武人の酒
手合わせを終えたあとも、庭にはしばらく熱が残っていた。
源一郎は借りていた木刀を綱へ返し、肩を軽く回す。最後の一合では寸前で止めたとはいえ、その前に一度まともに入れられている。じんわりとした痛みが残っていたが、それすら久しぶりで心地よかった。
綱も似たようなものらしい。
木刀を受け取ると、何度か握り直しながら源一郎を見る。
「次は取る」
いきなりそれだった。
源一郎は思わず笑う。
「まだ言ってるのか」
「当たり前だろ。負けたまま終われるか」
「頼光は俺の一本って言ってたけど、俺はほとんど引き分けだと思ってるぞ」
「それが気に入らねえんだよ」
綱が不満そうに鼻を鳴らした。
「次は、お前にも負けたって言わせる」
「いいな」
「何がだ?」
「そういうの、久しぶりだ」
綱は少しだけ眉を上げたが、それ以上は聞かなかった。
源一郎も説明するつもりはない。
生前、若い頃にはこういう相手が何人もいた。
勝ったら次。
負けたら次。
互いに技を見て、盗み、また戦う。
いつからだろう。
周囲から「先生」と呼ばれるようになってから、そういう関係は少しずつ減っていった。
自分より若い相手と稽古をしても、相手はどこかで教えを請う側になる。
源一郎自身も、無意識に教える側へ回っていた。
だが綱は違う。
こちらを先生とも師匠とも見ていない。
ただ、強い相手として見ている。
その距離感が、源一郎には妙に嬉しかった。
「お前ら、まだ続けるつもりか?」
頼光の声に2人が振り返る。
縁側に立った頼光は、呆れているというより面白がっているようだった。
「せっかく晴明たちまで来ているんだ。飯でも食っていけ」
「酒はあるか?」
源一郎が即座に聞く。
晴明が横から冷静な視線を向けた。
「手合わせが終わった直後ですよ」
「終わったから飲むんだろ」
「源一郎は最近、そればかりですね」
「2度目は好きに――」
言いかけて、源一郎は口を止めた。
晴明の目が一瞬だけ細くなる。
危ない。
頼光と綱の前だということを忘れかけていた。
「……好きに楽しむって決めてるんだ」
少し強引に言い直す。
綱は特に気にした様子もなく、頼光の方を見た。
「酒、あるんだろ?」
「ある。ただし屋敷を壊したら追い出すぞ」
「もう手合わせは終わった」
「お前が言うと信用ならんな」
頼光がそう言うと、紫苑が楽しそうに笑った。
「頼光、もう綱の扱い分かってるのね」
「長い付き合いだからな」
「源ちゃんの扱いもすぐ同じになりそう」
「なんで俺までなんだ」
源一郎の抗議を誰も聞いていなかった。
通された部屋には、しばらくして料理と酒が運ばれてきた。
源一郎は興味深そうに料理を眺める。
この時代へ来てから何度か食事はしているものの、まだ見慣れないものは多い。味付けも、源一郎が生きていた頃とは当然違った。
向かいでは綱がすでに酒を飲んでいる。
「早いな」
「お前が言うな」
「俺はまだ飲んでないぞ」
「昼から酒があるか聞いた奴が言う台詞か?」
「それは確認だ」
「何の確認だよ」
源一郎は笑いながら自分の器にも酒を注いだ。
横では紫苑が当然のように源一郎のすぐ隣へ座っている。晴明は少し離れた場所に腰を下ろし、頼光と何か話していた。
綱が源一郎の器へ目を向ける。
「飲めるのか?」
「まあまあ」
「まあまあ?」
綱が酒壺を持ち上げた。
「なら勝負するか」
「何を?」
「どっちが先に潰れるか」
源一郎は一瞬考えたあと、首を横に振った。
「嫌だな」
「逃げるのか?」
「せっかくの酒をそんな飲み方したくない」
綱が少し黙る。
源一郎は器を傾けた。
「楽しく飲めばいいだろ」
「……お前、たまに妙に落ち着いてるよな」
「そうか?」
「見た目と合ってねえ」
横で紫苑が吹き出した。
「綱、鋭い」
「何だ?」
「なんでもないわ」
源一郎が紫苑を横目で見る。
余計なことを言うな。
視線だけで伝えると、紫苑は分かっているというように笑った。
綱は気にせず酒を飲み、少ししてから源一郎へ尋ねた。
「さっきの投げ、あれは何だ?」
「柔術」
「じゅうじゅつ?」
「相手を殴るだけじゃなく、崩したり、投げたり、関節を取ったりする技だ」
綱の目に興味が浮かぶ。
「剣を持ってても使うのか?」
「ああ。距離が潰れたら剣だけにこだわる理由はない」
「なるほどな」
綱は少し考え、自分の手首を見た。
「さっき、取られた瞬間に力が抜けた」
「綱が下がろうとしたから、そのまま使った」
「力負けしたわけじゃないってことか」
「むしろ力なら綱の方が強いかもしれないな」
綱が顔を上げる。
「本気で言ってるか?」
「ああ」
源一郎は素直に答えた。
綱はしばらく源一郎を見たあと、笑う。
「なら次は、投げられねえようにすればいい」
「できるならな」
「言ったな?」
「言った」
2人の間に笑みが浮かぶ。
教える者と教わる者ではない。
互いに相手の技を見て、次にどう破るか考える。
源一郎は、その感覚が気に入っていた。
頼光も2人のやり取りを眺めながら酒を口へ運ぶ。
「綱がここまで楽しそうなのも久しぶりだ」
「別に楽しんでねえ」
「顔に出ているぞ」
「頼光様まで紫苑みたいなこと言うなよ」
紫苑が眉を上げる。
「私みたいって何?」
「人の顔ばっか見てるだろ」
「私は源ちゃんの顔を見てるの」
「それは聞いてない」
源一郎は紫苑を見る。
「そんなに見てるか?」
「かなり」
「なんでだ?」
紫苑は少しだけ身体を寄せた。
「好きだから」
綱が酒を飲む手を止めた。
頼光も一瞬だけ源一郎を見る。
源一郎はもう以前ほど慌てなかった。
「そうか」
「それだけ?」
「嬉しいぞ」
紫苑の方が少し驚いた顔をした。
源一郎は器を口へ運ぶ。
「最近、素直に言うことにしてるからな」
紫苑は数秒黙ったあと、源一郎の腕へ絡みついた。
「やっぱり源ちゃん、成長してる」
「何の成長だ」
綱がその様子を見ながら眉を寄せた。
「お前、そういう男なのか?」
「俺も最近知った」
前にも似たようなことを聞かれた気がする。
綱が笑い、頼光まで小さく肩を揺らした。
しばらくして、話題は自然と刀へ移った。
綱が源一郎の腰にある妖刀へ目を向ける。
「そういや、その刀。鞘に入ってる間は普通なんだよな?」
「ああ。晴明と紫苑が細工してくれた」
源一郎は腰から妖刀を外し、床へ置いた。
「中には水鬼の妖気が残ってる。抜けば重くなる」
頼光も興味を示す。
「どの程度だ?」
「今なら普通の刀よりかなり重い。振れないほどじゃないけど、俺には邪魔だな」
「贅沢な話だ」
綱が言う。
「妖を斬れて、再生まで遅くする刀なんだろ?」
「妖怪相手にはな」
源一郎は自分の手を見る。
「でも、人間を相手にするなら普通の刀がいい」
晴明が源一郎を見る。
「またその話ですか」
「欲しいものは欲しい」
「今のところ、人を斬る予定はありませんよ」
「予定ができてから探すのは遅いだろ」
その言葉に、頼光の目が少し細くなった。
「人を斬ったことは?」
源一郎は一瞬だけ黙った。
「ない」
綱が意外そうな顔をする。
「一度も?」
「ああ」
「それで人を斬る刀が欲しいのか?」
源一郎は少し考えた。
「人を斬りたいわけじゃない」
鏡の女。
美しさを奪う術。
その裏にいる何者か。
妖怪と関わるうちに、少しずつ見えてきたことがある。
怪異の向こう側に、人間がいる場合がある。
「できれば斬りたくない。でも、妖怪だから悪いとも限らないし、人間だから話が通じるとも限らないだろ」
綱は黙って聞いている。
源一郎は続けた。
「必要になった時に選べるようにはしておきたい」
頼光が酒を置いた。
「面白い考え方だな」
「そうか?」
「武器を欲しがる者の多くは、使いたいから欲しがる」
「俺は使わずに済むなら、その方がいい」
綱が少し笑った。
「でも必要なら使う?」
「ああ」
「それならいい」
「綱に許可された覚えはないぞ」
「許可してねえ。気に入っただけだ」
「やっぱり俺のこと好きじゃないか」
「斬るぞ」
「ほら人斬ろうとしてる」
源一郎が笑う。
綱も堪えきれずに笑った。
晴明が2人を見ながら、呆れたように首を振る。
「本当に相性がいいですね」
「そう見えるか?」
源一郎が聞く。
「ええ。似ているという意味ではありませんが」
晴明は少しだけ考えた。
「互いに遠慮がない」
それは源一郎にも分かった。
綱は源一郎の過去を知らない。
先生とも呼ばない。
こちらの年齢も、本当の出自も知らない。
それでも剣を交えれば、十分だった。
強い。
またやりたい。
その程度の理由で付き合える。
源一郎にとっては、久しくなかった関係だった。
酒席が終わる頃には、日はかなり傾いていた。
源一郎たちは頼光の屋敷を後にする。
帰り道、しばらく歩いたところで晴明が口を開いた。
「源一郎」
声が少しだけ低い。
源一郎には何を言われるかすぐ分かった。
「さっきのことだろ?」
「ええ」
晴明は周囲に人がいないことを確認する。
「『妖怪だから悪いとは限らない』程度なら構いません。ただ、自分の知識がどこから来ているのかには今後も注意してください」
「分かってる」
「本当に?」
「今日は何も言ってないだろ」
「だから念を押しているんです」
紫苑が源一郎の腕へ絡みながら笑う。
「晴明、源ちゃんの保護者みたい」
「誰がですか」
「源ちゃん、怒られてるし」
「俺は92――」
源一郎は途中で口を閉じた。
晴明と紫苑が同時にこちらを見る。
「……危なかったな」
晴明が深くため息をつく。
「今のを見る限り、まだ安心できません」
紫苑は声を上げて笑った。
「源ちゃん、全然駄目じゃない」
「癖なんだよ」
「92年分だものね」
紫苑はそう言うと、源一郎の腕へさらに身体を寄せた。
源一郎も苦笑する。
隠し事を抱えるのは面倒だ。
だが、晴明の言うことも分かる。
自分が未来から来たと知られれば、今の気楽な立場ではいられなくなるかもしれない。
それは困る。
せっかく2度目の人生では、肩書きから離れて好きに生きようとしているのだから。
源一郎は少しだけ前を歩く晴明を見る。
「晴明」
「なんです?」
「俺が余計なこと言いそうになったら、また止めてくれ」
晴明が少し意外そうに振り返る。
「素直ですね」
「面倒事は嫌だからな」
「そこですか」
「大事だろ」
晴明は少し笑った。
紫苑も隣で笑っている。
源一郎はそのまま歩きながら、先ほどの手合わせを思い出した。
渡辺綱。
次はどう来るだろう。
どこまで速くなるだろう。
そして次は、自分もどう動こう。
考えるだけで自然と口元が緩んだ。
2度目の人生で、源一郎には初めての剣友ができようとしていた。




