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『老衰で死んだ剣豪ですが、若返って安倍晴明と妖怪退治始めます  作者: ばけつプリン


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2/26

鬼を投げる男

「……今、あなた、鬼を投げましたか?」


青年はそう言ったまま、源一郎をじっと見つめていた。


年の頃は20代後半ほどだろうか。整った顔立ちに、妙に落ち着いた目をしている。身につけている装束も、先ほど道ですれ違った者たちより明らかに上等なものだった。


ただ、源一郎が気になったのはそこではない。


青年の前には、1枚の白い紙が宙に浮いていた。


風に煽られているわけでもない。淡い光を放ちながら、その紙から伸びた青白い縄が、地面に転がる鬼の巨体を縛り上げている。


源一郎は紙を見て、それから青年へ視線を戻した。


「投げたが」


「……そうですか」


「いかんかったか?」


「いえ。ただ、初めて見ました」


「何をじゃ?」


青年は一拍置いてから答えた。


「素手で鬼を投げる人間をです」


源一郎は地面に転がっている鬼を見る。2メートルを優に超える巨体は、青白い縄に縛られながらも、まだ起き上がろうともがいていた。


「結構重かったぞ」


「そういう問題ではありません」


青年の返事は冷静だったが、視線は源一郎の全身を観察していた。手に武器がないことを確かめ、腰にも何も差していないのを見ると、わずかに眉を寄せる。


「武士ですか?」


「いや」


「では、僧兵?」


「それも違うのう」


「……何者です?」


聞かれて、源一郎は少し考えた。


自分でもよく分かっていない。


つい先ほどまで92歳だった。病床で家族や弟子たちに囲まれ、そのまま息を引き取ったはずだ。それが目を覚ましたら若い頃の身体に戻り、知らない森に倒れていた。


そこから少し歩いたら、鬼に襲われている男がいたので投げた。


改めて順番に考えてみても、何ひとつまともではない。


「桐生源一郎じゃ」


「名ではなく、何をしている人なのかと聞いています」


「道場をやっとった」


「道場?」


今度は青年の方が首を傾げた。


どうやら説明しても簡単には伝わりそうにない。源一郎がもう少し詳しく話そうとした、その時だった。


「グオオオオオッ!」


地面に倒れていた鬼が咆哮した。


青白い縄が大きく震え、近くにいた男が悲鳴を上げる。先ほどまで源一郎と話していた青年の表情から、わずかな戸惑いが一瞬で消えた。


「下がってください」


声も変わった。


低く、よく通る声だった。


源一郎は素直に数歩退いた。こういう顔をする人間は知っている。余計なことをせず任せた方がいい。


青年は右手を胸の前へ持ち上げ、指を組みながら短く何かを唱えた。


鬼を縛っていた光の縄が、さらに強くその身体へ食い込んでいく。それでも鬼は止まらない。太い腕を振り回し、縄を引きちぎろうと暴れ続けた。


次の瞬間、青年の袖から3枚の白い紙が飛び出した。


紙は鬼を囲むように宙へ浮かび、一定の距離を保ったまま静止する。


「急急如律令」


青年が告げると同時に、紙から青白い炎が走った。


炎は一瞬で鬼を包み込んだ。


「ほう」


源一郎は思わず声を漏らした。


火は鬼の全身を焼いているというのに、すぐそばの草には燃え移らない。熱もほとんど感じない。どう見ても、普通の炎ではなかった。


鬼は苦しげに咆哮しながら、それでもしばらく抵抗していた。だが次第に声が小さくなり、やがて膝をつく。


その巨体が黒い煙へと変わり始めた。


腕が消え、脚が消え、最後には2本の角まで霧のように空中へ溶けていく。


数秒後。


そこには何も残っていなかった。


源一郎は鬼が消えた場所へ近づくと、地面を覗き込んだ。


「消えたな」


「祓いました」


青年は何事もなかったように、宙に浮いていた紙を袖へ戻していく。


「祓う?」


「鬼をです」


「殺したということか?」


「似ていますが、少し違います」


「どう違う?」


青年は源一郎を見てから、ほんの少しだけ考えた。


「説明すると長くなります」


「儂は暇じゃぞ」


「……そうですか」


青年は何か言いたげな顔をしたものの、説明を始めるより先に、地面に座り込んでいた男へ視線を向けた。


「怪我は?」


「だ、大丈夫です!」


男は慌てて立ち上がると、青年へ何度も頭を下げた。


「晴明様、本当にありがとうございます! もう駄目かと思いました!」


源一郎の眉が動いた。


「晴明?」


青年がこちらを振り返る。


「はい」


「それは名か?」


「安倍晴明です」


源一郎は思わず黙り込んだ。


晴明も不思議そうにこちらを見返している。しばらくの間、木々の間を抜ける風の音だけが2人の間に流れた。


「……安倍?」


「はい」


「晴明?」


「そうですが」


源一郎は腕を組んだ。


歴史に詳しい人間ではない。だが、その名前くらいは知っている。


安倍晴明。


陰陽師。


鬼や妖怪、式神などの話と一緒に、何度も耳にした名前だった。


「有名人じゃないか」


「何の話です?」


晴明はますます怪訝な顔をする。


源一郎は答えず、改めて周囲を見回した。


鬼がいて、見慣れない装束を着た人々が歩き、牛に引かれた車が行き交っている。おまけに紙が宙を飛び、その紙から炎まで出た。


そして今、目の前には安倍晴明がいる。


ここまで揃えば、さすがに偶然とは思えなかった。


「……なるほどのう」


死んだ。


若返った。


しかも、昔の日本らしき場所にいる。


普通なら取り乱すところなのかもしれない。元いた場所へ帰る方法を探し、家族のことを考えて泣く者もいるだろう。


もちろん、家族への思いがないわけではない。


息子もいた。孫もいた。長く付き合った弟子たちもいた。


最後まで自分のそばにいてくれた。


だからこそ、源一郎には不思議と後悔がなかった。


92年、生きたのだ。


十分すぎるほど生きた。


それなのに、こうしてもう1度立っている。


しかも若い身体で。


源一郎は空を見上げた。


「まあ、ええか」


「何がです?」


「生きとるなら、それでええ」


晴明はしばらく源一郎を見つめていた。


その言葉の意味を考えたのかもしれないが、それ以上は追及してこなかった。


代わりに、先ほど鬼がいた場所へしゃがみ込んだ源一郎の方へ歩いてくる。


源一郎は地面を触ってみた。


血もない。


肉も骨も残っていない。


「さっきの鬼、儂が投げた時には確かに触れたんじゃがな」


「実体を持つ鬼ですから」


「なら、殴り続ければ倒せるのか?」


「弱らせることはできるでしょう」


「ほう」


「ただし、それだけで完全に消滅させられるとは限りません」


晴明は淡々と説明した。


「妖は人とは違います。肉を傷つければ死ぬものもいますが、そうでないものもいる。霊に近い存在なら、そもそも普通の人間には触れることすらできません」


「面倒じゃな」


「そういうものです」


源一郎は立ち上がりながら、少し考えた。


「刀ならどうじゃ?」


「刀にもよります」


「普通の刀では駄目なのか?」


晴明は頷く。


「人を斬るための刀と、妖を斬る刀は別物です。もちろん強い妖気を持つものでも、肉体を持つ相手なら普通の刀で傷つけることはできます。ただ、それだけでは止められないことも多い」


源一郎は少し残念そうに息を吐いた。


せっかく若い身体を取り戻した。


90年以上積み重ねた技術も、すべて頭と身体に残っている。


これなら昔より動ける。


そう思っていたところに、相手によっては刀そのものが通用しないと言われたのだ。


「何か不満でも?」


晴明が尋ねた。


「いや。せっかく若返ったというのに、斬れん相手がおるとは思わなんだ」


言った瞬間、晴明の動きが止まった。


源一郎も止まる。


「……今、若返ったと言いましたか?」


「言ったか?」


「はっきりと」


「気のせいじゃ」


「誤魔化すのが下手ですね」


源一郎は笑った。


「昔から弟子にもそう言われとった」


「弟子?」


晴明の疑問がまた1つ増えたらしい。


源一郎は面倒になって手を振った。


「話すと長い」


「先ほど私がそう言った時、暇だから聞くと言いましたよね」


「よく覚えとるな」


「数分前の話です」


晴明は呆れたように小さく息を吐いた。


ただ、源一郎にはそれが不快ではなかった。


妙に細かい男ではあるが、仕事はきっちりしている。それに、先ほどの男の怪我を最初に確認したところを見ると、根は悪くないらしい。


「ところで、あなたはこれからどこへ?」


「どこへと言われてもな」


「住まいは?」


「ない」


「金は?」


「ないのう」


晴明の眉間に、わずかに皺が寄る。


「着替えは?」


源一郎は自分の道着姿を見下ろした。


「これだけじゃ」


「……本当に何も持っていないんですね」


「身体はあるぞ」


「それを聞いているのではありません」


少し考えた後、晴明は踵を返した。


「来てください」


「どこへ?」


「私の屋敷です」


源一郎は眉を上げた。


「いいのか?」


「このまま放っておく方が面倒です」


「随分な言い方じゃな」


「鬼を見つけたら素手で投げるような人を、その辺に放置しておけません」


「何が悪い?」


「普通は逃げるんです」


源一郎は首を傾げた。


「逃げたら、さっきの男が食われとったぞ」


晴明は返事をしなかった。


代わりに一瞬だけ源一郎を見ると、そのまま歩き始める。


源一郎も後を追った。


森を抜ける道を歩いていると、やはり身体が軽い。1歩進むだけで足が自然に前へ出る。膝も腰も痛まない。それだけで、源一郎の口元は勝手に緩んだ。


死ぬ直前に願ったことを思い出す。


次があるなら、好きに生きたい。


まさか本当に次が来るとは思わなかった。


ならば今度は、少しくらい勝手に生きてもいいだろう。


その時、源一郎はふと先ほどの話を思い出した。


「そうじゃ、晴明」


「なんです?」


「妖怪を斬れる刀があると言ったな」


「あります」


「1本くれんか?」


晴明の足がぴたりと止まった。


ゆっくりと振り返る。


「なぜ、そうなるんです?」


「また妖怪に会うかもしれんじゃろ」


「普通の人間は、できれば2度と会いたくないと思うものですが」


「儂は普通ではないらしいからのう」


晴明はしばらく源一郎を見た。


鬼を目の前にしても怯えず、素手で投げ飛ばした男。自分が置かれている状況すらろくに理解していないというのに、なぜか妙に楽しそうにしている。


理解しがたい。


少なくとも、晴明の表情はそう語っていた。


「……見せるだけですよ」


「ほう」


「渡すとは言っていません」


「見てから考えよう」


「なぜあなたが決めるんです」


「細かい男じゃな」


「あなたが適当すぎるんです」


源一郎は声を出して笑った。


面白い。


鬼がいて、術があり、安倍晴明までいる。


何がどうなっているのかは、まだ何ひとつ分からない。


それでも不思議と、不安より楽しみの方が大きかった。


92年生きた最初の人生では、いつだって誰かに「先生」と呼ばれ、誰かの手本でいようとしてきた。


だが、ここには自分を知る者など1人もいない。


桐生源一郎が何者であるべきかを決める者もいない。


なら――。


今度こそ、好きに生きてみよう。


そんなことを考えながら、源一郎は晴明の後ろを歩いていった。


この時の源一郎は、まだ知らない。


これから向かう晴明の屋敷で、自分の2度目の人生を大きく変える1本の刀と出会うことを。


そして。


これほど仕事には真面目そうな安倍晴明という男が、私生活に関してだけは、想像以上にろくでもない男であることも。


それを知るのは、もう少し後の話だった。

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