再戦
朝の庭に、木刀が空を切る音が響いていた。
源一郎は一人、晴明の屋敷の庭で身体を動かしていた。妖刀は腰に差しているものの、晴明と紫苑が鞘に術を施してからは、納めている限り普通の刀と変わらない重さに収まっている。
だが、稽古で使うつもりはない。
妖気も術も関係なく、自分の身体がどこまで動くのか。それを確かめるなら、木刀で十分だった。
一振り。
身体を返し、もう一振り。
若い頃の肉体は、頭に描いた動きをほとんどそのまま再現してくれる。
「やっぱりいいな」
92歳まで生きた身体では、頭で分かっていてもできない動きが増えていた。
それが今は違う。
足が動く。
腰が回る。
腕がついてくる。
何度味わっても、この感覚だけは飽きそうになかった。
「朝から楽しそうだな」
聞き覚えのある声がした。
源一郎が振り返る。
門のところに渡辺綱が立っていた。
今日は使いの者も連れていない。右手には木刀を2本抱えている。
源一郎の口元が自然と上がった。
「早くないか?」
「何が?」
「この前やったばかりだろ」
綱は門をくぐると、当然のように庭へ入ってくる。
「負けたまま何日も待てるか」
「頼光の判定だろ。俺はほとんど引き分けだと思ってるぞ」
「それが余計に気に入らねえ」
綱は木刀を一本、源一郎へ放った。
源一郎が片手で受け取る。
「晴明には?」
「さっき会った。庭を壊すなって言われた」
「俺も言われそうだな」
「もう言われてますよ」
いつの間にか縁側に晴明が立っていた。
その隣から紫苑も顔を出す。
「源ちゃん、今日は屋敷壊さないでね」
「俺が壊したことないだろ」
「橋」
「水鬼だ」
綱が横から言う。
「半分くらい俺たちだったらしいぞ」
「綱まで認めるなよ」
紫苑が笑いながら縁側へ腰を下ろした。
今日は完全に見物するつもりらしい。
晴明も止める気はないようで、いつものように淡々と告げた。
「怪我もしない程度にしてください」
「綱に言ってくれ」
「源一郎にも言っています」
「信用ないな」
「前回を見ていますので」
源一郎は肩をすくめ、庭の中央へ向かった。
綱も向かい側へ立つ。
前回と同じ距離。
同じ木刀。
だが、源一郎にはすぐに分かった。
綱の立ち方が違う。
「変えたな」
綱が眉を上げる。
「まだ始まってねえぞ」
「だから分かる」
前回は、踏み込む直前に肩がほんの僅か動いていた。
今はそれがない。
肩だけではない。
呼吸。
足。
重心。
何かを隠そうと無理に固めたのではなく、自然な動きそのものを修正している。
源一郎は思わず笑った。
「数日で直したのか」
「同じのでまた読まれるほど馬鹿じゃねえ」
「いいな」
「その言い方やめろ。上からみたいで気に入らねえ」
「ああ、悪い」
源一郎は木刀を構え直す。
「じゃあ――楽しみだ」
綱も笑った。
「それならいい」
縁側で見ていた紫苑が、晴明へ小声で話しかける。
「男って面倒ね」
「同感です」
頼光がいなくても、始める合図は必要なかった。
源一郎と綱の間から、同時に笑みが消える。
先に動いたのは綱だった。
前回と同じような鋭い踏み込み。
だが源一郎は、肩を見ても先を読めない。
木刀が首筋へ迫る。
源一郎は寸前で身体を逸らした。
すぐに二撃目が来る。
受ける。
乾いた音。
そのまま綱は押し込まず、木刀を引いて角度を変えた。
源一郎も追わない。
一度距離が開く。
「どうだ?」
綱が楽しそうに聞いてくる。
「前より分からない」
「だろ?」
「その顔で全部分かるけどな」
「余計なこと言うな」
再び綱が来る。
今度は源一郎も待たなかった。
二人の木刀が中央でぶつかる。
一撃。
二撃。
三撃。
前回は綱の速さを源一郎が読み、それを先回りしていた。
今日は違う。
綱自身が、読まれることを前提に動いている。
踏み込むように見せて止まり、止まるように見せて一気に入る。視線を肩へ向けてから、足元を狙う。
「面白いな」
源一郎が木刀を滑らせながら言った。
「まだ余裕あるか」
「少しだけ」
「じゃあ、これならどうだ!」
綱が一気に間合いを潰す。
近い。
木刀を大きく振れば、互いに邪魔になる距離だった。
前回なら、ここから源一郎が木刀を捨てて柔術へ入った。
綱もそれを分かっている。
源一郎の手が動く。
木刀を離した。
同時に綱が腰を落とす。
「同じのは食らわねえ」
源一郎の右手が手首を取る。
だが綱は逃げない。
逆に一歩前へ出た。
体重を落とし、源一郎の胸元へ肩をぶつける。
「おっ」
前回なら後ろへ下がろうとした。
今回は、あえて前へ来た。
源一郎が投げるために使おうとした力そのものを消している。
綱が源一郎を押し込む。
「どうだ!」
「そう来たか」
源一郎は笑った。
手首を離す。
綱がわずかに体勢を崩しかけたところで、源一郎もすぐに距離を取った。
投げない。
投げられないなら、別のことをする。
地面へ落とした木刀を蹴り上げる。
柄が手元へ戻る。
綱の目が見開いた。
その隙に源一郎の木刀が横から走る。
綱もすぐに受けた。
カンッ、と大きな音が庭に響く。
「お前、なんでもありか!」
「綱が対策してきたからだろ」
「だからって蹴って拾うか普通!」
「拾えたんだからいいだろ」
二人は木刀を押し合わせたまま笑っていた。
紫苑が呆れたように呟く。
「楽しそうねえ」
晴明は二人を見ながら、小さく頷く。
「前回とは違いますね」
「綱が?」
「両方です」
前回の手合わせで、綱は源一郎の技を見た。
そして対策してきた。
だが、それによって変わったのは綱だけではない。
源一郎もまた、綱が同じ動きをしないことを前提に戦い始めている。
どちらかが教える関係ではない。
相手が変われば、自分も変える。
ただそれだけだった。
源一郎にとって、それが心地よかった。
また綱が踏み込む。
今度は綱の木刀が源一郎の脇腹を狙った。
源一郎は受ける。
そこから綱が手首を返し、首へ軌道を変える。
源一郎は身体を反らす。
木刀の先端が顎先を掠めた。
「危なっ」
「喋る余裕あるじゃねえか!」
源一郎も踏み込む。
肩を狙う。
綱が受ける。
そのまま源一郎は木刀を滑らせ、綱の手元へ切っ先を流した。
綱は一度手を離し、片手だけで木刀を返す。
源一郎の斬撃を外へ弾いた。
今度は源一郎の眉が上がった。
「それ、さっき考えたのか?」
「お前とやりながらな」
「やるな」
「だからその言い方!」
綱が笑いながら斬り込んでくる。
源一郎も笑った。
もう、誰がどこまで読んでいるのか分からない。
綱が速さで押す。
源一郎が間合いで外す。
源一郎が崩そうとすれば、綱がそれを潰す。
綱がフェイントを入れれば、源一郎は途中から別の動きに切り替える。
木刀がぶつかる音だけが、何度も庭へ響いた。
そして少しずつ、二人の呼吸が乱れ始める。
綱の額には汗が浮かんでいた。
源一郎も同じだった。
前回より明らかに楽ではない。
それが嬉しい。
「源一郎!」
「なんだ!」
「次で決めるぞ!」
「勝手に決めるな!」
言いながらも、源一郎は一度距離を取った。
綱も止まる。
二人の空気が変わった。
紫苑も口を閉じる。
晴明の視線も鋭くなった。
風が庭を抜けていく。
前回は、最後の一合で源一郎がほんの僅かに先へ届いた。
綱も当然覚えている。
源一郎も忘れていない。
だからこそ、同じことはしない。
綱が低く構える。
源一郎は木刀を少し下げた。
「来い」
「言われなくても!」
二人が同時に動いた。
綱の踏み込みは、前回よりさらに速い。
木刀が源一郎の脇腹へ向かう。
源一郎は喉を狙わない。
一歩深く入った。
綱も同時に軌道を変えた。
乾いた音が二つ、ほぼ同時に響いた。
静寂。
源一郎の木刀が、綱の肩へ触れている。
綱の木刀も、源一郎の脇腹へ触れていた。
どちらが先だったのか。
源一郎には分からなかった。
綱も同じらしい。
二人はそのまま数秒動かず、やがて同時に木刀を下ろした。
「……同時だな」
源一郎が言う。
綱は少し悔しそうに顔をしかめた。
「ほんの少し俺が先じゃねえか?」
「それはない」
「なんで言い切れる」
「俺の方が先だった気がする」
「それ同じだろ!」
縁側から晴明の声が飛んだ。
「同時です」
二人が晴明を見る。
「本当に?」
源一郎が聞く。
「私にはそう見えました」
紫苑も頷く。
「私も。今度は完全に引き分けね」
綱は少し黙った。
やがて木刀を肩へ乗せる。
「前は一歩負けた」
「そうだったか?」
「頼光様が言ってただろ」
「あれはほとんど引き分けだ」
「で、今日は完全な引き分け」
綱の口元が上がる。
「次は取る」
源一郎も笑った。
「前も聞いたな、それ」
「今回はここまで来た」
「じゃあ次は俺が離す」
「言ってろ」
二人は木刀を軽くぶつけた。
握手の代わりのようなものだった。
源一郎は少し息を整えながら、綱を見る。
たった数日。
それだけで、前回こちらが使った読みも、柔術も、かなり潰してきた。
92年積み上げてきた自分に対して、綱は今この瞬間も近づこうとしている。
だが不思議と焦りはない。
むしろ逆だった。
「次は俺も変えるからな」
綱が眉を上げる。
「やっとその気になったか」
「最初からその気だ」
「前回余裕あったくせに」
「それは頼光が勝手に言っただけだ」
「嘘つけ」
二人の言い争いを聞きながら、紫苑が笑う。
「これ、ずっと続くんじゃない?」
晴明は静かに答えた。
「恐らく」
源一郎はその言葉を聞いて、少しだけ笑みを深くした。
ずっと。
悪くない。
師匠でもない。
弟子でもない。
年上でも年下でも関係ない。
互いに負けたくないと思い、相手が強くなれば自分も強くなる。
生前、いつの間にか失っていた関係だった。
手合わせが終わり、二人が縁側で水を飲んでいた時だった。
門の外から慌ただしい足音が聞こえた。
「安倍晴明様!」
声に反応し、晴明が立ち上がる。
門前にいたのは、陰陽寮の使いだった。
息を切らしている。
手には封をされた書状があった。
「陰陽寮より、至急とのことでございます」
晴明の表情が変わった。
書状を受け取り、その場で封を切る。
源一郎と綱も自然と会話を止めた。
紫苑が晴明の顔を見る。
「何かあった?」
晴明は書状を読み進める。
やがて、その目が僅かに細くなった。
「都の北西で、妖が人を襲っています」
源一郎が顔を上げる。
「被害は?」
「今のところ死者が2人。怪我人が複数」
綱の表情も変わる。
「ならすぐ行くか」
だが晴明は続きを読んだまま動かなかった。
「晴明?」
源一郎が声をかける。
「妙なことが書いてあります」
「何が?」
晴明は書状を下ろした。
「妖を目撃した者がいるそうです」
「それの何が妙なんだ?」
「その妖の首に――」
晴明は一度言葉を切った。
「札が貼られていた、と」
源一郎の笑みが消える。
紫苑も晴明を見る。
「札?」
「ええ」
晴明の声が低くなる。
「自然に付くものではありません」
源一郎は、鏡の裏に刻まれていた術式を思い出した。
人の手で施された術。
使った者の痕跡だけが、綺麗に消されていた。
まだ同じ人物の仕業と決まったわけではない。
それでも。
「誰かが妖怪に何かしてる?」
「その可能性があります」
晴明が書状を畳む。
先ほどまで手合わせをしていた空気は、もう消えていた。
綱が立ち上がる。
「俺も行く」
晴明が綱を見る。
「頼光殿へ話を通さなくていいのですか?」
「人が死んでんだろ。後で言う」
「相変わらずですね」
「源一郎は?」
綱が聞く。
源一郎は木刀を置き、腰の妖刀へ手を添えた。
鞘に収まっている間は、普通の刀と同じ重さだ。
「行く」
迷う理由はなかった。
綱が笑う。
「じゃあ続きは帰ってからだな」
源一郎も少し笑った。
「次は負けないぞ」
「引き分けだろ」
「だから次は勝つ」
「それ、俺の台詞だ」
紫苑が呆れたように2人を見る。
「もう仕事始まってるんだけど」
晴明も小さく息を吐いた。
「行きますよ」
4人は屋敷を出る。
人を襲う妖怪。
その首に貼られた、人間の札。
これまでとは少し違う怪異が、都の外れで待っていた。




