遊びの師匠は安倍晴明
「今夜、遊びに行かない?」
紫苑がそう言ってから、源一郎の頭にはずっとその言葉が残っていた。
遊び。
考えてみれば、随分と曖昧な言葉だ。
子どもの頃なら、友人と走り回ることも遊びだった。若い頃には酒を飲みに誘われたこともあったし、旅行や祭りへ行ったことだってある。
まったく遊ばなかったわけではない。
だが、いつからだろう。
何をしていても、桐生源一郎は「先生」になった。
酒を飲んでいても弟子に見られている。旅先でも知り合いに会えば姿勢を正され、宴会に呼ばれれば最後には挨拶を頼まれる。
周囲がそう扱うことを嫌だと思ったことはない。
むしろ誇らしかった。
ただ、今になって思えば――自分が何も考えずに羽目を外した記憶は、ほとんどなかった。
そんな源一郎の前で、紫苑は楽しそうに晴明を見ていた。
「で、どうするの?」
「何がです?」
「源ちゃんを連れていくんでしょ?」
「なぜ私が」
「だって遊びを知らないんだから」
紫苑は当然のことのように言うと、源一郎の肩へ軽く手を置いた。
「ねえ、源ちゃん?」
「ああ。何をすれば遊びになるのか、正直よく分からん」
「ほら」
「私を見るな」
晴明は面倒そうに答えた。
先ほどまで妖刀を手入れしていた時とは別人のように、今は座ったまま書物を読んでいる。
源一郎はその姿を眺めながら腕を組んだ。
「しかし紫苑の話じゃ、お前さんは随分詳しいそうじゃないか」
晴明の指が止まった。
「紫苑」
「私は何も言ってないわよ。まだ」
「まだ、という言葉が余計です」
「人並みに遊ぶんじゃなかったの?」
「人並みです」
紫苑が笑った。
「源ちゃん。この男の『人並み』は信用しない方がいいわよ」
「ほう」
源一郎の興味が増した。
晴明はしばらく書物へ視線を落としていたが、2人から見つめられていることに耐えられなくなったらしい。静かに書物を閉じた。
「……分かりました」
紫苑の顔が明るくなる。
「行くの?」
「少しだけです」
「やった」
「ただし、明日は源一郎の腕を見ます。酒を飲みすぎて動けないなどということにはならないでください」
「そこは心配いらん。酒には強い方じゃった」
源一郎がそう答えると、晴明はじっと顔を見る。
「92歳の時の話ですよね?」
「そうじゃ」
「今の身体でも同じとは限りませんよ」
「あ」
言われて初めて気づいた。
今の肉体は20代半ばほどだ。
酒の強さまで昔と同じとは限らない。
紫苑が横から楽しそうに覗き込んでくる。
「源ちゃん、酔いつぶれたら運んであげる」
「その身体で儂を運べるのか?」
「あら。私を何だと思ってるの?」
紫苑が微笑む。
その笑顔だけを見ると、とても人を担いで歩くようには見えない。
源一郎が晴明を見ると、晴明は妙に真剣な顔で頷いた。
「やめておいた方がいいですよ」
「なぜじゃ」
「紫苑に運ばれると、翌朝何を言われるか分かりません」
「失礼ね。ちゃんと介抱するわよ」
「介抱したあと、半年くらい笑いものにするでしょう」
「それくらいはするかも」
「ほら」
源一郎は思わず笑った。
どうやら、この2人とは長い付き合いらしい。
日が傾き始めた頃、3人は屋敷を出た。
源一郎は晴明から借りた簡素な着物に着替えていた。道着のままでも本人は気にしなかったのだが、晴明から「悪目立ちします」と止められたためだ。
着慣れない服だったが、動きにくいほどではない。
むしろ源一郎が気になったのは、先ほどまでの晴明との違いだった。
「晴明」
「なんです?」
「お前さん、随分雰囲気が変わったな」
昼間の晴明は、いかにも隙のない男だった。
身なりもきちんと整え、歩く姿勢にも無駄がない。
ところが今は髪も少し崩し、服装も昼よりずっと軽い。表情までいくらか柔らかく見える。
晴明は平然と答えた。
「仕事は終わりましたから」
「本当に分けるんじゃな」
「当然です」
紫苑が源一郎の反対側を歩きながら笑う。
「晴明はね、仕事が終わると急に人間になるのよ」
「普段は人間じゃないのか?」
「仕事中は陰陽師」
「私はずっと人間です」
「でも家に帰ると服は脱ぎっぱなし」
「紫苑」
「お酒を飲むと帰ってこない」
「紫苑」
「女の人のところから朝帰りすることも――」
「紫苑」
晴明が足を止めた。
声は穏やかだ。
だが、若干の圧がある。
紫苑は口元を押さえ、楽しそうに笑っていた。
源一郎は晴明を見る。
「なるほど」
「何もなるほどではありません」
「いや。色々あるんじゃな、お前さんにも」
「源一郎まで面白がらないでください」
源一郎は声を出して笑った。
こういう会話も悪くない。
むしろ、かなり楽しい。
何より、2人とも源一郎を先生として扱わない。
それだけで不思議なほど肩が軽かった。
3人が向かったのは、昼間に源一郎が見た店よりずっと賑やかな一角だった。
日が落ちるにつれ、人の数が増えていく。灯りが並び、あちこちから酒と料理の匂いが漂っていた。笛の音も聞こえ、少し離れた場所では笑い声が響いている。
源一郎は思わず辺りを見回した。
「夜になると随分変わるんじゃな」
「この辺りは特にね」
紫苑は慣れた様子で歩いている。
晴明も同じだった。
むしろ昼間より足取りが軽い。
源一郎はそのことに気づいた。
「晴明」
「なんです?」
「随分慣れとるな」
「何度か来たことがあるだけです」
その直後だった。
「あら、晴明様!」
通りの向こうから声が飛んだ。
晴明の足が止まる。
華やかな着物をまとった女が、嬉しそうにこちらへ駆け寄ってきた。
「久しぶりじゃない。最近ぜんぜん来てくれないんだから」
「少し仕事が立て込んでいまして」
晴明は驚くほど自然に答えた。
源一郎が横を見る。
紫苑は笑いを堪えている。
そこへ別の女まで気づいた。
「本当だ、晴明様だ!」
さらにもう1人。
「この前のお約束、忘れてないでしょうね?」
源一郎は黙って晴明を見る。
晴明は源一郎を見ない。
「晴明」
「なんです?」
「人気者じゃのう」
「たまたまです」
「3人おるぞ」
「偶然です」
紫苑が耐えきれずに笑い出した。
「源ちゃん、これが晴明の『人並み』よ」
「紫苑」
「いや、儂も晴明を見直したぞ」
「なぜ見直すんです」
「昼間とは全然違うじゃないか」
晴明は深く息を吐いた。
それでも女たちへの対応は慣れたもので、それぞれに短く言葉を返しながら自然にその場を収めていく。
源一郎は感心してしまった。
人との距離の取り方が上手い。
仕事で貴族たちを相手にしているだけあって、こういう場でも会話に詰まらないらしい。
しばらくして女たちと別れると、晴明は何事もなかったように歩き始めた。
「行きますよ、源一郎」
「ああ」
数歩歩いてから、源一郎は口を開いた。
「晴明」
「まだ何か?」
「儂は遊びについて、お前さんから学ぶことにする」
晴明が止まった。
紫苑が吹き出す。
「源ちゃん、それ正解」
「やめてください」
「なぜじゃ。詳しいんじゃろ?」
「教えるほどのものではありません」
「師匠」
「やめなさい」
源一郎は大笑いした。
92年生きてきて、誰かを遊びの師匠と呼ぶ日が来るとは思ってもいなかった。
入った店は、思っていたより落ち着いた場所だった。
酒といくつかの料理が運ばれ、3人は向かい合って座る。
源一郎は出された器を手に取った。
「これがこの時代の酒か」
「この時代?」
晴明が聞き返す。
「ああ、いや。こっちの話じゃ」
すでに未来から来たことを話したとはいえ、つい口から出てしまう。
源一郎は酒を一口飲んだ。
しばらく味を確かめる。
「……うまいな」
現代で飲んでいた酒とは当然違う。
それでも悪くない。
もう一口。
さらにもう一口。
源一郎の顔に自然と笑みが浮かぶ。
紫苑がその様子を楽しそうに見ていた。
「源ちゃん、本当に嬉しそうね」
「そう見えるか?」
「見える」
源一郎は器を眺めた。
「昔はな、酒を飲んでも、どこかで加減しとった」
晴明が黙って聞いている。
「弟子の前で潰れるわけにはいかん。先生が馬鹿なことをするわけにはいかん。何かあれば自分が動かんといかん。ずっとそんなことを考えておった」
それを不幸だったとは思わない。
自分で選んだ人生だ。
ただ、今は違う。
ここには源一郎を先生と呼ぶ者はいない。
明日の稽古もない。
道場の鍵を閉める必要もない。
誰かの手本でいる必要もない。
源一郎はもう一度酒を口に含んだ。
「こういうのも、悪くないのう」
晴明が小さく笑った。
源一郎はそれを見逃さなかった。
「今、笑ったな」
「笑っていません」
「笑ったじゃろ」
「気のせいです」
「お前さんも誤魔化すの下手じゃな」
紫苑が楽しそうに酒を飲みながら頷いた。
「晴明、源ちゃんとは結構合うかもしれないわね」
「やめてください」
「何が嫌なんじゃ」
「源一郎といると疲れそうです」
「儂は楽しいぞ」
「でしょうね」
3人で酒を飲み、料理を食べる。
源一郎にとっては、それだけのことだった。
だが不思議と楽しかった。
稽古の話をしなくていい。
武術の話をしなくていい。
誰かに教訓めいた話をする必要もない。
紫苑は晴明の昔の失敗を次々と暴露し、晴明はそれを必死に止める。
源一郎は笑った。
声を抑えず、本当に腹の底から笑った。
こんな夜は、いつ以来だっただろう。
「源ちゃん」
紫苑が器を持ったまま聞いた。
「なに?」
「次の人生は好きに生きたいんでしょ?」
源一郎は少しだけ驚いた。
いつ話したのかと思ったが、屋敷での会話から察したのかもしれない。
「そうじゃな」
「なら、いっぱい遊ばないと」
「お前さんは随分軽く言うのう」
「だって2回目なんでしょう?」
紫苑は笑った。
「1回目にやらなかったことをやればいいじゃない」
源一郎はしばらく黙った。
単純な言葉だった。
だが、悪くない。
「そうじゃな」
源一郎は器を上げた。
「その通りじゃ」
晴明も静かに器を持ち上げる。
「ただし、明日は稽古をしますよ」
「分かっとる」
「本当に?」
「儂を誰じゃと思っとる」
晴明が少し考えた。
「92歳の、遊びを知らない男」
紫苑が盛大に吹き出した。
源一郎は一瞬ぽかんとしたあと、笑い始める。
「言うようになったじゃないか、晴明!」
「源一郎が教えたんでしょう」
「まだ何も教えとらんぞ」
そんなやり取りをしながら、夜は更けていった。
源一郎はまだ知らない。
自分がこの夜を境に、安倍晴明を陰陽師としてだけではなく――人生で初めてできた「遊びの師匠」として見るようになることを。
そして翌朝。
その遊びの師匠から、妖刀を手にするための試しを受けることになる。




