自分にはもうないものを見せつけられる。その執着が少しずつ形を変えた」
「自分が持っていないなら、他人も持つな……か」
源一郎は低く呟いた。
そして、庭の木の下で見た若い女の顔を思い出す。
頬を走る爪痕。
執拗に壊された鼻。
鏡の中には、その鼻の残像が鮮明に残っていた。
「最初は被害者。それが、次の被害者を作った」
「そういうことになります」
晴明の言葉に、源一郎はしばらく黙った。
やがて小さく息を吐く。
「やったことまで庇う気はないが、胸糞の悪い話じゃな」
「私もそう思います」
晴明は否定しなかった。
紫苑が源一郎の横へ座り直す。
「源ちゃん」
「なんじゃ?」
「人間の方が怖くなった?」
源一郎は少し考えてから、首を横に振った。
「92年も人間をやっとったんじゃぞ」
「ふふ。それもそうね」
「人間がろくでもないことをするのは知っとる」
源一郎は鏡を見る。
「じゃが、ろくでもない奴ばかりじゃないことも知っとるよ」
紫苑は一瞬だけ黙った。
それから、少し嬉しそうに源一郎の腕へ身体を寄せた。
柔らかな感触が当たる。
「やっぱり源ちゃん、好きかも」
「急じゃな」
「今のはちょっと格好よかった」
源一郎は紫苑を横目で見る。
「まあ、悪い気はせんな」
「あら、ずいぶん素直になったじゃない」
「2度目の人生じゃからな。嫌でもないことを嫌と言うのはやめた」
「じゃあ、もっとくっついてもいい?」
「好きにせい」
「本当に?」
紫苑がさらに腕を絡める。
源一郎は逃げなかった。
晴明が2人を横目で見る。
「仕事中なんですが」
「晴明、細かい男は嫌われるぞ」
「源一郎まで紫苑の真似をしないでください」
紫苑が楽しそうに笑った。
「妬いてるのよ、源ちゃん」
「妬いていません」
「その返し、何度目じゃ?」
「数えていません」
源一郎の笑い声が部屋に響いた。
しばらくして、晴明は再び術式へ向き直った。
その後も何枚もの紙へ線を書き写し、術の流れを確かめていく。源一郎は途中から完全に理解することを諦め、紫苑と並んで茶を飲んでいた。
やがて晴明が筆を置いた。
「これ以上は、今夜調べても分からないでしょう」
源一郎が顔を上げる。
「術を使った奴は?」
「分かりません」
「何も残っとらんか」
「決定的なものは」
晴明は書き写した術式へ視線を落とした。
「ただ、これほどの術が使える者は限られる。それだけは覚えておきます」
「探すのか?」
「今すぐには」
源一郎には少し意外な答えだった。
「追わんのか?」
「手掛かりがない状態で探しても意味がありません。それに、これほどの術者なら、こちらが自分を探っていることに気づく可能性もある」
「慎重じゃな」
「源一郎が大胆すぎるんです」
「儂なら知っとる奴に片っ端から聞くが」
「だから源一郎には任せません」
紫苑が笑う。
「源ちゃんなら最後は怪しい人を投げそうだもの」
「話を聞くだけじゃ」
「地面に寝かせて?」
「場合による」
「やめてください」
晴明が即座に答えた。
源一郎は楽しそうに笑う。
「まあ、この手のことは晴明に任せる」
「珍しく素直ですね」
「分からんことは、分かる奴に任せればいい」
源一郎はそう言って茶を口へ運んだ。
だが、鏡からは目を離さなかった。
「ただな、晴明」
「なんです?」
「こんな面倒な術を作る奴が、これ1つで終わると思うか?」
晴明は答えない。
源一郎は続けた。
「人から美しさを奪って、それをどこかへ送る。しかも自分の痕跡まで消しとる。試しに1回やって終わり、という感じには見えん」
晴明の目がわずかに細くなる。
「私も同じ考えです」
「なら、そのうちまた出てくるじゃろ」
「随分気楽に言いますね」
「出てきた時に考えればいい」
源一郎は腰の妖刀へ手を置く。
「妖怪なら妖怪と話す。人なら人と話す。それでも駄目なら止める」
晴明が刀へ向いた源一郎の手を見る。
「話をする人の姿勢ではありませんね」
「癖じゃ」
「源ちゃんらしくていいじゃない」
紫苑は源一郎の肩へもたれたまま笑う。
源一郎もつられて口元を緩めた。
誰が鏡へ術を施したのか。
奪われた美しさは、誰へ送られていたのか。
何のためにそんなことをしたのか。
今はまだ、何ひとつ分からない。
ただ、晴明でさえ「できる者は限られる」と言った。
それだけで十分だった。
相手はどこかにいる。
なら、いつかまた痕跡を残す。
源一郎は残っていた茶を飲み干した。
「ところで晴明」
「なんです?」
「今日はもう仕事は終わりか?」
晴明は一瞬、何を言われたのか分からないという顔をした。
「……一応は」
源一郎の表情が明るくなる。
「なら遊ぶか」
「切り替えが早すぎませんか?」
「仕事は終わったんじゃろ?」
「今まで何を調べていたと思っているんです」
「鏡じゃな」
「そういう意味ではありません」
紫苑が楽しそうに笑う。
「いいじゃない晴明。源ちゃんは死ぬまで真面目に生きたんだから」
「そうじゃ」
源一郎は立ち上がった。
「2度目まで仕事ばかりやっとれるか」
晴明はそんな源一郎をしばらく見つめていた。
やがて、諦めたように小さく息を吐く。
「……酒だけですよ」
源一郎の目が輝く。
「十分じゃ」
紫苑もすぐ立ち上がり、当然のように源一郎の腕へ絡みついた。
「行こ、源ちゃん」
「お前さんも来るのか?」
「もちろん」
晴明は散らばった紙を片付けながら首を振った。
「遊びを教えるつもりだったのに、もう私より楽しんでいる気がします」
「先生がいいからじゃろ」
「誰が先生ですか」
「遊びの師匠じゃ」
「その呼び方はやめてください」
3人の声が、夜の屋敷に響いた。
鏡に残った謎は、まだ何ひとつ解けてはいない。
それでも源一郎は急がなかった。
90年以上生きた経験が教えている。
隠し事というものは、無理にこじ開けようとすると余計に奥へ逃げる。
だが、同じことを繰り返す人間は、いつか必ずどこかに跡を残す。
その時に見つければいい。
今夜は酒を飲む。
2度目の人生は、まだ始まったばかりだった。




