老衰した剣豪、若返る
享年92歳。
死因、老衰。
それだけ聞けば、随分と幸せな死に方だったのだろう。
実際、本人もそう思っていた。
「先生。聞こえますか?」
枕元から、震える声が聞こえる。
もう目を開ける力も残っていなかったが、誰の声かは分かった。
道場で40年以上、自分についてきた門下生だ。
いや、あいつだけではない。
部屋の中には息子もいる。孫もいる。さらにその向こうには、かつて自分の道場で竹刀を振っていた弟子たちが何人もいるらしい。
随分と大勢集まったものだ。
老人――桐生源一郎は、心の中で苦笑した。
剣道を始めたのは6歳だった。
柔術を始めたのも、その頃だ。
父に連れられて道場へ行き、気がつけば80年以上、剣と人を相手にして生きていた。
大会にも出た。
勝ったことも、負けたこともある。
若い頃には無茶もした。
やがて弟子を取るようになり、30代には「先生」と呼ばれるようになった。
それから先は、どこへ行っても先生だった。
道場では先生。
大会へ行っても先生。
他の道場へ呼ばれても先生。
飲み会へ行っても、
『先生、こちらへ』
『先生、どうぞ一言』
『先生のお話を聞かせてください』
気がつけば、自分より年上の人間がほとんどいなくなってからも、ずっと誰かの手本であり続けた。
悪い人生ではなかった。
むしろ、恵まれていた。
家族ができた。
多くの弟子に恵まれた。
自分が教えた子どもが大人になり、その子どもを連れて道場に来たこともある。
病床に伏してからも、毎日のように誰かが顔を見せに来た。
だから、後悔などない。
――そう思っていた。
「先生」
また声がした。
源一郎は、もう動かないはずの口元をほんの少しだけ緩めた。
先生、か。
最後までそれだった。
ふと、昔の記憶が浮かんだ。
20代の頃。
仲間たちが海へ行くと言っていた。
自分は大会が近かったから断った。
30代の頃。
道場の連中が祭りに行くと言っていた。
自分は翌朝の稽古があったから断った。
40代。
50代。
60代。
誘われれば顔は出した。
酒も飲んだ。
旅行にも行った。
だが、どこへ行っても結局は「先生」だった。
酔いつぶれるわけにはいかない。
馬鹿騒ぎするわけにもいかない。
弟子より先に羽目を外すなど、考えたこともなかった。
そうして90年以上が過ぎた。
源一郎は、そこで初めて思った。
――儂は、遊んだことがあったか?
人生は楽しかった。
それは間違いない。
だが、自分の立場も、年齢も、周囲の目も何も考えず、ただ好き勝手に過ごしたことがあっただろうか。
好きな場所へ行って。
好きなものを食って。
朝まで酒を飲んで。
くだらないことで笑って。
失敗して。
誰にも「先生」と呼ばれず。
ただの1人の男として生きる。
そんな時間が、果たして自分にあったのか。
「……そうか」
声になったかどうか、自分でも分からない。
最後の最後になって、こんなことを考えるとは。
92年。
少しばかり、真面目に生きすぎたらしい。
もし。
もしも、もう1度人生をやり直せるのなら。
今度は――。
「好きに、生きてみたいのう」
その言葉を最後に、桐生源一郎の長い人生は静かに終わった。
◆
鳥の声が聞こえた。
源一郎は眉を寄せた。
死後の世界にも鳥がいるらしい。
それにしては、妙に近い。
チチチ、と頭上で鳴いている。
次に感じたのは土の匂いだった。
草。
風。
木々のざわめき。
「……ん?」
目を開ける。
青空があった。
源一郎はしばらく瞬きを繰り返した。
「天国というのは……随分と自然が多いんじゃな」
少なくとも、病院ではない。
森の中だった。
背の高い木々の隙間から、朝らしき光が差し込んでいる。
源一郎はゆっくりと身体を起こした。
そして、止まった。
「…………なんじゃ?」
身体が軽い。
あまりにも軽い。
晩年は起き上がるだけでも時間がかかった。
立ち上がれば膝が痛み、腰が固まり、指の関節まで言うことを聞かなかった。
それがない。
源一郎は立ち上がった。
勢いよく。
「おお?」
自分でも驚くほど自然に立てた。
腰を捻る。
痛くない。
膝を曲げる。
痛くない。
そのまま軽く跳んでみる。
身体が浮いた。
「……おお!」
思わず声が出た。
もう1度跳ぶ。
軽い。
源一郎は腕を見る。
しわがない。
細くなっていた腕には、しっかりと筋肉がついている。
手の甲に浮いていた血管も、老人特有の染みも消えていた。
「まさか」
近くに小川が流れていた。
源一郎はそこまで歩き、水面を覗き込んだ。
男が映っている。
20代半ばほど。
黒い髪。
太い眉。
精悍な顔。
源一郎は黙った。
水面の男も黙っている。
右を向く。
男も右を向く。
左を向く。
男も左を向いた。
頬をつねる。
痛い。
「……儂じゃな」
忘れるはずがない。
若い頃の自分だった。
おそらく25歳前後。
身体能力が最も高かった時期。
源一郎は立ち上がると、その場で拳を握った。
肩を回す。
腰を落とす。
足を滑らせる。
身体が動く。
頭の中で思った通りに。
いや、それ以上だった。
長年蓄積した技術を、若い身体が完璧に再現している。
試しに近くの木へ向かい、寸前で拳を止めた。
風が鳴った。
「……こりゃあ」
口元が上がる。
楽しい。
それだけで楽しかった。
90年以上積み重ねた技術がある。
そこへ25歳の身体が戻ってきた。
生前なら、一体どれほど欲しがっただろう。
源一郎はその場で何度か足を運び、最後に大きく伸びをした。
「最高じゃないか」
笑った。
こんな声を出して笑ったのは、いつ以来だろう。
そこで、はたと気づく。
「いや待て」
若返ったことに喜んでいる場合ではない。
ここはどこだ。
天国にしては現実感がありすぎる。
源一郎は周囲を見渡した。
森の向こうに細い道がある。
とりあえず人を探すべきだろう。
そう考えて歩き始めてから、20分ほど。
源一郎はさらに首を傾げることになった。
道を歩く人間が、どう見ても現代人ではない。
遠くを歩いていった男は、妙な服を着ていた。
次にすれ違った女も同じだ。
着物とも少し違う。
さらに遠くには牛に引かれた車らしきものまで見える。
電柱がない。
車もない。
アスファルトもない。
「……随分と凝ったところじゃな」
映画村にでも迷い込んだのかと思ったが、さすがに規模がおかしい。
村を1つ丸ごと再現したような景色が延々と続いている。
しかも、通り過ぎる者たちは源一郎を不審そうに見ていく。
理由はすぐに分かった。
自分の服だけが現代のものだった。
死んだ時に着ていた寝間着ではない。
なぜか若い頃によく着ていた白い道着姿になっている。
「道着で歩き回る儂も大概じゃな」
そう呟いた、その時だった。
悲鳴が聞こえた。
「助けてくれ!」
源一郎の顔から笑みが消える。
声は林の奥からだった。
考えるより先に身体が動いた。
走る。
速い。
自分でも笑いたくなるほど速い。
木々の間を抜け、声のした方へ向かう。
やがて開けた場所に出た。
男が1人、尻もちをついていた。
その前に――。
何かがいる。
源一郎は足を止めた。
身長は2メートルを軽く超えている。
人のような形をしているが、人ではない。
肌は赤黒く、額から太い角が2本伸びている。
口元から牙が覗き、異様に長い腕には鋭い爪。
昔話の絵でなら見たことがある。
「……鬼か?」
源一郎が呟いた。
鬼が振り向いた。
黄色い目がこちらを見る。
普通なら恐怖する場面なのだろう。
だが源一郎は、少し困ったように眉を寄せただけだった。
92年も生きていれば、理解できないものを見ることくらいある。
鬼を見るのは初めてだったが。
「お前さん」
源一郎は声をかけた。
「その人を食うつもりか?」
鬼が牙を剥いた。
低い唸り声が響く。
会話は難しそうだ。
「そうか」
源一郎は肩を回した。
丸腰。
竹刀もない。
木刀もない。
刀など当然ない。
だが、不思議と怖くはなかった。
鬼が地面を蹴った。
速い。
巨体から想像できない速度で、源一郎へ迫る。
太い腕が振り下ろされた。
源一郎は半歩ずれた。
爪が鼻先を通過する。
「おお」
思ったより速い。
だが――。
「大振りじゃな」
鬼の懐へ入る。
右腕を取る。
肘。
肩。
腰。
重心。
全部見える。
人間とは骨格が少し違う。
だが、動く以上は必ず軸がある。
源一郎は鬼の腕を抱え、腰を落とした。
「よっと」
巨体が宙を舞った。
ドンッ!
地面が揺れた。
鬼が叩きつけられる。
助けを求めていた男が、口を開けたまま固まっている。
源一郎も少し驚いた。
「……投げられるんじゃな」
鬼が起き上がった。
怒っている。
相当怒っている。
「まあ、そうなるわな」
源一郎は構えた。
久しぶりだった。
身体の奥から、懐かしい感覚が湧いてくる。
試合ではない。
稽古でもない。
ましてや弟子を教える場でもない。
誰の目も気にする必要がない。
先生でもない。
師範でもない。
ただ、自分がどうしたいかだけで動けばいい。
源一郎は小さく笑った。
「悪くない」
鬼が咆哮した。
森の鳥たちが一斉に飛び立つ。
「2度目の人生というやつなら――」
源一郎は拳を握った。
「まずは好きにやらせてもらおうかの」
その直後。
鬼の背後で、白い紙が1枚舞った。
源一郎が目を細める。
紙は空中で止まり、淡い光を放った。
次の瞬間。
鬼の身体を、青白い光の縄が一気に縛り上げた。
「グオオオオッ!」
鬼が暴れる。
だが縄はびくともしない。
そして木々の向こうから、1人の青年が歩いてきた。
整った顔立ち。
涼しげな目。
派手さのない装束。
その青年は、地面に倒れた鬼と、構えたままの源一郎を交互に見た。
しばらく沈黙する。
やがて青年が口を開いた。
「……今」
源一郎を見る。
「あなた、鬼を投げましたか?」
源一郎は首を傾げた。
「腰が浮いとったからな」
青年は初めて、わずかに表情を崩した。
それが、桐生源一郎と安倍晴明の出会いだった。




