妖刀の初仕事
妖刀を腰に差してから、源一郎は何度も柄へ手をやっていた。
別に抜きたいわけではない。
ただ、そこに刀があるという感覚が懐かしかった。
若い頃は毎日のように竹刀や木刀を握り、真剣を手にする機会もあった。だが年を重ねるにつれて、刀を腰に差して歩くようなことは当然なくなった。
それが今はどうだ。
身体は若い。
動けば思い通りについてくる。
着ているのは紫苑が用意した、剣を振るうための装い。
そして腰には、妖怪すら斬れるという刀がある。
源一郎は庭を歩きながら、自然と口元を緩めていた。
「源ちゃん、朝からずっと嬉しそうね」
隣を歩く紫苑が笑った。
「そう見えるか?」
「見えるわよ。さっきから何回その刀触ってると思ってるの?」
「そんなに触っとったか?」
「子どもがおもちゃを買ってもらった時みたい」
「92歳捕まえて子どもとは失礼じゃな」
「身体は若いでしょ?」
紫苑はそう言うと、源一郎の腕へ自分の腕を絡めた。
柔らかな感触が当たり、源一郎がちらりと横を見る。
今日は昨日とは違う着物を着ていたが、相変わらず胸元は随分と緩い。
紫苑が気づいて笑う。
「また見た?」
「見えるところにあるんじゃ。仕方なかろう」
「あら。昨日より正直になったわね」
「何度も同じことを聞かれれば、誤魔化すのも面倒になる」
「じゃあもっと近づいてもいい?」
「好きにせい」
「本当に?」
紫苑がさらに身体を寄せてきた。
源一郎は少しだけ姿勢を正したものの、離れはしない。
その様子を少し前から見ていた晴明が、呆れたように振り返った。
「朝から楽しそうですね、2人とも」
「妬いてる?」
「なぜそうなるんです」
紫苑が笑う。
源一郎も機嫌よく答えた。
「晴明。お前さんも混ざるか?」
「何にです?」
「知らん」
「知らないのに誘わないでください」
晴明はため息をつくと、手にしていた文を折り畳んだ。
源一郎はそれを見て、ようやく本題を思い出す。
「それで、どこへ行くんじゃ?」
「都の西です」
「妖怪か?」
「おそらく」
源一郎の目が少し輝く。
それを見た晴明が眉を寄せた。
「嬉しそうにしないでください」
「せっかく刀をもらったんじゃ。使ってみたいじゃろ」
「普通は妖怪に会わずに済む方がいいんですよ」
「その考えでは、お前さんの仕事がなくなるぞ」
「そういう意味ではありません」
紫苑が源一郎の腕にくっついたまま口を挟む。
「源ちゃん、初仕事ね」
「仕事なのか?」
「晴明についていくんだから、そうなんじゃない?」
源一郎は少し考えた。
生前は、朝になれば道場へ行くのが当たり前だった。
誰かに教え、誰かを見て、時には相談を受ける。
それが仕事だった。
今度の人生で最初の仕事が妖怪退治というのも、悪くない。
「給料は出るのか?」
晴明が足を止めた。
「そこを気にするんですか?」
「生きていくには金がいるじゃろ」
「昨日まで一文も持っていなかった人が、急に現実的になりましたね」
「一晩寝たからのう」
紫苑が笑う。
「源ちゃん、晴明からいっぱい貰えばいいのよ」
「紫苑」
「だって人を雇うなら払わないと」
「まだ雇った覚えはありません」
源一郎が晴明を見る。
「では今日は手伝いか?」
「そう思ってください」
「分かった」
源一郎はそれ以上気にしなかった。
晴明がまた歩き始める。
「ただし、勝手なことはしないでください」
「善処する」
「その返事をする人は、大抵守りません」
「よく知っとるな」
「昨日から源一郎を見ていますから」
そんな話をしながら、3人は都の西へ向かった。
依頼を受けた場所は、大きな屋敷の裏手にある古い倉だった。
表側の屋敷に比べ、そこだけ妙に空気が重い。
倉の周囲には人がおらず、少し離れた場所で数人の使用人らしき者たちが怯えた顔をしていた。
晴明を見ると、そのうちの1人が駆け寄ってくる。
「晴明様!」
「何があったのです?」
「昨夜も声が聞こえまして……中を確認した者が1人、倒れました」
「死んだのですか?」
「いえ。ですが今も目を覚ましません」
晴明の表情が変わる。
仕事の顔だ。
昨夜、女たちに囲まれていた男と同一人物とは思えないほど、声も視線も落ち着いている。
源一郎はその変化を横で眺めていた。
「いつ頃から?」
「5日ほど前です。最初は夜になると、倉の中から何かを引っ掻くような音がする程度でした。それが一昨日から、女が泣いているような声まで……」
晴明は倉を見る。
「中に何があります?」
「古い道具や、使わなくなった品を入れております」
「最近、何か新しく運び入れたものは?」
男が少し考えた。
「……古い鏡を1つ」
晴明の目が細くなる。
「鏡?」
「はい。別の屋敷を片付けた際に出てきたもので、こちらへ運ばせました」
「いつです?」
「6日前でございます」
源一郎が横から口を挟んだ。
「それじゃないのか?」
男が源一郎を見る。
晴明も一瞬こちらを見た。
「可能性は高いですね」
「分かりやすいのう」
「怪異というのは、意外とそういうものです」
晴明は使用人たちを下がらせた。
そして倉の前まで歩く。
源一郎も続こうとしたところで、紫苑が服の背中を軽く引いた。
「源ちゃん」
「なんじゃ?」
「ちょっと待って」
紫苑が源一郎の前に回る。
両手で襟元を直しながら、そのまま顔を近づけた。
「服の結界、ちゃんと動いてるか確認するから」
「ここでか?」
「こういう場所で確認しないで、いつするのよ」
紫苑の指が襟から胸元へ滑り、服の内側に縫い込まれた術式をなぞる。
その距離がやはり近い。
源一郎が視線を落とすと、紫苑の胸元が嫌でも目に入る。
紫苑が顔を上げた。
「源ちゃん」
「なんじゃ」
「目線」
「服を見とるんじゃ」
「私の服?」
「儂の服じゃ」
「ふふ」
紫苑が楽しそうに笑った。
少し離れた場所から晴明が声をかける。
「紫苑。本当に確認しています?」
「してるわよ」
「半分遊んでいるでしょう」
「半分はね」
「認めるんですね」
紫苑は気にせず、最後に源一郎の胸元を軽く叩いた。
その瞬間、服の内側に縫い込まれた模様が淡く光る。
「よし。大丈夫」
「何が変わった?」
「倉の中、かなり妖気が濃いわ。服が少しだけ弾いてくれる」
源一郎は自分の腕を見た。
確かに、倉へ近づいてから肌にまとわりつくような冷たさを感じていた。
それが先ほどより弱い。
「便利じゃな」
「だから大事にしてって言ったでしょ?」
「分かっとる」
紫苑はまだ離れず、源一郎の胸へ手を置いたまま笑った。
「破いたら今度は源ちゃん自身に縫いつけるからね」
「それは服なのか?」
「試してみる?」
「遠慮しとく」
晴明が2人を見ながら小さく息を吐いた。
「入りますよ」
「はいはい」
紫苑がようやく離れる。
源一郎は少しだけ名残惜しいと思ったが、口には出さなかった。
倉の扉が開いた瞬間、空気が変わった。
冷たい。
外は暖かかったはずなのに、倉の中だけ冬のようだった。
源一郎は足を踏み入れる。
薄暗い。
左右には箱や古い道具が並び、奥には布を被せられた大きな何かが置かれている。
晴明が札を1枚取り出した。
「源一郎」
「なんじゃ?」
「今は刀を抜かないでください」
「なぜじゃ」
「何がいるか分からないからです」
「分かった」
源一郎は素直に従った。
晴明の説明を聞く限り、妖怪には様々な種類がいる。
何でもかんでも斬ればいいわけではないらしい。
3人が奥へ進む。
その時。
女の声が聞こえた。
――返して。
源一郎が足を止める。
紫苑の表情から笑みが消えた。
晴明が静かに周囲を見回す。
また声がした。
――返して。
今度は近い。
「何を返すんじゃ?」
源一郎が普通に問いかけた。
晴明が振り向く。
「話しかけるんですか?」
「向こうから話しかけてきたじゃろ」
「そういう意味では……」
その瞬間。
奥に置かれていた布が、ひとりでに落ちた。
その下から現れたのは、大きな鏡だった。
古びた木枠。
曇った鏡面。
そして――鏡の中に、女が立っていた。
長い髪が顔を覆っている。
白い着物。
異様に細い腕。
鏡の中にいるはずなのに、その女の指がこちら側へ伸びてきた。
「ほう」
源一郎が感心する。
「これは初めて見るな」
「普通は驚くところですよ」
晴明が言った直後、女の腕が一気に伸びた。
源一郎の首を狙う。
源一郎は頭をわずかに傾けた。
爪が耳元を通り過ぎる。
その腕を掴もうとしたが――手がすり抜けた。
「む」
源一郎の手が空を切る。
「触れんのか」
「霊体に近いです!」
晴明が叫ぶ。
女の腕がもう一度振るわれる。
源一郎は後ろへ下がった。
紫苑が片手を上げると、倉の壁一面に薄紫色の光が走る。
「逃がさないわよ」
光の膜が倉全体を包んだ。
女が鏡から身体を乗り出す。
足はない。
腰から下が黒い靄になり、鏡の中へ繋がっている。
「源ちゃん!」
紫苑の声が飛ぶ。
「それ、刀の出番じゃない?」
「ああ」
源一郎の右手が柄へ伸びた。
抜刀。
白い刃が薄暗い倉の中で光る。
女の霊が源一郎へ飛びかかった。
その動きは速い。
だが。
源一郎には十分に見えていた。
一歩。
ほんの一歩だけ前へ出る。
女の爪が届く直前。
源一郎の刀が下から斜めに走った。
手応えがあった。
「なるほど」
霊の身体が大きく揺れる。
普通なら触れることさえできなかった存在を、確かに斬った。
女が悲鳴を上げる。
黒い靄が傷口から噴き出した。
その一部が、刀身へまとわりついた。
源一郎の眉がわずかに動く。
「……ん?」
女の霊が再び襲ってくる。
今度は両腕。
左右から源一郎を挟み込むように爪が迫る。
源一郎は身体を沈めた。
低い姿勢から一気に間合いへ入る。
一閃。
右腕。
返す刀で左腕。
続けて胴。
3つの斬撃が、ほとんど一息の間に走った。
女の霊が大きく後退する。
紫苑が目を見開いた。
「速……」
晴明は答えない。
じっと源一郎を見ている。
女の身体からさらに黒い妖気が溢れ、刀へ絡みつく。
源一郎は刀を軽く振った。
さっきまでとは感覚が違った。
「晴明」
「なんです?」
「この刀、重くなったぞ」
晴明の目が刀へ向く。
「重く?」
「ああ。ほんの少しじゃがな」
晴明が何かに気づく。
刀身にまとわりついた黒い靄。
それが消えていない。
むしろ刃の中へ染み込むように吸い込まれている。
「妖気を取り込んでいる……?」
紫苑も刀を見る。
「そんな術、入ってた?」
「入れていません」
晴明の声が少し低くなった。
だが、その確認を続けている余裕はなかった。
女の霊が甲高い声を上げる。
鏡が激しく揺れた。
倉の中に黒い影が広がり、今までとは比べものにならない妖気が噴き出す。
源一郎の服に仕込まれた術式が光った。
胸元。
袖。
背中。
淡い光が源一郎を包む。
それでも冷たい。
「紫苑」
「効いてるわよ。これがなかったら、もっと寒いから」
「そうか」
「感想それだけ?」
「十分じゃ」
女の霊が迫る。
晴明が札を投げた。
「止まれ!」
札が女の額へ張りつく。
動きが一瞬止まった。
「源一郎!」
「分かっとる」
源一郎が踏み込んだ。
その速度に晴明の目がわずかに見開かれる。
刀は確かに重くなっている。
だが、今の源一郎にとってはまだ大した負担ではない。
腰を回す。
足から生まれた力が背中を通り、肩、腕へ伝わる。
そして。
横一文字。
女の霊が両断された。
一瞬の静寂。
次の瞬間、黒い靄が爆発するように広がった。
大量の妖気が刀身へ吸い寄せられていく。
源一郎の右腕に、わずかな重さが乗った。
先ほどより、明らかに重い。
女の姿が消える。
同時に古い鏡へ一本の亀裂が走った。
倉の中から冷気が消えていく。
しばらく誰も動かなかった。
やがて紫苑が結界を解く。
「終わった?」
「ええ」
晴明が答えた。
源一郎は刀を見ている。
「源ちゃん?」
「……面白い刀じゃな」
源一郎は片手で刀を持ち上げた。
少し振る。
最初に持った時より明らかに重い。
といっても、まだ問題になるほどではない。
ただし、その違いは源一郎にははっきり分かった。
「妖怪を斬るほど重くなるのか?」
「分かりません」
晴明が刀へ近づく。
「少なくとも、私が渡した時にはこんな妖気は宿っていませんでした」
晴明が刀へ指を近づける。
黒い妖気がわずかに揺れた。
「斬った妖の気を吸っています」
「抜けるのか?」
「試してみます」
晴明が印を結ぶ。
淡い光が刀を包んだ。
黒い妖気が少しずつ薄くなる。
源一郎は再び刀を持ち上げた。
「軽くなったな」
「全部は抜けていません」
晴明は少し考え込んだ。
「刀の中に残っています」
紫苑が源一郎の腕へ絡みながら、刀を覗き込んだ。
「源ちゃん、変なの貰っちゃったわね」
「面白くていいじゃないか」
「重くなるのよ?」
「今のところは問題ない」
「もっと重くなったら?」
源一郎は少し考えた。
「その時考える」
晴明が呆れた顔をする。
「予想通りの答えですね」
源一郎は笑いながら刀を鞘へ戻した。
そして、割れた鏡を見る。
「ところで晴明」
「なんです?」
「今の女は、なぜここにおった?」
晴明の顔が少し変わった。
源一郎は続ける。
「『返せ』と言っとったじゃろ」
紫苑も鏡を見る。
先ほどまでの軽い雰囲気が消えた。
晴明は割れた鏡の前へしゃがみ込み、裏側を確認する。
そこには、古い文字のようなものが刻まれていた。
晴明の指が止まる。
「これは……」
「何か分かったか?」
「いえ」
晴明はしばらく文字を見つめたあと、立ち上がった。
「まだ分かりません」
源一郎はそれ以上聞かなかった。
ただ、その答え方だけは覚えておいた。
妖怪が出た。
だから退治した。
それだけで終わる話だと思っていた。
だが、どうやらそうではないらしい。
源一郎は腰の妖刀へ軽く手を置いた。
妖怪を斬れる刀。
斬れば、妖気を吸って重くなる刀。
そして、消える直前まで何かを返せと訴えていた女。
2度目の人生。
どうやら、ただ遊んで暮らすだけでは済みそうになかった。




