妖刀を手にする男
翌朝。
源一郎は、見知らぬ天井を眺めながら目を覚ました。
しばらくぼんやりしていたが、昨夜の記憶がゆっくりと戻ってくる。
安倍晴明。
式神の紫苑。
酒。
そして、自分がもう92歳の老人ではないということ。
「……夢ではなかったか」
身体を起こしてみても、腰は痛まない。膝も軋まない。
若い。
それだけで、朝起きるという当たり前の動作すら少し楽しかった。
昨夜は久しぶりにかなり酒を飲んだはずだが、頭も重くない。むしろ身体は妙に軽かった。
「酒にも強いままか。ありがたいのう」
そう呟きながら立ち上がる。
その時、部屋の外から声がした。
「源ちゃーん。起きてる?」
紫苑だ。
「起きとるよ」
返事をすると、戸が開いた。
「おはよ」
紫苑が顔を覗かせる。
朝だというのに、相変わらず華やかだった。
艶のある黒髪はゆるくまとめられ、胸元の大きく開いた着物から白い肌が覗いている。本人が意識しているのか、していないのか。おそらく意識している。
紫苑は源一郎の姿を見ると、楽しそうに笑った。
「ちゃんと起きられたのね」
「儂をなんじゃと思っとる」
「昨日あれだけ飲んでたから」
「昔から酒には強い」
「92歳の頃と今の身体じゃ違うかもしれないって、晴明に言われてたでしょ?」
「結果、問題なかった」
「残念」
「何がじゃ」
紫苑がくすりと笑う。
「酔いつぶれた源ちゃん、ちょっと見たかったの」
「趣味が悪いのう」
そう言いながらも、源一郎は笑っていた。
昨夜から、妙にこの女とのやり取りが楽しい。
生前なら、女性にこれほど距離を詰められれば適当にかわしていたかもしれない。
先生という立場もあったし、何より面倒事は避けるようにしていた。
だが今は違う。
もう先生ではない。
そして何より――。
若い身体に戻った。
そこを意識していないと言えば嘘になる。
「ところで源ちゃん」
紫苑が、抱えていた衣服を持ち上げた。
「今日はこれ着て」
「服か?」
「そう。昨日の借り物じゃ動きにくいでしょ?」
確かに、昨夜晴明から借りた着物は町を歩くには困らなかったが、剣を振るうには向いていない。
紫苑から受け取った服を広げる。
濃い色を基調とした和装だった。
上衣は身体に沿うように仕立てられ、袖は腕の動きを邪魔しない。腰には太めの帯を締め、下は脚を大きく開いても動きを妨げない袴に近い作りになっている。
華美ではない。
だが、妙に格好がいい。
「お前さんが選んだのか?」
「私が作ったの」
「これを?」
源一郎が少し驚く。
「服そのものは人に頼んだけどね。中に術を入れたのは私」
紫苑が得意そうに胸を張った。
当然、源一郎の視線が一瞬だけそちらへ向く。
すぐ戻した。
紫苑の口元が上がる。
「今見た?」
「何をじゃ」
「胸」
「見とらん」
「嘘」
「92年生きた男にくだらんことを聞くな」
「でも今は若い男でしょ?」
紫苑はそう言いながら、さらに一歩近づいてくる。
源一郎は逃げなかった。
紫苑が面白そうに目を細める。
「源ちゃん、昨日より逃げなくなったわね」
「慣れたんじゃろ」
「私に?」
「お前さんの距離感にな」
「ふうん」
紫苑は楽しそうに笑うと、服を源一郎へ押し付けた。
「じゃあ着替えて」
「ここでか?」
「私は気にしないわよ」
「儂が気にする」
「92歳なのに?」
「今は若いと言ったのはお前さんじゃろうが」
紫苑が声を出して笑った。
しばらくして。
着替えを終えた源一郎が部屋から出ると、庭にいた晴明がこちらを振り返った。
そして、少しだけ目を細めた。
「……似合いますね」
「そうか?」
源一郎は自分の格好を確認する。
動きやすい。
肩を回しても引っかからず、腰を落としても布が邪魔にならない。剣を振るうことを前提にしているのがよく分かる。
その姿になったことで、源一郎の体格もはっきりと分かった。
身長はおよそ180cm。
この時代では、かなり大きい。
晴明自身も175cmほどあり、周囲の男たちと比べれば十分に背が高い方だったが、それでも源一郎の方がわずかに大きかった。
肩幅は広く、胸板も厚い。
だが、大きな筋肉をただつけただけの身体ではない。
腕、背中、腹、脚。
どこにも余計な肉がなく、全身が無駄なく引き締まっている。
80年以上にわたって剣と柔術を続けてきた技術を、その最盛期の肉体が支えている。
短く整った黒髪。
精悍な顔立ち。
立っているだけなら20代半ばほどの若い武人にしか見えない。
ただ、その目だけは違った。
慌てることなく周囲を眺める落ち着いた視線には、若者には到底持ち得ない長い年月が宿っている。
後ろから出てきた紫苑が、満足そうに源一郎を眺めた。
「やっぱり似合う」
「随分じろじろ見るじゃないか」
「だって源ちゃん、思ったより身体すごいんだもの」
紫苑は源一郎の横へ立つと、腕を軽く掴んだ。
「ここなんて結構太いし」
「触らんでも分かるじゃろ」
「確認よ」
「何の確認じゃ」
紫苑は答えず、そのまま腕を絡めてくる。
柔らかな感触が源一郎の腕へ当たった。
源一郎の身体が一瞬だけ固まる。
紫苑は当然、それを見逃さない。
「あら」
「……なんじゃ」
「意識した?」
「してない」
「今ちょっと固まったわよ」
「急にくっつくからじゃ」
「嫌?」
紫苑が見上げてくる。
その顔には明らかに、からかっていると書いてあった。
源一郎は少し考えた。
そして正直に答える。
「嫌ではない」
紫苑が一瞬目を丸くした。
その後、嬉しそうに笑った。
「源ちゃん、素直ねえ」
「もう嘘をつく歳でもないからのう」
「身体は若いけどね」
2人のやり取りを見ていた晴明が、淡々と言った。
「朝から何をしているんですか」
「服の確認よ」
紫苑が答える。
「その確認に胸を押し付ける必要があります?」
「晴明、細かい男は嫌われるわよ」
「源一郎も何か言ってください」
晴明に振られ、源一郎は紫苑を見た。
紫苑はまだ腕を絡めたままだ。
「まあ、害はないじゃろ」
晴明がしばらく黙った。
「……源一郎も楽しんでますね?」
「少しな」
「認めるんですか」
「今度は好きに生きると決めたからのう」
紫苑が楽しそうに笑った。
「いいじゃない、源ちゃん」
「紫苑」
「何よ?」
「そろそろ術の説明をしてください」
晴明が呆れたように言うと、紫苑はようやく源一郎の腕から離れた。
「はいはい」
そう言って、源一郎の襟元へ手を伸ばす。
指が布の内側をなぞる。
近い。
顔も近い。
源一郎が黙って見ていると、紫苑が小さく笑った。
「ここ見て」
襟の内側には、細い糸で複雑な模様が縫い込まれていた。
源一郎には何を意味するのか分からない。
ただの模様にも見える。
「これが結界か?」
「そう。襟だけじゃないわよ」
紫苑は今度は袖口を捲った。
そこにも細かな紋様がある。
帯の裏側。
背中。
袴の内側。
目立たない場所へ、いくつもの術式が仕込まれていた。
「源ちゃんの身体を囲むように結界が張られるようになってるの」
「これを着るだけで?」
「そう」
「便利じゃな」
「ただし」
紫苑が人差し指を立てた。
「無敵になるわけじゃないからね」
「分かっとる」
「弱い呪いとか妖気なら少しくらい防げる。でも強い妖怪に思いっきり殴られたら、普通に痛いわよ」
「それなら避ければいい」
紫苑が一瞬黙る。
晴明も黙る。
「……源ちゃん」
「なんじゃ?」
「普通はそこで『気をつける』って言うのよ」
「当たらなければ同じじゃろ」
晴明が小さくため息をついた。
「紫苑。その服、源一郎には少しもったいなかったかもしれません」
「いいのよ。こういう人だから着せるんでしょ」
紫苑は笑いながら、最後に源一郎の襟を整えた。
「はい。完成」
「ありがとう」
素直に礼を言うと、紫苑は少し嬉しそうな顔をした。
「大事にしてね」
「善処する」
「絶対すぐ破る言い方じゃない」
源一郎が笑った。
そこから3人は、屋敷の裏手にある広い場所へ移動した。
地面は固く踏み締められ、周囲には人の気配がない。
晴明の手には、昨日見せてもらった妖刀があった。
源一郎の目がそこへ向く。
「それを使うのか?」
「まずは源一郎の腕を見ます」
晴明は妖刀を脇へ置くと、代わりに一本の木刀を差し出した。
「これで」
源一郎は受け取る。
数度、軽く振った。
悪くない。
身体にも、何の違和感もない。
むしろ昨日よりさらに馴染んでいる。
「何をすればいい?」
「自由に」
源一郎が眉を上げる。
「自由?」
「私には剣のことは詳しくありません。形を見せられても、どれほど優れているのか正確には判断できない」
晴明は少し離れた場所に立った。
「ですから、相手を用意します」
そう言って、懐から数枚の札を取り出す。
源一郎がそれを見る。
「式神か?」
「ええ」
晴明が札を地面へ放った。
紙が光る。
次の瞬間、地面から3つの人影が立ち上がった。
人の形をしている。
だが顔はなく、全身が黒い。
それぞれが木刀のようなものを持っていた。
源一郎の表情が少し変わる。
「ほう」
晴明が告げた。
「遠慮はいりません」
「壊しても?」
「構いません」
源一郎の口元が上がった。
「それを先に言ってくれ」
3体の式神が動いた。
一斉ではない。
1体が正面。
残る2体が左右へ広がる。
源一郎は構えを取らなかった。
木刀を右手に下げたまま、ただ立っている。
紫苑が少し離れた場所から見ていた。
「源ちゃん、構えないの?」
「もう始まっとるよ」
その瞬間。
正面の式神が踏み込んだ。
木刀が上から振り下ろされる。
源一郎が半歩動いた。
それだけで刃筋から外れる。
そのまま相手の手首へ木刀を添え、軽く押した。
式神の身体が崩れる。
そこへ右側から2体目が斬り込んできた。
源一郎は振り向かない。
身体だけを捻り、木刀を背中側へ回した。
乾いた音が響く。
2体目の一撃が止まった。
次の瞬間、源一郎の木刀が相手の首筋へ触れていた。
ほんの一瞬だった。
2体が崩れ落ちる。
紫苑の笑みが消えた。
晴明も黙っている。
残った1体が背後から迫った。
源一郎はわずかに腰を落とした。
式神の腕を取る。
剣を捨てる。
そして、そのまま投げた。
黒い身体が宙を舞い、地面へ叩きつけられる。
昨日の鬼とほとんど同じだった。
倒れた式神の胸元へ、源一郎の木刀がぴたりと止まる。
静寂。
源一郎は木刀を肩へ乗せた。
「こんなもんでいいか?」
晴明は答えなかった。
紫苑も珍しく黙っている。
「晴明?」
呼ばれて、晴明がようやく息を吐いた。
「……もう少し時間がかかると思っていました」
「弱かったぞ」
「それなりに強く作ったんですが」
「そうなのか?」
「少なくとも普通の武士なら、3体同時に相手をするのは難しいはずです」
源一郎は倒れた式神を見る。
「動きが素直すぎるな」
「素直?」
「殺気がそのまま動きに出とる。あれなら目を見なくても分かる」
晴明の目が少し細くなる。
源一郎にとっては、特別なことを言っているつもりはないらしい。
それが余計に異様だった。
紫苑が源一郎へ歩み寄る。
「源ちゃん」
「なんじゃ?」
「やっぱり強いのね」
「昨日見たじゃろ」
「鬼を投げるのと、今のはまた違うわよ」
紫苑は源一郎の腕へ自然に絡みついた。
「ちょっと格好よかった」
「ちょっとか?」
「あら。褒められたいの?」
「どうせならもっと褒めろ」
「ふふ。そういうところ可愛い」
源一郎も満更ではなさそうに笑っている。
晴明はそれを見ながら、地面に置いていた妖刀を手に取った。
そして源一郎へ歩いてくる。
「源一郎」
「ん?」
晴明が刀を差し出す。
昨日とは違う。
今度は鞘を源一郎の方へ向けている。
「持っていってください」
源一郎の表情が変わった。
「いいのか?」
「ええ」
源一郎はゆっくりと手を伸ばした。
妖刀を受け取る。
昨日と同じ感触。
だが今度は、返す必要がない。
自分の刀だ。
「名前は?」
源一郎が聞く。
晴明は少し考えたあと、首を振った。
「ありません」
「ないのか?」
「元々、特別な名を与えるほどの刀ではありません。ただ、妖を斬れるよう術を施してあるだけです」
源一郎は妖刀を見る。
「そうか」
「不満ですか?」
「いや」
源一郎は刀を腰へ差した。
驚くほど自然に収まる。
紫苑が目を細めた。
和装。
大柄な身体。
短い黒髪。
そして腰に差した妖刀。
先ほどまでより、さらに武人らしい姿になっていた。
「似合うじゃない、源ちゃん」
「そうか?」
「うん」
源一郎は柄へ手を置く。
92歳で死んだ時には、もう2度と握れないと思っていた刀。
それを今、若い身体で再び腰に差している。
思わず笑みが浮かんだ。
晴明が言った。
「ただし、それは妖怪を斬れるというだけです」
「十分じゃ」
「強い妖を相手にすれば、刃が耐えられない可能性もあります」
源一郎は妖刀を軽く叩いた。
「その時はその時じゃ」
「軽いですね」
「まだ会ってもいない敵のことを考えても仕方あるまい」
晴明はしばらく源一郎を見た。
そして小さく笑った。
「……そうですね」
その日の朝。
桐生源一郎は、2度目の人生で初めての武器を手に入れた。
妖怪を斬るための妖刀。
今はまだ、それだけの刀だ。
この刀がやがて、源一郎と共に数多くの怪異を斬り、その度に姿を変えていくことを――この時の3人は、まだ知らなかった。




