鬼を投げる男
「……今、あなた、鬼を投げましたか?」
青年はそう言ったまま、源一郎をじっと見つめていた。
年の頃は20代後半ほどだろうか。整った顔立ちに、妙に落ち着いた目をしている。身につけている装束も、先ほど道ですれ違った者たちより明らかに上等なものだった。
ただ、源一郎が気になったのはそこではない。
青年の前には、1枚の白い紙が宙に浮いていた。
風に煽られているわけでもない。淡い光を放ちながら、その紙から伸びた青白い縄が、地面に転がる鬼の巨体を縛り上げている。
源一郎は紙を見て、それから青年へ視線を戻した。
「投げたが」
「……そうですか」
「いかんかったか?」
「いえ。ただ、初めて見ました」
「何をじゃ?」
青年は一拍置いてから答えた。
「素手で鬼を投げる人間をです」
源一郎は地面に転がっている鬼を見る。2メートルを優に超える巨体は、青白い縄に縛られながらも、まだ起き上がろうともがいていた。
「結構重かったぞ」
「そういう問題ではありません」
青年の返事は冷静だったが、視線は源一郎の全身を観察していた。手に武器がないことを確かめ、腰にも何も差していないのを見ると、わずかに眉を寄せる。
「武士ですか?」
「いや」
「では、僧兵?」
「それも違うのう」
「……何者です?」
聞かれて、源一郎は少し考えた。
自分でもよく分かっていない。
つい先ほどまで92歳だった。病床で家族や弟子たちに囲まれ、そのまま息を引き取ったはずだ。それが目を覚ましたら若い頃の身体に戻り、知らない森に倒れていた。
そこから少し歩いたら、鬼に襲われている男がいたので投げた。
改めて順番に考えてみても、何ひとつまともではない。
「桐生源一郎じゃ」
「名ではなく、何をしている人なのかと聞いています」
「道場をやっとった」
「道場?」
今度は青年の方が首を傾げた。
どうやら説明しても簡単には伝わりそうにない。源一郎がもう少し詳しく話そうとした、その時だった。
「グオオオオオッ!」
地面に倒れていた鬼が咆哮した。
青白い縄が大きく震え、近くにいた男が悲鳴を上げる。先ほどまで源一郎と話していた青年の表情から、わずかな戸惑いが一瞬で消えた。
「下がってください」
声も変わった。
低く、よく通る声だった。
源一郎は素直に数歩退いた。こういう顔をする人間は知っている。余計なことをせず任せた方がいい。
青年は右手を胸の前へ持ち上げ、指を組みながら短く何かを唱えた。
鬼を縛っていた光の縄が、さらに強くその身体へ食い込んでいく。それでも鬼は止まらない。太い腕を振り回し、縄を引きちぎろうと暴れ続けた。
次の瞬間、青年の袖から3枚の白い紙が飛び出した。
紙は鬼を囲むように宙へ浮かび、一定の距離を保ったまま静止する。
「急急如律令」
青年が告げると同時に、紙から青白い炎が走った。
炎は一瞬で鬼を包み込んだ。
「ほう」
源一郎は思わず声を漏らした。
火は鬼の全身を焼いているというのに、すぐそばの草には燃え移らない。熱もほとんど感じない。どう見ても、普通の炎ではなかった。
鬼は苦しげに咆哮しながら、それでもしばらく抵抗していた。だが次第に声が小さくなり、やがて膝をつく。
その巨体が黒い煙へと変わり始めた。
腕が消え、脚が消え、最後には2本の角まで霧のように空中へ溶けていく。
数秒後。
そこには何も残っていなかった。
源一郎は鬼が消えた場所へ近づくと、地面を覗き込んだ。
「消えたな」
「祓いました」
青年は何事もなかったように、宙に浮いていた紙を袖へ戻していく。
「祓う?」
「鬼をです」
「殺したということか?」
「似ていますが、少し違います」
「どう違う?」
青年は源一郎を見てから、ほんの少しだけ考えた。
「説明すると長くなります」
「儂は暇じゃぞ」
「……そうですか」
青年は何か言いたげな顔をしたものの、説明を始めるより先に、地面に座り込んでいた男へ視線を向けた。
「怪我は?」
「だ、大丈夫です!」
男は慌てて立ち上がると、青年へ何度も頭を下げた。
「晴明様、本当にありがとうございます! もう駄目かと思いました!」
源一郎の眉が動いた。
「晴明?」
青年がこちらを振り返る。
「はい」
「それは名か?」
「安倍晴明です」
源一郎は思わず黙り込んだ。
晴明も不思議そうにこちらを見返している。しばらくの間、木々の間を抜ける風の音だけが2人の間に流れた。
「……安倍?」
「はい」
「晴明?」
「そうですが」
源一郎は腕を組んだ。
歴史に詳しい人間ではない。だが、その名前くらいは知っている。
安倍晴明。
陰陽師。
鬼や妖怪、式神などの話と一緒に、何度も耳にした名前だった。
「有名人じゃないか」
「何の話です?」
晴明はますます怪訝な顔をする。
源一郎は答えず、改めて周囲を見回した。
鬼がいて、見慣れない装束を着た人々が歩き、牛に引かれた車が行き交っている。おまけに紙が宙を飛び、その紙から炎まで出た。
そして今、目の前には安倍晴明がいる。
ここまで揃えば、さすがに偶然とは思えなかった。
「……なるほどのう」
死んだ。
若返った。
しかも、昔の日本らしき場所にいる。
普通なら取り乱すところなのかもしれない。元いた場所へ帰る方法を探し、家族のことを考えて泣く者もいるだろう。
もちろん、家族への思いがないわけではない。
息子もいた。孫もいた。長く付き合った弟子たちもいた。
最後まで自分のそばにいてくれた。
だからこそ、源一郎には不思議と後悔がなかった。
92年、生きたのだ。
十分すぎるほど生きた。
それなのに、こうしてもう1度立っている。
しかも若い身体で。
源一郎は空を見上げた。
「まあ、ええか」
「何がです?」
「生きとるなら、それでええ」
晴明はしばらく源一郎を見つめていた。
その言葉の意味を考えたのかもしれないが、それ以上は追及してこなかった。
代わりに、先ほど鬼がいた場所へしゃがみ込んだ源一郎の方へ歩いてくる。
源一郎は地面を触ってみた。
血もない。
肉も骨も残っていない。
「さっきの鬼、儂が投げた時には確かに触れたんじゃがな」
「実体を持つ鬼ですから」
「なら、殴り続ければ倒せるのか?」
「弱らせることはできるでしょう」
「ほう」
「ただし、それだけで完全に消滅させられるとは限りません」
晴明は淡々と説明した。
「妖は人とは違います。肉を傷つければ死ぬものもいますが、そうでないものもいる。霊に近い存在なら、そもそも普通の人間には触れることすらできません」
「面倒じゃな」
「そういうものです」
源一郎は立ち上がりながら、少し考えた。
「刀ならどうじゃ?」
「刀にもよります」
「普通の刀では駄目なのか?」
晴明は頷く。
「人を斬るための刀と、妖を斬る刀は別物です。もちろん強い妖気を持つものでも、肉体を持つ相手なら普通の刀で傷つけることはできます。ただ、それだけでは止められないことも多い」
源一郎は少し残念そうに息を吐いた。
せっかく若い身体を取り戻した。
90年以上積み重ねた技術も、すべて頭と身体に残っている。
これなら昔より動ける。
そう思っていたところに、相手によっては刀そのものが通用しないと言われたのだ。
「何か不満でも?」
晴明が尋ねた。
「いや。せっかく若返ったというのに、斬れん相手がおるとは思わなんだ」
言った瞬間、晴明の動きが止まった。
源一郎も止まる。
「……今、若返ったと言いましたか?」
「言ったか?」
「はっきりと」
「気のせいじゃ」
「誤魔化すのが下手ですね」
源一郎は笑った。
「昔から弟子にもそう言われとった」
「弟子?」
晴明の疑問がまた1つ増えたらしい。
源一郎は面倒になって手を振った。
「話すと長い」
「先ほど私がそう言った時、暇だから聞くと言いましたよね」
「よく覚えとるな」
「数分前の話です」
晴明は呆れたように小さく息を吐いた。
ただ、源一郎にはそれが不快ではなかった。
妙に細かい男ではあるが、仕事はきっちりしている。それに、先ほどの男の怪我を最初に確認したところを見ると、根は悪くないらしい。
「ところで、あなたはこれからどこへ?」
「どこへと言われてもな」
「住まいは?」
「ない」
「金は?」
「ないのう」
晴明の眉間に、わずかに皺が寄る。
「着替えは?」
源一郎は自分の道着姿を見下ろした。
「これだけじゃ」
「……本当に何も持っていないんですね」
「身体はあるぞ」
「それを聞いているのではありません」
少し考えた後、晴明は踵を返した。
「来てください」
「どこへ?」
「私の屋敷です」
源一郎は眉を上げた。
「いいのか?」
「このまま放っておく方が面倒です」
「随分な言い方じゃな」
「鬼を見つけたら素手で投げるような人を、その辺に放置しておけません」
「何が悪い?」
「普通は逃げるんです」
源一郎は首を傾げた。
「逃げたら、さっきの男が食われとったぞ」
晴明は返事をしなかった。
代わりに一瞬だけ源一郎を見ると、そのまま歩き始める。
源一郎も後を追った。
森を抜ける道を歩いていると、やはり身体が軽い。1歩進むだけで足が自然に前へ出る。膝も腰も痛まない。それだけで、源一郎の口元は勝手に緩んだ。
死ぬ直前に願ったことを思い出す。
次があるなら、好きに生きたい。
まさか本当に次が来るとは思わなかった。
ならば今度は、少しくらい勝手に生きてもいいだろう。
その時、源一郎はふと先ほどの話を思い出した。
「そうじゃ、晴明」
「なんです?」
「妖怪を斬れる刀があると言ったな」
「あります」
「1本くれんか?」
晴明の足がぴたりと止まった。
ゆっくりと振り返る。
「なぜ、そうなるんです?」
「また妖怪に会うかもしれんじゃろ」
「普通の人間は、できれば2度と会いたくないと思うものですが」
「儂は普通ではないらしいからのう」
晴明はしばらく源一郎を見た。
鬼を目の前にしても怯えず、素手で投げ飛ばした男。自分が置かれている状況すらろくに理解していないというのに、なぜか妙に楽しそうにしている。
理解しがたい。
少なくとも、晴明の表情はそう語っていた。
「……見せるだけですよ」
「ほう」
「渡すとは言っていません」
「見てから考えよう」
「なぜあなたが決めるんです」
「細かい男じゃな」
「あなたが適当すぎるんです」
源一郎は声を出して笑った。
面白い。
鬼がいて、術があり、安倍晴明までいる。
何がどうなっているのかは、まだ何ひとつ分からない。
それでも不思議と、不安より楽しみの方が大きかった。
92年生きた最初の人生では、いつだって誰かに「先生」と呼ばれ、誰かの手本でいようとしてきた。
だが、ここには自分を知る者など1人もいない。
桐生源一郎が何者であるべきかを決める者もいない。
なら――。
今度こそ、好きに生きてみよう。
そんなことを考えながら、源一郎は晴明の後ろを歩いていった。
この時の源一郎は、まだ知らない。
これから向かう晴明の屋敷で、自分の2度目の人生を大きく変える1本の刀と出会うことを。
そして。
これほど仕事には真面目そうな安倍晴明という男が、私生活に関してだけは、想像以上にろくでもない男であることも。
それを知るのは、もう少し後の話だった。




