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『老衰で死んだ剣豪ですが、若返って安倍晴明と妖怪退治始めます  作者: ばけつプリン


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3/26

晴明の屋敷

安倍晴明の屋敷までの道のりは、源一郎にとって何もかもが珍しかった。


森を抜けると人家が増え、やがて広い道へ出る。行き交う人々は見慣れない装束をまとい、牛車がゆっくりと道を進んでいた。遠くには大きな屋敷がいくつも並び、源一郎が知っている街とはまるで違う景色がどこまでも続いている。


源一郎は歩きながら、右を見ては左を見る。


「随分と楽しそうですね、源一郎」


前を歩く晴明が、振り返りもせずに言った。


「そりゃ楽しいじゃろ。見るもの全部初めてなんじゃから」


「つい先ほど鬼と戦っていた人の言葉とは思えませんね」


「戦ったというほどでもない。投げただけじゃ」


「鬼を投げることを普通のように言わないでください」


晴明の声には、すでに若干の諦めが混じっていた。


源一郎はそんなことを気にする様子もなく、露店の前で焼かれているものを覗き込んだり、牛車が通れば足を止めたりしている。


現代でこんな歩き方をしていれば、孫にでも「危ないよ」と注意されていただろう。


だが、今は誰も自分を知らない。


先生でもない。


師範でもない。


ただの桐生源一郎だ。


それが妙に心地よかった。


しばらく歩いたところで、源一郎は道端の店から漂ってくる香りに鼻を動かした。小さな店先で、数人の男たちが器を傾けながら楽しそうに笑っている。


「晴明」


「なんです?」


「あれは酒か?」


晴明も視線を向けた。


「そうですが」


「昼間から飲んでおるぞ」


「別に珍しいことではありません」


「ほう」


源一郎は少し羨ましそうに眺めた。


生前、酒を飲まなかったわけではない。むしろ好きな方だった。ただ、昼間から何も考えずに飲むようなことは、ほとんどした覚えがない。


道場があった。


弟子が来る。


何かあれば呼ばれる。


いつだって最低限は、先生らしくしていなければならなかった。


そんな源一郎の視線に気づいたのか、晴明が少し怪訝な顔をする。


「飲みたいんですか?」


「いや」


源一郎は一度そう答えたが、少し考え直してから口元を緩めた。


「……飲みたいな」


晴明の眉がわずかに動く。


「素直ですね」


「今度は好きに生きると決めたからのう」


「何の話です?」


「こっちの話じゃ」


晴明はそれ以上聞かなかったが、源一郎の顔を少しだけ見てから再び歩き始めた。


「今日はやめておいてください」


「なぜじゃ」


「まず源一郎が何者なのか確認する方が先です」


「酒を飲みながらでも確認できるじゃろ」


「できません」


「真面目じゃなあ」


源一郎がぼやく。


晴明は小さく息を吐いた。


「仕事中ですから」


その言葉に、源一郎は何となく引っかかった。


仕事中。


わざわざそう付けるところが、少し気になった。


だが、その意味を知るのはもう少し先のことだった。


しばらくして、晴明は一軒の屋敷の前で足を止めた。


源一郎が想像していたよりも大きい。華美というほどではないが、きちんと手入れされており、庭には木々が植えられている。この時代の家の良し悪しなど源一郎には分からないが、少なくとも貧しい人間の住まいではなさそうだった。


「ここか?」


「そうです」


晴明が門をくぐり、源一郎もその後を追う。


庭へ一歩入った瞬間、不思議な感覚が身体を撫でた。風ではない。薄い膜のようなものを通り抜けたような、妙な感触だった。


源一郎は足を止めた。


晴明もそれに気づく。


「分かりましたか?」


「何かあったな」


「結界です」


「これが?」


「外から悪しきものが入りにくくしてあります」


源一郎は一歩後ろへ戻り、もう一度門をくぐった。


やはり感じる。


「面白いのう」


「何度も出入りしないでください」


「いや、こういうものは初めてじゃからな」


「分かりましたから、中へ」


晴明に急かされ、源一郎は笑いながら屋敷へ入った。


縁側へ上がり、案内された部屋へ入る。晴明が座るよう促したあと、何やら奥へ向かって声をかけた。


「戻った」


返事はない。


晴明は気にした様子もなく、棚から紙や箱をいくつか取り出し始める。


源一郎はその間、部屋の中を見渡していた。


外から見た印象とは違い、意外と物が多い。


紙の束。


筆。


何に使うのか分からない道具。


書物らしきもの。


きちんと整理されている場所もあれば、無造作に積まれている場所もあった。


「もう少し綺麗好きかと思っとった」


「仕事に必要なものです」


「そこの脱いだ服もか?」


晴明の動きが止まる。


部屋の隅には、明らかに脱いだまま放置された装束があった。


晴明は無言で、それを足先で少し奥へ寄せる。


「今のは見なかったことにしてください」


「意外と雑じゃな」


「人の家に来てすぐ粗探しをするのはどうかと思いますが」


「目に入っただけじゃ」


源一郎が笑っていると、背後から女の声がした。


「晴明、おかえりなさぁい」


源一郎が振り向く。


そして、わずかに目を見開いた。


いつからそこにいたのか。


縁側に1人の女が立っていた。


年の頃は20代後半ほどに見える。鮮やかな着物を身にまとい、長い黒髪にはいくつもの飾りが差されている。着物の襟元もかなり緩く、立っているだけで周囲の空気まで変わるような色気があった。


女は源一郎を見ると、楽しそうに目を細める。


「あら」


そのまま部屋へ入り、源一郎の前まで歩いてきた。


距離が近い。


かなり近い。


「今日は随分いい男を連れてきたのね」


「連れてきたというより、拾ったに近いです」


「晴明、言い方が悪いぞ」


「事実でしょう」


女は2人のやり取りを聞いて、くすくすと笑った。


それから腰を屈め、源一郎の顔を覗き込む。


「ねえ、名前は?」


「桐生源一郎じゃ」


「源一郎……」


女はその名前を一度口の中で転がすように繰り返した。


そして、すぐに笑みを深くする。


「じゃあ、源ちゃんね」


源一郎の眉が跳ねた。


「待て」


「なあに、源ちゃん」


「初対面じゃぞ」


「そうね」


「なぜもう縮めた」


「呼びやすいから」


「儂は92歳までそんな呼ばれ方をしたことがないぞ」


言ってから、源一郎は止まった。


晴明も止まる。


女も一瞬だけ黙った。


「……92?」


晴明がゆっくり源一郎を見る。


源一郎は咳払いした。


「今のは忘れろ」


「無理ですね」


「源ちゃん、92歳なの?」


女は驚くどころか、むしろ面白そうに顔を近づけてきた。


「身体は若いじゃろ」


「へえ……」


源一郎の顔。


首元。


肩。


腕。


女の視線が遠慮なく上下する。


「確かに若いわね」


「じろじろ見るな」


「あら、照れてる?」


「そういう距離で女に見られることに慣れとらんだけじゃ」


女は一瞬目を丸くしたあと、楽しそうに笑った。


「可愛い」


「92歳の男に言う言葉ではないな」


「見た目は若いんだからいいじゃない」


そう言って、女は源一郎の隣へ座ろうとする。


その距離がまた近い。


源一郎は反射的に少し身をずらした。


女の肩が空振りする。


「あら」


「すまん。身体が勝手に動いた」


「本当に女慣れしてないのね、源ちゃん」


「遊んだことがあまりないからのう」


「それ、面白そう」


女がさらに食いつく。


晴明が横から口を挟んだ。


「その辺にしてください、紫苑」


そこで初めて、源一郎は女の名を知った。


「紫苑というのか?」


「そう。よろしくね、源ちゃん」


紫苑は笑いながら手を振った。


「儂はまだ、その呼び方を許した覚えはないぞ」


「もう遅いわ」


源一郎は晴明を見る。


「止めんのか?」


「紫苑は一度決めたら変えません」


「お前さんの式神じゃないのか」


「式神ですよ」


源一郎は紫苑を見る。


もう一度、晴明を見る。


「これが?」


「これとは失礼ねえ」


紫苑が頬を膨らませる。


「儂が想像していた式神とは随分違う」


「どんなものを想像していたんです?」


晴明が聞く。


「紙から出てくる小さい奴じゃ」


晴明は少し考えた。


「そういうものもいます」


「私はそんな安物と一緒にしないでほしいわね」


紫苑は胸を張った。


源一郎が思わず視線を逸らすと、紫苑がにやりとする。


「今どこ見たの?」


「何も見とらん」


「源ちゃん、顔に出るのね」


「うるさい」


その様子を見ていた晴明が、小さくため息をつく。


「紫苑は結界を得意とする式神です」


「ほう。さっき門で感じたあれも?」


「そうよ」


紫苑が答える。


「全部私が張ってるの。この屋敷に変なのが入ってきたら、すぐ分かるわ」


源一郎は感心したように紫苑を見る。


「見た目によらず、凄いんじゃな」


「あら。それ褒めてる?」


「褒めとるよ」


「じゃあ許す」


晴明は2人の会話を横目に見ながら、再び源一郎の正面へ座った。


「そろそろ話を戻しますよ、源一郎」


「なんじゃ?」


「92歳という話です」


逃げられなかった。


源一郎は腕を組む。


晴明は完全に仕事の顔へ戻っていた。


「先ほど、若返ったとも言いましたね」


「言ったのう」


「そして今、92歳まで生きたと」


「そうじゃな」


「もう誤魔化さないんですね」


「面倒になった」


「でしょうね」


紫苑も興味津々といった様子で、源一郎の隣に座っている。


「私も聞きたい。源ちゃん、一体何者なの?」


源一郎は2人を見る。


どこまで話すべきか少し迷ったが、隠したところで仕方がない。


「信じるか?」


晴明は表情を変えない。


「鬼を素手で投げる人間に会ったばかりです。多少のことなら驚きません」


「私は大抵のことなら信じるわよ」


紫苑も笑っている。


源一郎は少しだけ息を吐いた。


「儂は一度、死んどる」


晴明の表情が止まった。


紫苑の笑みも、少しだけ薄くなる。


「92まで生きて、老衰で死んだ。家族と弟子に見送られてな。それで目を開けたら、この身体で森に寝とった」


晴明はすぐには返事をしなかった。


源一郎の顔を見て、身体を見て、さらに何かを確かめるように静かに観察している。


やがて小さく呟いた。


「魂を奪った様子はない……」


紫苑も源一郎へ少し顔を近づける。


「妙なものも憑いてないわね」


「分かるのか?」


「これでも結界には自信があるのよ。源ちゃんの中に別の何かがいるなら、もう少し変な感じがするはず」


「なるほどのう」


晴明はさらに考え込んだ。


「別の時代から来た、と?」


「恐らくな」


「それを証明できるものは?」


「何も持っとらん」


「でしょうね」


しばらく考えたあと、晴明は意外にもあっさりと頷いた。


「分かりました」


「信じるのか?」


「完全には信じていません」


「正直じゃな」


「ただ、嘘をついているようにも見えません。それに、源一郎の存在自体がおかしい」


「それは褒めとるのか?」


「違います」


紫苑が横で笑う。


「でも面白いじゃない。92歳の源ちゃんが若返ってここに来たなんて」


「面白がる話なのか?」


「だって見た目は若いのに、中身はお爺ちゃんなんでしょ?」


「お爺ちゃん言うな。元じゃ」


「同じよ」


「違うわ」


晴明はそんな2人を無視して立ち上がった。


「とりあえず、今日はここにいてください」


源一郎が眉を上げる。


「世話になっていいのか?」


「今の源一郎を外へ出す方が危険です」


「儂が?」


「周囲が」


紫苑が吹き出した。


源一郎も少し考えたあと、笑う。


「否定はできんな」


晴明は何かを思い出したように部屋の奥へ歩いていった。


しばらくして戻ってきたその手には、1本の刀があった。


古びた鞘。


派手な装飾もない。


一見すれば、何の変哲もない刀に見える。


だが源一郎は、それを見た瞬間に目を細めた。


「……ほう」


晴明が刀を床へ置く。


「さっき欲しがっていたでしょう」


源一郎が手を伸ばそうとすると、晴明が少しだけ刀を引いた。


「見るだけです」


「分かっとる」


「その顔は分かっていない顔です」


「細かいのう」


「源一郎が適当すぎるんです」


晴明は疑わしそうな目をしながらも、刀を差し出した。


源一郎は鞘ごと受け取る。


思っていたより軽い。


だが、軽すぎるわけではない。握った瞬間、自然と手の中へ収まる感覚があった。


源一郎は静かに目を細める。


「抜いてもいいか?」


「どうぞ」


ゆっくりと刀を抜く。


白い刃が姿を現した。


その瞬間、部屋の空気がわずかに変わる。


源一郎には術のことなど分からない。それでも、普通の刀ではないことくらいは感覚で分かった。


長い人生で、竹刀も木刀も真剣も数え切れないほど握ってきた。


良いものと悪いものくらいは、触れば分かる。


だが、この刀から感じるものは、それとも少し違う。


「妖怪が斬れるんじゃな?」


「斬れます」


「人も?」


「普通に斬れます」


「便利じゃな」


「感想が軽いですね」


源一郎は刃を眺めながら、ほんの少しだけ構えを取った。


振ったわけではない。


踏み込んでもいない。


ただ、刀を持った。


それだけだった。


だが、紫苑の表情から笑みが消えた。


妖気が出たわけでもない。


霊力が溢れたわけでもない。


それでも、源一郎が刀を持った瞬間、その場の空気が変わったように感じた。


まるで、最初からそこに刀があるのが当然だったかのように。


紫苑が小さく口を開く。


「晴明」


「なんです?」


「源ちゃん、本当に何者?」


晴明は答えなかった。


ただ黙って、刀を持つ源一郎を見ている。


源一郎はしばらく刃を眺めたあと、静かに鞘へ戻した。


そして晴明へ差し出す。


「いい刀じゃ」


「それだけですか?」


「他に何がある?」


晴明は受け取った刀を見る。


「いえ」


その時、源一郎が笑った。


「で、いつくれる?」


「渡すとは言っていません」


「まだ駄目か」


「当然です」


「けちじゃな」


「会って数時間の人間に妖刀を渡すほど、私は馬鹿ではありません」


源一郎の目が少し輝いた。


「妖刀というのか」


晴明は、一瞬言わなければよかったという顔をした。


その横で紫苑が楽しそうに笑っている。


「源ちゃん、気に入ったみたいね」


「久しぶりに刀を握ったからのう」


「久しぶり?」


「死ぬ前は、もうこんなものを振り回せる歳ではなかった」


源一郎は自分の手を見た。


若い。


力がある。


指の一本一本まで思い通りに動く。


92年生きて、最後には失っていったものが、今はすべて戻っている。


それが嬉しくないわけがなかった。


晴明はそんな源一郎をしばらく黙って見ていた。


そして手元の妖刀へ視線を落とす。


「……明日」


「ん?」


「源一郎の腕を見せてください」


源一郎が顔を上げる。


晴明は刀を抱えたまま続けた。


「それを見てから、この刀を渡すか決めます」


源一郎の口元が大きく上がった。


「いいのか?」


「まだ決めていません」


「そうかそうか」


「聞いています?」


「聞いとるよ」


明らかに聞いていない。


晴明はため息をつく。


その横から、紫苑が源一郎へ顔を寄せた。


「ねえ、源ちゃん」


「なんじゃ?」


「明日まで暇なんでしょ?」


「まあ、そうじゃな」


紫苑がにやりと笑う。


「だったら今夜、遊びに行かない?」


源一郎が固まった。


晴明も固まった。


数秒の沈黙のあと、晴明が紫苑を見る。


「余計なことを教えるな」


「あら、いいじゃない。せっかく若返ったんでしょ?」


「まだ源一郎の話を確認している途中です」


「明日でいいじゃない」


「よくありません」


2人が言い合う中、源一郎だけは別のところに引っかかっていた。


遊び。


その言葉で、死ぬ直前に考えていたことを思い出す。


次の人生があるなら。


好きに生きたい。


今までできなかったことをしてみたい。


源一郎は紫苑を見る。


「遊びというのは、何をするんじゃ?」


紫苑の笑みがさらに深くなった。


晴明は嫌な予感でもしたのか、露骨に顔をしかめる。


「それはね――」


「紫苑」


晴明が低い声で遮る。


紫苑が不満そうに頬を膨らませる。


「何よ。自分は散々遊んでるくせに」


晴明が黙った。


源一郎がゆっくりと晴明を見る。


「晴明?」


「なんです?」


「お前さん、遊ぶのか?」


「人並みには」


紫苑が吹き出した。


「人並み?」


「紫苑」


「昨日だって――」


「黙れ」


晴明の声が少しだけ強くなる。


源一郎は2人を交互に見た。


昼間、鬼を前にしていた時の晴明は、冷静で隙のない男だった。


人命を優先し、術を使い、余計なことは一切しない。


どう見ても、生真面目な男。


そう思っていた。


どうやら違うらしい。


源一郎の顔に、ゆっくりと笑みが浮かぶ。


「なるほど」


晴明の眉が寄る。


「何がです?」


「晴明」


源一郎は楽しそうに笑った。


「お前さん、面白い奴じゃったんじゃな」


晴明は、その日一番深いため息をついた。

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