刻まれた印
晴明の屋敷へ戻った頃には、すでに日が傾き始めていた。
暴れていた妖怪は、紫苑の結界で動きを抑えたまま庭の一角へ寝かされている。人より一回り大きな獣に近い姿をしていたが、首に貼られていた黒い札を晴明が外してからは、もう人へ襲いかかろうとはしなかった。
それでも呼吸は荒く、身体のあちこちに傷が残っている。
源一郎は少し離れた場所へしゃがみ、その姿を眺めた。
「さっきまでとは、まるで別物だな」
隣に立っていた綱も腕を組む。
「札一枚で、あそこまで変わるもんなのか?」
「札だけなら、まだ話は簡単だったんですが」
晴明はそう答えながら、妖怪の首元へ手を伸ばした。
毛をゆっくりとかき分ける。
そこには、先ほど見つけた焼印のような術式が残っていた。
丸い印の中へ複数の線が入り組み、その周囲を見慣れない文字が囲んでいる。皮膚そのものへ焼きつけられたように黒く変色し、札を剥がした後も消える気配はなかった。
紫苑が晴明の肩越しから覗き込む。
「やっぱり残ってるわね」
「ええ。恐らく、こちらが本体です」
源一郎が顔を上げた。
「本体?」
「首に貼られていた札は、命令を与えるためのものに近い。この印は、その命令を妖の身体へ通すための仕組みでしょう」
「じゃあ、札を剥がしただけじゃ終わってないのか」
「そういうことです」
綱も腰を落とし、焼印を覗き込んだ。
「これが残ってたら、また操られる?」
晴明はすぐには答えなかった。
指先を印の近くへ寄せ、妖気の流れを確かめるようにゆっくりと動かしていく。
「可能性はあります」
綱の眉間に皺が寄った。
「随分と面倒なことしてやがるな」
源一郎も同じことを思った。
札を貼るだけなら、まだ分かりやすい。
だが、わざわざ身体へ術を刻み込んでいる。
しかも、目の前の妖怪は自分の身体が傷ついても命令へ逆らえなかった。
そこまでして従わせる理由があるということだ。
「晴明」
「なんです?」
「これ、何をする術なのか分かるか?」
「少し調べます」
源一郎は素直に黙った。
こういうことは晴明の領分だ。隣を見ると、綱も同じらしく、珍しく何も言わず晴明の手元を見つめている。
晴明は数枚の札を取り出し、妖怪の周囲へ置いた。
それを見た紫苑が結界を少し狭める。
淡い紫色の光が庭の一角を包んだ。
「紫苑、そのままお願いします」
「はいはい。源ちゃんたちは触らないでね」
綱が眉を上げる。
「俺もか?」
「特に綱」
「なんでだよ」
「取れそうだからって、力で剥がそうとしそうだもの」
綱が一瞬黙った。
源一郎が横から覗き込む。
「やろうと思った?」
「……少し」
「俺もだ」
紫苑が2人を交互に見る。
「やっぱり似てるわね」
「似てない」
源一郎と綱の声が重なった。
紫苑が笑い、晴明は完全に無視した。
焼印の上へ自分の札を重ねる。
すると、そこから細い光の線が伸び、黒く刻まれた模様を一つずつなぞり始めた。
しばらくして、晴明の表情がわずかに変わる。
「……なるほど」
源一郎がすぐ反応した。
「分かったか?」
「ある程度は」
晴明は焼印の外側へ指を近づけた。
「この術には、大きく分けて3つの働きがあります」
「3つもあるのか」
綱が呟く。
「まず1つ目。術者から一定以上離れようとした場合、この妖へ痛みを与える」
源一郎の目が細くなる。
「逃げられないようにか?」
「ええ」
晴明は次に、印の内側を示した。
「2つ目は、命令へ逆らった時に身体を強制的に動かすためのものです」
綱が妖怪を見る。
「本人が嫌がってても関係ないってことか」
「関係ありません。意思とは別に、身体だけが命令へ従わされる」
源一郎の表情が険しくなった。
だから、あれほど傷ついても止まらなかったのだ。
逃げることもできず。
命令へ逆らうこともできず。
ただ人間へ襲いかかるしかなかった。
「最後の1つは?」
晴明が印の中央へ目を向ける。
「術者側から、この妖の居場所を把握するためのものです」
「逃げても見つかる?」
「そういうことになります」
しばらく、誰も口を開かなかった。
焼印の意味を知れば知るほど、目の前の妖怪がどんな扱いを受けていたのか分かってくる。
紫苑が自分の首元へ手を当てた。
「こんなもので無理やり縛られるなんて、私は御免ね」
晴明が静かに頷く。
「私も、そんなことをするつもりはありませんよ」
「知ってる。だから晴明の式神になったんだもの」
紫苑はそう言ってから、少しだけ口元を緩めた。
「まあ、最初に声をかけてきた時は、私の顔より下ばっかり見てたけど」
「今、その話は必要ですか?」
「大事な思い出よ?」
源一郎が思わず笑う。
綱は晴明をちらりと見た。
「お前、そんな奴なのか?」
「仕事とは関係ありません」
「否定はしねえんだな」
晴明は何も答えなかった。
その様子に紫苑が楽しそうに笑い、重くなっていた空気がほんの少しだけ和らぐ。
その時だった。
寝かされていた妖怪の指が動いた。
源一郎がすぐに立ち上がる。
綱も反射的に刀へ手を伸ばした。
だが、晴明が片手で2人を制する。
「大丈夫です」
妖怪がゆっくりと目を開いた。
先ほどまで濁っていた瞳に、少しずつ意思が戻ってくる。
身体を起こそうとしたが、力が入らないらしい。
「無理に動くな」
源一郎が近くへしゃがみ込む。
妖怪の目が源一郎へ向いた。
警戒している。
それでも、もう襲いかかろうとはしなかった。
「覚えてるか?」
反応はない。
源一郎は少し考え、質問を変えた。
「誰にその印をつけられた?」
妖怪の身体がわずかに震えた。
口が動く。
だが、声にはならない。
晴明の表情が変わる。
「源一郎、少し待ってください」
晴明が妖怪の額へ札を近づけた。
淡い光が灯り、妖怪が目を閉じる。
しばらくして、晴明はゆっくり息を吐いた。
「記憶にも細工されています」
綱が顔をしかめる。
「そこまでやってんのか」
「術者を見られても、後から話せないようにしているのでしょう」
源一郎が妖怪を見る。
「全部消されてる?」
「いえ。全てではありません。ところどころ、不自然に抜けています」
源一郎はもう一度、妖怪へ向き直った。
「顔は覚えてるか?」
妖怪が首を横に振る。
「声は?」
また首を振る。
「どこにいた?」
今度は反応があった。
妖怪の目が揺れる。
何かを思い出そうとしている。
しばらくして、掠れた声が漏れた。
「……暗い」
「暗い場所?」
妖怪が小さく頷く。
「他には?」
呼吸が少し乱れた。
晴明が止めようとする。
だが、妖怪自身が何かを伝えようとして口を開いた。
「……鉄」
綱の目が細くなる。
「檻か?」
妖怪が頷いた。
源一郎の表情が変わった。
「閉じ込められてたのか」
「……いる」
「何が?」
妖怪の口から、また小さな声が漏れる。
「……仲間」
源一郎と晴明が顔を見合わせた。
綱もすぐに妖怪の前へしゃがみ込む。
「お前以外にも妖怪がいたのか?」
妖怪がゆっくりと頷いた。
「何匹だ?」
答えはない。
分からないのか。
それとも数えられなかったのか。
綱が質問を変える。
「多いのか?」
長い沈黙。
そして。
「……たくさん」
庭の空気が変わった。
源一郎は言葉を失った。
この妖怪1匹ではない。
同じように捕らえられた妖怪が、他にもいる。
それも、数が分からないほど。
「まだ捕まってるのか?」
源一郎が尋ねる。
妖怪は源一郎を見たあと、ゆっくりと頷いた。
「……いる」
源一郎の拳に、自然と力が入った。
綱も立ち上がる。
「場所は?」
妖怪は苦しそうに目を閉じ、記憶を探る。
だが、細工されているせいなのか、はっきりした答えは出てこない。
やがて遠くを見るように顔を動かした。
「……山」
「山?」
「……暗い……山……」
そこで力が尽きたように、妖怪の身体が横へ倒れた。
晴明がすぐに様子を見る。
命に別状はない。
ただ、かなり消耗している。
源一郎が立ち上がった。
「山だけじゃ探せんな」
「ええ」
綱はすぐに口を挟む。
「なら片っ端から探せばいい」
晴明が綱を見る。
「都の周囲に山がいくつあると思っています?」
綱が黙る。
源一郎も少し考えた。
「……結構あるな」
「源一郎まで綱殿と同じ発想をしないでください」
「まだ何も言ってないだろ」
「顔に出ています」
紫苑が横から笑う。
「源ちゃん、今すぐ探しに行こうと思ったでしょ?」
「少しだけ」
「私でも分かった」
「そんなに分かりやすいか?」
晴明は3人を放っておき、焼印へ視線を戻した。
その時、紫苑がしゃがみ込む。
「晴明」
「なんです?」
「これ、逆に辿れない?」
晴明が紫苑を見る。
「印を?」
「居場所が分かるようになってるんでしょ? なら、どこかと繋がってるってことじゃない」
源一郎も意味を理解した。
「向こうからこいつの場所が分かるなら、こっちから向こうを探せる?」
晴明はすぐには答えなかった。
焼印を見つめ、しばらく考える。
「理屈の上では可能です」
「できるのか」
綱が身を乗り出す。
「方向程度なら」
源一郎が立ち上がった。
「ならやろう」
「待ってください」
晴明の表情は真剣だった。
「こちらが繋がりを辿れば、相手にも気づかれる可能性があります」
綱の目が鋭くなる。
「こっちが探してるって知られる?」
「ええ」
源一郎も少し考えた。
相手は妖怪を捕まえ、逃げられないように術を刻み、記憶まで消している。
何者なのか。
何人いるのか。
何のために妖怪を集めているのか。
何も分からない。
「慎重にやった方がいいな」
晴明が源一郎を見る。
「源一郎からその言葉を聞くとは思いませんでした」
「俺をなんだと思ってる?」
「鬼を素手で投げる人です」
「それとこれは別だ」
綱が横で笑う。
「俺も意外だった」
「綱まで言うな」
紫苑も楽しそうに笑った。
晴明は少し考えてから、ゆっくりと頷く。
「ほんの一瞬だけ接続します。方角が分かれば十分です」
紫苑もすぐに動いた。
「じゃあ周りは私が閉じる」
「お願いします」
焼印を中心に、紫苑が小さな結界を張る。
晴明は妖怪の首元へ数枚の札を並べた。
源一郎と綱は少し離れ、黙って見守る。
「何かあったら?」
綱が尋ねる。
「すぐに術を切ります」
「それでも駄目なら?」
晴明が源一郎と綱を見た。
「その時は頼みます」
2人は同時に頷いた。
晴明が印を結ぶ。
札が淡く光り始める。
それに反応するように、妖怪の首元にある焼印が赤黒い光を放った。
そこから一本の細い線が浮かび上がる。
まるで糸だった。
赤黒い光の糸が結界を抜け、屋敷の外へ向かってゆっくりと伸びていく。
晴明が目を閉じる。
紫苑も結界を維持したまま、その線へ意識を集中させていた。
ほんの数秒。
晴明の口が開く。
「……北西」
綱がすぐに顔を上げた。
「分かったのか?」
「ええ。距離までは分かりませんが、この方角です」
源一郎も北西の空を見る。
その時だった。
「晴明!」
紫苑の声が響いた。
源一郎が振り返る。
妖怪の首に刻まれていた焼印が、一瞬で真っ黒に染まっていた。
晴明の顔色が変わる。
「まずい!」
すぐに術を切る。
光の糸が消えた。
だが、遅かった。
黒い線が焼印から妖怪の身体へ走っていく。
「ぐ……ぁ……!」
妖怪が大きく身体を反らした。
源一郎が駆け寄る。
「おい!」
綱もすぐに隣へ走る。
妖怪の身体が激しく震え始めた。
晴明は札を取り出し、焼印へ重ねる。
「紫苑、結界を!」
「もうやってる!」
紫苑が両手を動かす。
妖怪を包んでいた結界が一気に強まった。
それでも黒い線は止まらない。
血管のように全身へ広がり、皮膚の下へ沈んでいく。
綱が歯を食いしばる。
「晴明! どうにかならねえのか!」
「やっています!」
晴明も術を重ねる。
だが、妖怪の震えは収まらない。
源一郎は妖怪の肩へ手を置いた。
「おい、しっかりしろ!」
妖怪の目が、ほんの僅かに開いた。
源一郎を見た。
何かを言おうとする。
しかし、声は出なかった。
次の瞬間。
全身から力が抜けた。
「……おい」
源一郎が肩を揺らす。
反応はない。
晴明が首元へ指を当てる。
しばらくして。
静かに首を横へ振った。
「……死んでいます」
源一郎の手が止まった。
綱も何も言わない。
紫苑の表情からも、いつもの笑みが完全に消えていた。
しばらく庭には、誰の声も響かなかった。
やがて綱が低い声で尋ねる。
「今のは何だ?」
晴明は黒く焼け潰れた印を見つめていた。
「口封じです」
「口封じ?」
「恐らく、この印を逆に辿られた時に発動するよう仕込まれていた」
紫苑が眉を寄せる。
「私たちが居場所を探したから……?」
「ええ」
晴明の声も重い。
「逃亡。命令への抵抗。そして、情報を漏らすこと。その全てを想定して術が組まれています」
源一郎は動かなくなった妖怪を見つめた。
ようやく助かったと思った。
もう誰かに命令されることもない。
人を襲うこともない。
そう思っていた。
だが違った。
最初から、逃がすつもりなどなかったのだ。
「こいつは……」
源一郎の声が低くなる。
「最初から、生かして帰す気なんてなかったのか」
晴明は答えなかった。
答える必要もなかった。
綱が刀の柄を強く握る。
「随分と用意がいい奴だな」
「ええ」
晴明は焼印だったものを見つめたまま答えた。
「恐らく、この妖だけではありません」
その言葉に源一郎が顔を上げる。
「さっき言ってたな」
綱も頷く。
「たくさんいるって」
捕らえられた妖怪たち。
逃げれば苦痛を与えられ。
逆らえば身体を奪われ。
そして、誰かに助けを求めれば殺される。
源一郎はゆっくりと立ち上がった。
「北西だったな」
晴明が源一郎を見る。
「源一郎」
「分かってる。今すぐ行くとは言ってない」
源一郎はもう一度、死んだ妖怪へ目を向けた。
「準備はする」
それから腰の妖刀へ手を添える。
鞘の中で、刀は静かに眠っている。
「でも、こいつをこんな目に遭わせた奴は放っておけんな」
綱が源一郎の隣へ並んだ。
「ああ。それは俺も同じだ」
晴明は2人を見たあと、静かに頷いた。
「では、まず北西に何があるのか調べます。相手はこちらの存在に気づいた可能性が高い。正面から飛び込むのは危険です」
紫苑も妖怪の亡骸を見つめたまま立ち上がる。
「まだ捕まってる子たちがいるのよね」
「恐らく」
晴明が答える。
源一郎は北西の空を見た。
その先に何があるのかは、まだ分からない。
誰が妖怪を集めているのか。
何のために、ここまでして従わせているのか。
何一つ分かっていない。
それでも。
助けを待っている妖怪が、まだいる。
そして今度は、間に合わなければならない。




