剣豪と鬼斬り
翌日の昼前。
源一郎たちは、渡辺綱の使いに案内され、都の中でもひときわ大きな屋敷へ向かっていた。
道中、晴明はいつもより少しだけ口数が少なかった。
源一郎が気になって横を見ると、晴明もこちらへ視線を向ける。
「源一郎」
「なんだ?」
「頼光殿の屋敷へ入る前に、1つ言っておきます」
晴明は周囲に人がいないことを確かめ、声を少し落とした。
「源一郎が未来から来たことは、絶対に口にしないでください」
「そんなにまずいのか?」
「まずいです」
返事が早かった。
紫苑も反対側から源一郎の腕へ絡みながら頷く。
「源ちゃん、こういう時の晴明は聞いといた方がいいわよ」
「分かってる。理由を聞いただけだ」
晴明は歩きながら続けた。
「源一郎は自分が歴史に詳しくないと言いますが、それは問題ではありません。未来から来たという事実そのものに価値があると思う人間が必ず出てきます」
「未来を聞き出したい奴がいるってことか」
「ええ。朝廷でも貴族でも同じです。誰が出世する、誰が死ぬ、戦が起きる、帝がどうなる――源一郎が何も知らなくても、知っていると思われるだけで面倒になります」
源一郎は少し考えた。
確かに、自分が逆の立場でも気にはなる。
問題は、本当に大して知らないことだった。
「歴史なんてほとんど覚えてないんだけどな」
「だから余計に困るんです。知らないと言っても信じてもらえるとは限らない」
紫苑が楽しそうに口を挟む。
「源ちゃん、晴明の名前を知ってたくらいだものね」
「ああ。綱も知ってたし、これから会う頼光も名前くらいは知ってる」
晴明の眉が少し上がった。
「頼光殿まで?」
「名前だけだぞ。何年に何したとかは知らない」
晴明は少し黙った。
それから、何か期待したように聞く。
「では、鏡へ術を施した人物や、今後私たちの敵になるような人物については?」
「知らない」
「即答ですね」
「悪いな。昔から歴史は苦手だったんだ」
紫苑がくすくす笑う。
「未来から来たのに、肝心なところ全然役に立たないのね、源ちゃん」
「俺だって好きで忘れたわけじゃない」
「とにかく」
晴明が会話を戻す。
「綱殿にも頼光殿にも言わないでください」
「分かった」
「本当に?」
「信用ないな」
「源一郎は、たまに何も考えず口にしますから」
源一郎は一瞬反論しようとして、やめた。
「……そこは否定できない」
「なら気をつけてください」
紫苑が源一郎の腕を軽く叩く。
「源ちゃんが変なこと言いそうになったら、私が止めてあげる」
「頼む」
「お礼は?」
「何が欲しい?」
紫苑の口元が楽しそうに上がる。
「あとで考える」
「聞くんじゃなかった」
晴明は2人を放っておき、そのまま歩き続けた。
やがて到着した屋敷は、晴明の屋敷とはまた違った趣があった。
庭は広いが華美ではない。地面の一部は何度も踏み固められ、木刀や弓が置かれた場所もある。
武人の屋敷。
源一郎には、その方がしっくりきた。
「ここか」
「源頼光殿の屋敷です」
晴明の言葉を聞き、源一郎は内心でだけ名前を繰り返した。
――源頼光。
やはり知っている。
酒呑童子だったか、鬼退治だったか。
何となく記憶はあるのだが、細かいところは全く思い出せない。
晴明の言葉を思い出し、口にはしなかった。
「来たな」
庭の奥から渡辺綱が歩いてきた。
昨日とは違い、今日はかなり軽い装いをしている。腰には刀を差しているものの、右手に持っているのは2本の木刀だった。
綱は源一郎を見ると、楽しそうに笑った。
「逃げるかと思ったぞ」
「なんで逃げるんだ?」
「俺とやるのが怖くなったとか」
「そういうこと言う奴だったんだな」
「昨日会ったばかりだろ。俺の何を知ってる」
「それもそうだな」
綱が木刀を一本投げる。
源一郎は片手で受け取った。
軽く握る。
長さを確かめ、数度だけ手首を動かす。
癖のない木刀だった。
綱の目が、源一郎の腰へ移る。
「そっちは使わないのか?」
妖刀だった。
源一郎は腰から外すと、晴明へ差し出す。
「これは妖怪用だ」
「人は斬れないのか?」
「斬れる。でも今は妖気が残ってる。抜けば重い」
「なら、その状態で俺とやればいいじゃねえか」
源一郎は木刀を軽く振った。
空気が短く鳴る。
「嫌だな」
「なぜ?」
「剣の勝負をするのに、刀の方に俺が合わせるのは面白くない」
綱の目がわずかに細くなった。
すぐに笑う。
「やっぱり面白いな、お前」
「昨日からそればっかりだな」
「今日も言う」
その時、縁側から落ち着いた声が飛んできた。
「綱が他人をそこまで気に入るのも珍しい」
源一郎が振り返る。
1人の男が立っていた。
40歳前後だろうか。
綱ほど分かりやすく武人らしさを前へ出しているわけではない。だが、立ち姿には静かな圧がある。
周囲を従わせようとしているわけでもないのに、自然と目が向いた。
男は庭へ降り、源一郎を見た。
「お前が源一郎か」
「ああ」
「源頼光だ」
源一郎は一瞬だけ、その顔をまじまじと見そうになった。
すぐに晴明から釘を刺されたことを思い出す。
「よろしく」
それだけ答える。
頼光は少しだけ眉を上げたものの、特に気にした様子はなかった。
「綱から水鬼の件は聞いた。随分腕が立つそうだな」
「綱と晴明がいたからな。俺は最後に核を斬っただけだ」
「本人から聞いた話とは随分印象が違う」
頼光が綱を見る。
綱が顔をしかめた。
「俺は別に褒めてねえ」
「わざわざ使いを出して手合わせに呼んだ男が言う台詞ではないな」
「それとこれとは別だ」
源一郎が笑う。
頼光も少し口元を緩めた。
「好きにやるといい。ただし真剣は禁止だ」
「分かってる」
頼光は綱を見る。
「お前に言っている」
「分かってるって」
晴明も妖刀を預かったまま口を挟んだ。
「それと、屋敷を壊さないでください」
源一郎が晴明を見る。
「俺たちを何だと思ってる?」
「昨日、橋を壊した人たちです」
「あれは水鬼だろ」
「半分くらいは2人のせいです」
源一郎と綱が顔を見合わせる。
「……気をつけるか」
「ああ」
紫苑が呆れたように笑った。
「本当に似てるわね、この2人」
庭の中央で、源一郎と綱が向かい合った。
距離は数歩。
源一郎は肩の力を抜き、木刀を自然に構える。
綱は切っ先をわずかに高くした。
昨日は水鬼を相手にしていたため、綱だけをじっくり見る余裕はなかった。
こうして正面から見ると、よく分かる。
強い。
立ち方に無駄がない。
足の位置。
呼吸。
木刀を握る手。
どこを見ても、長く実戦を経験してきた者の動きだった。
頼光が片手を上げた。
「始め」
手が下がった瞬間。
綱が一気に間合いを潰した。
源一郎から見ても速い。
木刀が斜め上から肩へ振り下ろされる。
源一郎は受けなかった。
ほんの半歩、横へずれる。
木刀が鼻先を通り過ぎた。
だが綱の攻撃は終わらない。
振り抜いた木刀をすぐに返し、今度は首を狙ってくる。
源一郎は身体を沈める。
頭上を木刀が走る。
三撃目。
下から突き上げるような一撃。
そこで初めて、源一郎も木刀を合わせた。
乾いた音が庭へ響く。
互いに押し合わず、触れた瞬間に距離を取った。
紫苑が少し身を乗り出す。
「源ちゃん、押されてない?」
晴明は静かに2人を見ていた。
「まだ見ています」
「源ちゃんが?」
「ええ」
その通りだった。
源一郎は綱を見ながら、少しだけ笑っている。
速い。
一撃も重い。
それでいて、連続して攻撃しても足が乱れない。
「いいな」
綱の眉が動く。
「何が?」
「剣だ」
「余裕あるじゃねえか」
再び綱が踏み込んだ。
今度はさらに速い。
一撃。
二撃。
三撃。
木刀同士がぶつかる音が続く。
そして4撃目。
源一郎が先に動いた。
綱の足が地面を蹴る、その僅か前。
半歩だけ外へずれる。
綱の木刀が空を切った。
次の瞬間、源一郎の木刀の先端が喉元寸前で止まる。
綱も完全に遅れてはいない。
木刀は源一郎の脇腹まで、あと僅かの位置に来ていた。
数秒、2人ともそのまま動かなかった。
綱が目だけを源一郎へ向ける。
「……今、俺が動く前に動いたな」
源一郎は木刀を引いた。
「肩だ」
「肩?」
「踏み込む前に、ほんの少し上がる」
源一郎が自分の肩を指す。
綱が自分の肩を見た。
「そんなところまで見てんのか?」
「長くやってるとな」
「また見た目と合わねえこと言うな」
源一郎は少しだけ笑った。
危うく余計なことまで言いそうになったので、それ以上は黙る。
綱も笑う。
だが、その構えが変わった。
肩の力が抜ける。
「変えたな」
「全部読まれるのは面白くねえからな」
綱が踏み込んだ。
肩が動く。
源一郎も合わせようとする。
だが――綱はそこで止まった。
誘いだった。
次の瞬間、本命の踏み込みが来る。
先ほどとは角度も違う。
源一郎が木刀を上げた。
その途中で、綱の剣筋がもう一度変わる。
乾いた音が響いた。
木刀が源一郎の肩へ入る。
源一郎が一歩下がった。
紫苑が目を見開く。
「入った」
綱は追わず、構えたまま源一郎を見る。
「どうだ?」
源一郎は肩を軽く回した。
少し痛い。
いい一撃だった。
「今のは良かった」
綱が嫌そうな顔をする。
「先生みたいに言うな」
源一郎が一瞬止まる。
後ろで紫苑が吹き出した。
「源ちゃん、やっぱり隠せないわねえ」
綱が怪訝そうに2人を見る。
「何の話だ?」
「こっちの話」
紫苑がすぐに笑って誤魔化した。
源一郎も話を戻す。
「もう一回だ」
「言われなくても」
綱が踏み込む。
今度は源一郎も待たなかった。
木刀同士が正面からぶつかる。
一撃目を流し、二撃目をかわす。
綱の剣が横から走った。
源一郎は正面から受けず、木刀を沿わせるように滑らせて軌道を変える。
そのまま懐へ入った。
距離が近い。
木刀を大きく振るには狭すぎる。
綱がすぐに下がろうとした。
そこで源一郎は木刀を手放した。
綱の目が開く。
「は?」
源一郎の右手が綱の手首を掴む。
左手は肘へ。
「おい!」
綱が力を入れる。
強い。
だが、源一郎は力で勝つつもりなどなかった。
綱が後ろへ戻ろうとした力をそのまま使う。
足を差し入れ、重心を崩した。
綱の身体が浮く。
「よっ」
完全に宙へ上がった。
だが、そのまま地面へ落ちる男ではない。
綱は空中で身体を捻り、片手を地面へついて回転した。
その勢いのまま両足で着地する。
源一郎が思わず目を見開いた。
「おお」
綱がすぐに振り返る。
「投げられると思ったか?」
「いや」
源一郎は平然と答えた。
「投げたぞ」
「着地しただろ」
「でも投げた」
「細けえな、お前!」
頼光が声を上げて笑う。
晴明は小さく息を吐いた。
「本当に何を競っているんです?」
「男の意地じゃない?」
紫苑は楽しそうだった。
綱が落ちた木刀を拾う。
源一郎も自分の木刀を拾った。
再び向かい合う。
その瞬間、空気が変わった。
源一郎の笑みが消える。
綱の表情からも軽さがなくなった。
今までとは違う。
晴明も黙る。
紫苑の笑顔も少し薄くなった。
頼光だけが静かに腕を組んでいる。
綱が構える。
源一郎も木刀を構えた。
風が庭を抜ける。
どちらも動かない。
ほんの僅かな動きが、そのまま勝負を決める。
そして。
2人は同時に地面を蹴った。
距離が消える。
綱の木刀が源一郎の肩口へ。
源一郎の木刀は綱の喉へ。
どちらも止まらない。
その直前だった。
「そこまで」
頼光の声が庭へ響いた。
2本の木刀が止まる。
綱の木刀は、源一郎の肩へ触れる寸前。
源一郎の木刀はすでに、綱の喉元へ届いていた。
沈黙が流れた。
綱がゆっくり頼光を見る。
「まだ終わってねえ」
「終わっている」
頼光は静かに答えた。
「お前の一撃より先に、源一郎の木刀が喉へ届いた」
綱が源一郎を見る。
木刀は確かに触れている。
あとほんの少し押せば、それで終わる位置だった。
源一郎は木刀を引く。
「でも俺も肩をもらってる」
「まだ当たってねえだろ」
「真剣なら避けきれたか分からない」
綱が少し眉を寄せる。
「慰めてんのか?」
「違う」
源一郎は笑った。
「強かったって言ってる」
綱はしばらく何も言わなかった。
やがて木刀を肩へ担ぐ。
「……次は勝つ」
「またやるのか?」
「当たり前だろ」
「いいぞ」
即答だった。
頼光はそんな2人を見ながら、静かに源一郎へ声をかけた。
「ただし、源一郎」
「なんだ?」
「最後の一撃。お前にはまだ止める余裕があったな」
源一郎の笑みがほんの少しだけ止まる。
綱も振り返った。
晴明も源一郎を見る。
源一郎は頼光と視線を合わせ、しばらくして肩をすくめた。
「どうだろうな」
頼光の口元が僅かに上がる。
「そういうことにしておくか」
頼光の判定なら、源一郎の一本。
源一郎自身は、ほとんど引き分けだと思っている。
そして綱は、自分が一歩届かなかったことを誰より理解していた。
紫苑が源一郎のところへ近づいてくる。
「源ちゃん」
「なんだ?」
「格好よかった」
「そうか?」
「うん」
紫苑は源一郎の肩を見る。
先ほど綱の木刀を受けた場所が、少し赤くなっていた。
指先で軽く触れる。
「痛い?」
「少しだけな」
「あとで見てあげる」
「大したことないぞ」
「私が見たいの」
源一郎が一瞬黙る。
そのやり取りを見ていた綱が眉を上げた。
「……お前、そういう男だったのか?」
源一郎は腕へ絡みついてきた紫苑を見る。
少し考える。
「俺も最近知った」
綱が吹き出した。
頼光まで笑っている。
晴明だけが、いつものように小さく息を吐いた。
源一郎は木刀を眺めた。
妖気もない。
術もない。
妖怪もいない。
ただ、自分の技と相手の技をぶつけるだけ。
生前は当たり前だったはずの時間が、今は妙に新鮮だった。
渡辺綱。
速い。
強い。
何より、まだ伸びる。
源一郎は綱を見ながら、自然と口元を緩めた。
2度目の人生では、どうやら剣を振る楽しみまで、もう一度味わえるらしい。




