鏡が奪ったもの
女の姿が完全に消えても、倉の中にはしばらく冷たい空気が残っていた。
壁際を這っていた黒い靄は薄れ、紫苑が張っていた結界の光も少しずつ消えていく。先ほどまで女の悲鳴が響いていたとは思えないほど、辺りは静かだった。
源一郎は妖刀を鞘へ収めると、右腕を軽く振った。
「やはり少し重いのう」
女を斬る前と比べれば、ほんのわずかな違いだ。普通の人間なら気づかなかったかもしれない。だが、何十年も剣を握り続けてきた源一郎には、その違いがはっきりと分かった。
晴明が刀へ視線を落とす。
「妖気がまだ残っています。屋敷へ戻ったら、もう一度調べましょう」
「頼む」
源一郎が答えると、晴明は再び割れた鏡の前へしゃがみ込んだ。
女の妖怪はもういない。
曇った鏡面には、倉の天井と、その前に立つ3人の姿が薄く映っているだけだった。
「これで終わりか?」
源一郎が聞く。
晴明はすぐには答えなかった。鏡の裏側には、古い傷のような細かな線がいくつも刻まれている。だが自然についたものではないらしく、晴明は指先でその一部をなぞりながら、じっと見つめていた。
「……まだ分かりません」
「妖怪は消えたんじゃろ?」
「ええ。少なくとも、先ほどの女の気配はもうありません」
後ろから紫苑が鏡を覗き込む。
いつものような笑顔はなく、細い目がわずかに鋭くなっていた。
「でも、これ変よ」
「何がじゃ?」
「普通なら、本体を祓えばもっと綺麗になるの。妖気も執着も、少しずつ薄くなっていく。でもこれは――」
紫苑は言葉を止めた。
その直後だった。
鏡面が、わずかに揺れた。
風は吹いていない。それなのに、水面へ一滴の水を落としたような波紋が鏡の中央から広がっていく。
源一郎は眉を寄せた。
「晴明」
「見えています」
晴明が静かに答える。
やがて、鏡の奥に白いものが浮かび上がった。
最初は何なのか分からなかった。
輪郭がぼやけ、霧の中に何かが沈んでいるように見える。
源一郎が目を細める。
「……鼻か?」
細く整った鼻筋だった。
だが、顔はない。
身体もない。
鼻だけが、何かから切り取られたように鏡の奥へ浮いている。
その横から、今度は唇が現れた。
薄く紅を差した、美しい形の唇。
さらに長い黒髪が、暗い水の中を漂うようにゆっくりと流れてくる。
「なんじゃ、これは……」
源一郎の声から、先ほどまでの軽さが消えた。
今度は目元が現れた。
長い睫毛と、綺麗に整った眉。
それも目そのものは見えない。
美しいと感じられる部分だけが、そこに残されていた。
1つではない。
その奥から、また鼻が浮かんでくる。
唇。
髪。
目元。
白い頬。
次から次へと、鏡の奥から現れる。
やがて、それらは重なり始めた。
幾つもの鼻の上へ長い髪が折り重なり、その隙間から唇や目元が覗いている。
血はない。
肉の色もない。
どれも半透明で、煙のように淡い。
それなのに、ひとつひとつが誰かのものであったことだけは、嫌というほど伝わってきた。
「……多いな」
源一郎が呟く。
数えられる量ではなかった。
鏡の底に、美しいとされた部分だけが幾重にも積み重なっている。
まるで――。
「山じゃな」
誰かの美しさだけを集めて作った、小さな山だった。
紫苑の顔からも完全に笑みが消えていた。
「この鏡、ここへ来てからだけじゃないわね」
晴明が頷く。
「この屋敷へ運び込まれたのは6日前。それだけで、これほど多くの残滓が溜まるとは考えにくい」
「残滓?」
源一郎が聞く。
「実物ではありません」
晴明は鏡面を見つめたまま答えた。
「恐らく、この鏡に残った記憶です」
「鼻や髪の記憶か?」
「正確には、それを美しいと思った感情でしょう」
晴明が鏡の中を指す。
「綺麗な鼻を見て、欲しいと思った。長い髪を見て、妬んだ。整った顔を見て、自分にはないことが許せなかった。その執着だけが、鏡に焼きついている」
「だから壊したのね」
紫苑が静かに言った。
源一郎は何も答えず、鏡の奥を見続けていた。
90年以上生きてきた。
嫉妬する人間も見てきたし、人の才能や金、地位、容姿を妬む者も何人もいた。
だが、これはそれとも少し違う。
ここにある鼻も、目元も、髪も、その人間自身として残されているわけではない。
ただの「美しい部品」として集められている。
「随分と歪んどるな」
源一郎の低い声が倉に響いた。
その時だった。
鏡の奥に積み重なった残像の中で、ひときわ鮮明なものが目に入った。
細く整った鼻だった。
他のものより輪郭が濃く、新しい。
源一郎が顔を近づける。
「晴明。これだけ妙にはっきりしとるぞ」
晴明も気づいた。
「新しいのでしょう」
その言葉で、源一郎は依頼人の話を思い出した。
――昨夜、倉を確認した者が1人、倒れました。
「昨日倒れた者か?」
「可能性があります」
紫苑も鏡を見つめる。
「生きてるのよね?」
「依頼人の話では、まだ」
源一郎はもう一度鏡を見る。
女の妖怪はどこにもいない。
だが、あの女が何度も口にしていた言葉だけが、頭の中に蘇った。
――返して。
源一郎の眉が寄る。
「……美しさか」
晴明が振り向いた。
「何がです?」
「あの女が言っとったじゃろ。返して、と」
晴明も鏡の中を見る。
鼻。
唇。
目元。
髪。
どれも美しいとされるものばかりだった。
晴明が小さく呟く。
「私の美しさを返して……」
紫苑が腕を組む。
「自分が失ったから、他の人が持っているのが許せなくなったのね」
源一郎は少し考えたあと、首を横に振った。
「それだけかのう」
「どういう意味です?」
「人間があそこまで壊れるには、大抵何かある」
源一郎は長い人生の中で、それを何度も見てきた。
最初から壊れている人間など、そう多くはない。
何かを失った。
誰かに傷つけられた。
追い詰められた。
そこから少しずつ歪んでいく。
「誰かに何かされたんじゃないか?」
晴明は答えなかった。
代わりに、鏡の裏側へ刻まれた細かな術式へ視線を落とした。
自然に生まれたとは思えない。
誰かが、この鏡に手を加えている。
そんな気配だけが、そこに残っていた。
倉を出ると、外の空気が妙に暖かく感じられた。
依頼人は3人を見ると、ほっとしたように何度も頭を下げた。
「晴明様、本当にありがとうございました。これでもう、あの倉から声が聞こえることも……」
「鏡については、まだ調べます」
晴明はそう答えた。
依頼人の表情に一瞬不安が戻ったものの、女の妖怪が消えたことには変わりない。少なくとも、今夜またあの声に怯えることはないだろう。
源一郎たちは見送られながら、庭を通って門へ向かった。
その途中だった。
「……あれ?」
背後から依頼人の声がした。
源一郎が振り返る。
依頼人は立ち止まり、庭の端にある一本の木を見つめていた。
枝葉が茂り、その下だけ昼間でも薄暗い。
「あれは……」
男の声が震える。
最初、源一郎には何があるのか分からなかった。
白いものが枝から垂れている。
布だろうか。
風が吹くたび、ゆっくりと揺れていた。
だが、その下に黒いものが見えた。
長い髪だった。
「……晴明」
源一郎の声が低くなる。
晴明はすでに歩き出している。
紫苑も黙ったまま後を追った。
近づくにつれて、白いものの正体が分かってくる。
女だった。
白い着物をまとった若い女が、木の枝から吊られている。
風が吹く。
長い髪が揺れ、その隙間から少しだけ顔が見えた。
源一郎は眉を寄せた。
何かがおかしい。
晴明が女を木から降ろし、源一郎も手を貸した。
地面へ静かに寝かせる。
身体はもう動かない。
「そんな……」
遅れてやってきた依頼人が、その場で足を止めた。
源一郎は女の顔を見る。
髪が頬へ張りつき、最初はよく見えなかった。
紫苑がゆっくりと髪を避ける。
そこで初めて、傷が見えた。
頬に一本。
赤黒い爪痕。
さらに、その下にも一本。
もう一本。
傷は何本も重なりながら、顔の中央へ向かって走っていた。
「これは……」
源一郎は目を細めた。
無差別に引っ掻いた傷ではない。
狙っている。
爪痕は、鼻へ向かって集まっていた。
紫苑がさらに髪を避けた時、源一郎の表情が変わった。
鼻が大きく損なわれている。
ただ傷があるのではない。
元の形が分からないほど、そこだけが執拗に壊されていた。
依頼人が口元を押さえる。
「違う……」
「何がじゃ?」
源一郎が聞く。
依頼人は女の顔を見たまま、何度も首を横に振った。
「この子は……こんな顔ではありませんでした」
晴明が静かに問いかける。
「昨日、倉で倒れていた者ですか?」
男が小さく頷いた。
「はい。この屋敷で働いていた娘です。まだ18になったばかりで……」
源一郎はもう一度女の顔を見る。
若い。
まだ、あまりにも若かった。
「元は綺麗だったのか?」
依頼人の目が伏せられる。
「はい。屋敷でも評判の娘でした。特に鼻筋が綺麗で……本人も、それをよく褒められていました」
源一郎と晴明の視線が重なる。
鏡の奥。
山のように積み重なった美しさの残像。
その中で、ひときわ鮮明に浮かんでいた鼻。
「いつ目を覚ました?」
晴明が尋ねる。
「今朝です」
「その時には、この傷が?」
「はい」
依頼人の声が小さくなる。
「自分の顔を見た途端に取り乱して……鏡を見せるな、誰にも顔を見られたくないと。しばらく部屋で泣いていましたが、ようやく静かになったので、少し目を離してしまって……」
その先は言わなくても分かった。
女は部屋を出た。
そして、この木まで来た。
紫苑が女の顔を見つめる。
いつもの妖艶な笑みは、どこにもなかった。
「晴明」
「ええ」
「やっぱり、あの女は人を殺すだけじゃなかったのね」
源一郎が紫苑を見る。
「どういうことじゃ?」
「壊したのよ」
紫苑の視線が、傷ついた鼻へ落ちる。
「自分が失ったものを持っている人が許せなかった。だから、源ちゃんが斬ったあの女は、この子の一番綺麗だったところを壊した」
妖怪が直接この女を殺したわけではない。
だが、無関係とは到底言えなかった。
源一郎は女の顔に掛けられた布を見つめる。
「……妖怪は斬った」
晴明が源一郎を見る。
「じゃが、この子は助からんかったか」
誰も答えなかった。
怪異は消えた。
それでも、怪異が残した傷までは消えない。
源一郎は、この世界へ来て初めてそのことを思い知らされた。
屋敷を出た頃には、日が傾き始めていた。
行きには珍しくて仕方なかった景色も、今の源一郎にはほとんど目に入らない。
牛車が通る。
露店から声が飛ぶ。
子どもが道を走っていく。
そんな日常の景色の中を、源一郎は静かに歩いていた。
紫苑も今日は珍しく口数が少ない。
少し前を歩いていた晴明が、源一郎へ声をかける。
「源一郎」
「なんじゃ」
「先ほどの女性のことを考えていますか?」
「そりゃ考えるじゃろ」
源一郎は小さく息を吐いた。
「儂がいた時代でも、人は死ぬ。92年も生きれば、葬式にも随分出た。友人も弟子も見送った」
死に慣れていないわけではない。
長く生きれば、どうしても別れは増える。
それでも。
「ああいう死に方は、そうそう見ん」
昨日まで普通に生きていた18歳の娘が、たった一晩で顔を壊され、自ら命を絶った。
あまりにも早かった。
晴明は前を向いたまま言った。
「この時代では、人は簡単に死にます」
源一郎が顔を上げる。
晴明の声は冷たくない。
ただ、慣れている。
それが分かった。
「戦で死ぬ者がいる。病にかかれば、それだけで死ぬこともある。食べるものがなければ飢えて死ぬ。冬を越せない者もいます」
晴明は少しだけ間を置いた。
「妖に殺される者も」
「そんなに多いのか?」
「多いです」
晴明は迷わず答えた。
「妖怪退治の依頼を受けた時には、すでに誰かが死んでいることも珍しくありません。着いた時には、死体がある。それが普通の仕事もあります」
源一郎は眉を寄せる。
「普通、か」
「村へ着いたら半分近く死んでいたこともあります。依頼人だけが残り、家族は全員いなくなっていたこともある」
源一郎は晴明の横顔を見た。
「晴明、お前さんいくつじゃ?」
「27です」
「27で、何人の死体を見た?」
晴明は少しだけ考えた。
「覚えていません」
その答えの方が、源一郎には重かった。
数えられないほど見てきた。
覚えていられないほど、死が身近にあった。
晴明が冷たいのではない。
この男にとって、それが日常になってしまったのだ。
紫苑が晴明の隣へ並ぶ。
「晴明は昔からこういうの見てるものね」
「紫苑」
「本当のことでしょ?」
晴明は否定しなかった。
源一郎はしばらく晴明を見たあと、不意に昨日の夜を思い出した。
酒を飲み、女たちに声をかけられ、紫苑から私生活を次々と暴露されていた晴明。
昼は異常なほど仕事に真面目で、夜になれば別人のように遊ぶ。
その理由が少しだけ分かった気がした。
「だから遊ぶのか?」
晴明が源一郎を見る。
「何の話です?」
「お前さんが仕事以外でだらしない理由じゃ」
「だらしなくありません」
紫苑が吹き出した。
「そこ否定するの?」
「紫苑は黙っていなさい」
源一郎も少し笑った。
胸の奥に溜まっていた重さが、ほんの少しだけ軽くなる。
しばらく3人で歩いた。
やがて、源一郎が口を開く。
「晴明」
「はい」
「妖怪退治に死体はつきものだと言ったな」
「ええ」
源一郎は前を向いたまま言う。
「儂は嫌じゃな」
晴明が足を止めた。
「何がです?」
源一郎も立ち止まり、腰の妖刀へ手を置いた。
「死体を見ることに慣れるのは」
晴明は黙って聞いている。
「戦で死ぬ。病で死ぬ。妖怪に殺される。全部なくすのは無理なんじゃろう。儂もそれくらいは分かる」
92年生きた。
人間が何でもできるなどとは思っていない。
いくら強くても、間に合わないことはある。
助けられない命もある。
「じゃが、助けられる奴まで見捨てる理由にはならんじゃろ」
晴明が静かに源一郎を見る。
「全員は救えませんよ」
「ああ」
源一郎はすぐに頷いた。
「だから、助けられる奴を助ける。それでええ」
紫苑が少しだけ笑った。
いつもの色気を含んだ笑みではない。
柔らかい笑顔だった。
「源ちゃんって、やっぱり先生なのね」
源一郎が嫌そうな顔をする。
「もう先生はやめたんじゃ」
「でも染みついてるわよ」
「今度は好きに生きるつもりなんじゃがな」
晴明が歩き出しながら言った。
「好きに生きた結果、人を助けるなら、それでいいんじゃないですか?」
源一郎は少し驚いたように晴明を見る。
その言葉は、意外だった。
だが悪くない。
「そういうもんかのう」
「自分で決めてください」
「相変わらず投げるな、お前さんは」
「源一郎の人生ですから」
晴明はそのまま先へ進む。
源一郎も後を追った。
「それで、これからどうする?」
「屋敷へ戻ります」
「酒か?」
「仕事です」
「真面目じゃなあ」
「鏡の裏にあった術式を調べます」
その一言で、源一郎の表情が変わる。
晴明が続ける。
「あれは自然にできたものではありません。誰かが人の手で施した可能性が高い」
「つまり、あの女が妖怪になったのも……」
「人間が関わっているかもしれません」
源一郎の手が、腰の妖刀の柄へ触れる。
妖怪を斬った。
だが、その妖怪を作った人間が別にいる。
そうだとすれば、話は変わる。
「面白くなってきたな」
「先ほどまで人が死んだ話をしていたでしょう」
「だからじゃ」
源一郎の顔に笑みはなかった。
「妖怪が悪いなら妖怪を止める。人が悪いなら人を止める。それだけじゃろ」
晴明が少しだけ振り返る。
「素直に止まらなかったら?」
源一郎は少し考えた。
「まず投げるかのう」
紫苑が声を出して笑った。
「結局そこなのね、源ちゃん」
「地面に寝かせてからでも話はできるじゃろ」
「できません」
晴明が即答する。
夕暮れの道に、3人の声が響いた。
源一郎はまだ、この時代のことをほとんど知らない。
人の命がどれほど簡単に失われるのか。
妖怪という存在が、どれほど人間の生活のすぐそばにいるのか。
そして時には、人間が妖怪以上に恐ろしいことをするということも。
それでも、1つだけ決めた。
2度目の人生は好きに生きる。
酒も飲む。
遊びもする。
今までできなかったことも、できるだけやってみる。
そのうえで――目の前に助けられる人間がいるのなら。
「まあ、助けりゃええか」
それくらいでいい。
源一郎はそう思いながら、晴明と紫苑の後を歩いていった。




