鞘に眠る妖気
橋での一件を終え、晴明の屋敷へ戻った頃には、空がすっかり明るくなっていた。
川底から助け出した男は役人たちに預けてきた。長い間水の中で妖気を吸われていたため、かなり衰弱してはいたものの、命に別状はないらしい。
消えた4人のうち、助けられたのは1人だけだった。
それでも、間に合った命があった。
源一郎はそれで十分だと思うことにしていた。
屋敷へ入ると、真っ先に腰から妖刀を外す。
「……やっぱり重いな」
鞘に収めているというのに、腰から外しただけで腕へずしりとした感覚が伝わってくる。
水鬼を斬る前とは明らかに違う。
持てないほどではない。源一郎なら、このまま腰へ差して歩き回ることもできるだろう。
だが、できることと、やりたいことは別だ。
紫苑が横から妖刀を覗き込んだ。
「源ちゃんでも重い?」
「持つだけなら問題ない。ただ、これを毎日腰に差すのは嫌だな」
「あら、珍しく弱音?」
「不便だと言ってるだけだ」
源一郎は妖刀を晴明へ差し出した。
受け取った晴明の腕が、わずかに下へ沈む。
「……確かに。水鬼の妖気をかなり吸っていますね」
「前より重いだろ?」
「ええ。まずは抜けるだけ抜いてみましょう」
晴明はそのまま仕事部屋へ向かった。
源一郎と紫苑も後に続く。
仕事部屋へ入ると、晴明は妖刀を床へ置き、その周囲へ何枚もの札を並べ始めた。
以前にも見た光景だったが、今回は明らかに札の数が多い。
源一郎は壁際へ腰を下ろした。
紫苑も当然のように、そのすぐ隣へ座る。
しかも肩が触れるほど近い。
「紫苑」
「なに?」
「そっち、空いてるだろ」
「空いてるわね」
「なら少し離れろ」
「嫌」
紫苑は平然と答えると、さらに源一郎の腕へ身体を寄せた。
柔らかな感触が押し当てられる。
少し前までなら、それだけで源一郎の身体が固まっていた。
今はもう、ため息をつくだけだった。
「好きにしろ」
「あら。源ちゃん、本当に慣れたわね」
「毎回やられてたら慣れる」
「ちょっと寂しいかも」
「じゃあやめればいいだろ」
「それはもっと嫌」
源一郎が苦笑する。
そのやり取りを聞いていた晴明が、札を並べ終えて振り返った。
「始めますよ」
「ああ。頼む」
晴明が妖刀の前に座る。
両手で印を結び、低い声で短く呪を唱え始めた。
やがて妖刀を囲む札が、淡い光を放つ。
しばらくすると、鞘と鍔の隙間から黒い靄が滲み出した。
「おお……」
源一郎が目を細める。
黒い妖気は、以前に晴明が抜いた時とは比べものにならないほど多かった。
煙のように妖刀から浮かび上がり、周囲の札へ吸い寄せられていく。真っ白だった札が、一枚、また一枚と黒く染まっていった。
それに合わせて、部屋に満ちていた重苦しい気配も少しずつ薄れていく。
最後の黒い靄が消えたところで、晴明が印を解いた。
「一度持ってみてください」
源一郎が妖刀を受け取る。
先ほどまでとは違う。
「かなり軽くなったな」
鞘ごと持ち上げて確かめる。
水鬼を斬った直後に比べれば、明らかに軽い。
だが――。
源一郎は何度か手の中で重さを確かめ、眉を寄せた。
「まだ残ってる」
晴明が頷く。
「やはり全部は抜けません」
「刀の奥にか?」
「ええ」
晴明は源一郎から刀を受け取り、少しだけ抜いた。
白い刃の奥で、黒い影のようなものが微かに揺れている。
「表面に溜まった妖気は落とせます。しかし、すでに刀そのものへ染み込んだものまで無理に抜けば、刃を傷める可能性があります」
「つまり、残すしかない?」
「今のところは」
紫苑も晴明の肩越しに覗き込む。
「この刀、妖気を取り込んだまま変わろうとしてるのかもね」
「変わる?」
「どう変わるかまでは分からないけど」
源一郎は妖刀を見る。
妖怪を斬れる。
斬った妖怪の妖気を吸う。
吸えば吸うほど重くなる。
そして、晴明の術でも完全には元へ戻らない。
晴明から渡された時には、ただ妖怪を斬れるだけの刀だったはずだ。
それが少しずつ、別の何かになり始めている。
「面白いな」
紫苑がすぐに源一郎を見る。
「また嬉しそう」
「面白いものは仕方ないだろ」
「普通はもう少し警戒するのよ」
「警戒したら妖気が抜けるのか?」
「抜けないけど」
「なら晴明に任せる」
晴明が呆れたように源一郎を見た。
「随分と信頼されるようになりましたね」
「俺より詳しいからな」
「そういう理由ですか」
源一郎は笑った。
ただ、問題は残っている。
戦っている時に重くなるのは、まだ我慢できる。
妖怪を斬るために必要な代償だと思えばいい。
だが、戦っていない時まで同じ重さを腰へぶら下げるのは困る。
「晴明」
「なんです?」
「刀の中に残るのは仕方ないとして、持ち歩く時だけでも何とかならないか?」
晴明は答えなかった。
代わりに、妖刀ではなく鞘へ目を向ける。
源一郎はその視線に気づいた。
「橋でも、それ見てたな」
「ええ」
晴明は鞘を手に取り、ゆっくりと表面を確認していく。
「妖気を刀から抜くことだけを考えていましたが、それでは限界があります」
「なら?」
「抜けないのなら、鎮めればいい」
源一郎が首を傾げる。
「鎮める?」
晴明は鞘を掲げる。
「刀そのものに術をかけると、妖怪を斬るための力まで抑えてしまう可能性があります。ですが、鞘なら話は別です」
紫苑も意味を理解したらしい。
「ああ。刀を収めている間だけ、妖気を眠らせるのね」
「ええ」
源一郎は2人を見比べる。
「つまり?」
紫苑が笑った。
「源ちゃんが分かるように言うと、鞘に入れてる時だけ普通の刀みたいに軽くするってこと」
「それはいいな」
「本当に分かりやすい説明しか聞かないわね」
「分かればいいだろ」
晴明はすでに新しい札と筆を用意し始めていた。
「紫苑。手伝ってください」
「あら。私も?」
「結界の術を重ねた方が安定します」
紫苑の顔が少し得意げになる。
「仕方ないわねえ」
先ほどまで源一郎へくっついていた紫苑が、晴明の横へ移動した。
2人が並んで鞘を囲む。
源一郎はその様子を少し離れた場所から眺めた。
こうして見ると、やはり2人とも術に関しては相当に優れているらしい。
普段のやり取りからは、とてもそうは見えないのだが。
晴明が鞘へ直接、細い線を描いていく。
紫苑はその上から指先を滑らせ、淡い紫色の光を重ねていった。
複雑な模様が少しずつ鞘へ広がる。
「晴明、ここだと妖気が漏れるわよ」
「では、そこを閉じてください」
「私に任せすぎじゃない?」
「得意でしょう」
「まあね」
紫苑が嬉しそうに術を重ねる。
源一郎は腕を組んだ。
「お前たち、こういう時はちゃんと息合うんだな」
紫苑が振り返る。
「源ちゃん、それどういう意味?」
「普段はもっと適当だから」
「晴明がね」
「なぜ私なんです?」
晴明は手を止めないまま反論した。
源一郎は笑う。
しばらくして、鞘に描かれていた術式が淡く光り、そのまま布や木の中へ染み込むように消えていった。
表面を見ただけでは、何も変わっていない。
晴明が鞘を持ち上げる。
「これで試しましょう」
妖刀をゆっくりと鞘へ収める。
刃が完全に納まった瞬間だった。
源一郎にも分かった。
空気が変わった。
先ほどまで鞘の中から滲み出していた重い気配が、一気に静まった。
晴明が源一郎へ妖刀を差し出す。
「持ってみてください」
受け取る。
源一郎の眉が上がった。
「軽い」
ほとんど普通の刀と変わらない。
最初に晴明から渡された時と同じような感覚だった。
腰へ差してみる。
身体をひねる。
軽く歩く。
まるで先ほどまでの重さが嘘のようだった。
「これはいいな」
紫苑が腰へ手を当てる。
「私も手伝ったんだからね」
「ありがとう」
「あら、素直」
「礼くらい言う」
源一郎は嬉しそうに妖刀の柄へ手をかけた。
「抜いたらどうなる?」
晴明が答える。
「刀の妖気自体を消したわけではありません。恐らく――」
源一郎が刀を抜く。
刃が鞘から離れた瞬間。
ずしり。
両腕へ重さが戻った。
「……なるほど」
先ほど晴明が妖気を抜いてくれたため、水鬼戦の直後ほどではない。
それでも、納刀していた時とは明らかに違う。
紫苑が楽しそうに笑う。
「戻ったわね」
「ああ」
源一郎は数度刀を振ってみた。
やはり重い。
剣先が、源一郎の意識よりほんのわずかに遅れる。
「鞘から抜けば、妖気の鎮めが解けます」
晴明が説明する。
「そして戻せば?」
「また鎮まります」
源一郎は妖刀を鞘へ戻した。
すっと身体が軽くなる。
「おお」
もう一度抜く。
重い。
戻す。
軽い。
また抜く。
「源ちゃん」
紫苑が呆れた声を出した。
「なに?」
「楽しんでるでしょ」
「面白いだろ、これ」
「子どもみたい」
「92まで生きても面白いものは面白い」
源一郎はまた納刀した。
晴明が小さく息を吐く。
「遊ぶために術を入れたわけではありませんよ」
「分かってる」
「本当に?」
「たぶん」
「分かってませんね」
紫苑が声を上げて笑った。
しばらくして、源一郎は腰へ妖刀を戻した。
これなら普段の移動では何の問題もない。
だが、いざ戦闘になって抜刀すれば、吸い込んだ妖気の量に応じた重さが戻ってくる。
便利になった。
同時に、妖刀の性質もさらに分かりやすくなった。
「晴明」
「なんです?」
「これ、もっと妖気を吸ったらどうなる?」
晴明は少し考える。
「鞘に収めている間は、しばらく問題ないでしょう」
「抜いたら?」
「今よりさらに重くなる可能性が高いです」
源一郎は柄へ手を置いた。
「そうなると、やっぱり人間相手には使いたくないな」
晴明が源一郎を見る。
「この刀でも人は斬れますよ」
「斬れるかどうかじゃない」
源一郎は鞘からほんの少し刃を覗かせる。
それだけでも、妖気の重さが腕へ伝わった。
「俺はもっと速く振れる」
晴明は黙った。
「普通の人間を相手にするなら、こんな重さはいらない。刀の方に動きを合わせるのは嫌だ」
紫苑が呆れたように源一郎を見る。
「本当に面倒な剣士ね」
「前にも言われたな」
「そのうち普通の刀も欲しくなるんじゃない?」
源一郎は少し考えた。
「もう欲しい」
「早いわね」
晴明が小さく笑う。
「今すぐ必要というわけでもないでしょう」
「まあな」
今のところ、源一郎が斬る必要のある人間には出会っていない。
だが、この世界に来てから知った。
妖怪がすべて悪いわけではない。
そして、人間がすべて善いわけでもない。
いつか、人間を相手に刀を抜かなければならない日も来るのだろう。
その時、この妖刀ではなく、自分の剣をそのまま使える一本が欲しい。
源一郎は、そんなことをぼんやりと考えていた。
昼を少し回った頃。
屋敷の門前から声がした。
「桐生源一郎殿はいらっしゃいますか」
源一郎が顔を上げる。
「俺?」
この時代へ来てから、自分宛てに誰かが訪ねてきたのは初めてだった。
晴明と紫苑も少し意外そうに顔を見合わせる。
門の前には若い男が立っていた。
武士の従者らしい。
源一郎が出ていくと、男は丁寧に頭を下げた。
「渡辺綱様より、言伝を預かっております」
「綱から?」
「はい」
男は一度姿勢を正した。
「『先日の約束、忘れるな』とのことです」
源一郎の口元が上がる。
「それだけ?」
「それだけにございます」
「律儀な奴だな」
従者が帰っていく。
源一郎が屋敷へ戻ると、紫苑が面白そうにこちらを見ていた。
「約束って何?」
「手合わせ」
紫苑の笑顔が消える。
「本当にやるの?」
「約束したからな」
晴明も呆れたように口を挟んだ。
「わざわざ怪我をするようなことをしなくてもいいと思いますが」
「稽古だ」
「源一郎と綱がやって、稽古で済みます?」
「済ませる」
「本当に?」
源一郎は少し考えた。
「たぶん」
晴明がため息をついた。
紫苑も同じようにため息をつく。
「源ちゃん」
「なんだ?」
「普通の刀、壊さないでね」
源一郎は少し笑った。
「そこまでじゃない」
だが。
その言葉に一番自信がなかったのは、源一郎自身だった。
妖刀は鞘に収まったまま、静かに腰へ下がっている。
中には、晴明でも完全には抜くことのできなかった妖気が残っている。
それでも今は、普通の刀と変わらないほど軽い。
次に抜くまでは。
そして今度は、その妖刀を使わない戦いが待っていた。
渡辺綱との手合わせ。
源一郎は、久しぶりに純粋な剣の勝負ができることを思い、自然と笑みを浮かべていた。




