水鬼の核
白い腕が、川面を割って一斉に橋へ伸びてきた。
源一郎と綱はほとんど同時に左右へ散る。人の腕よりも太いそれらは、蛇のように橋板を這いながら2人を追い、先端に生えた白い爪で木を深く削っていった。
源一郎は迫ってきた一本を紙一重でかわすと、そのまま懐へ踏み込んだ。
妖刀が下から斜めに走る。
腕は抵抗らしい抵抗もなく両断され、橋へ落ちるより先に黒い靄へ変わった。それを確認する暇もなく、背後から別の腕が迫る。源一郎は身体を返し、その勢いのまま二本目まで斬り落とした。
「数が多いな」
「数えてる暇があるなら斬れ!」
反対側から綱の声が飛んできた。
「もう斬ってる」
源一郎が答えた時には、三本目が宙を舞っていた。
切断された場所から黒い妖気が溢れ、その一部が刀身へまとわりつく。それは煙のように刃の上を這ったあと、ゆっくりと内部へ吸い込まれていった。
その瞬間、源一郎の眉がわずかに動く。
まただ。
持てないほどではない。だが、最初に晴明から渡された時より明らかに刀の動きが鈍い。源一郎が踏み込んだ瞬間から、刃がほんのわずか遅れてついてくる。
普通の剣士なら気にも留めない程度の違いだった。
源一郎には、それが気持ち悪い。
「また食ったな」
刀へ向けて呟いた直後、綱の声が飛んだ。
「源一郎!」
顔を上げる。
水鬼が川面を滑るように迫っていた。
3m近い巨体が、一気に間合いを潰してくる。振り上げられた青黒い腕が頭上から落ちてきたが、源一郎は正面から受けず、身体を半歩だけ外へずらした。
巨大な拳が橋板へ叩きつけられる。
木が砕け、破片が飛んだ。
「近くで見ると、余計でかいな」
「感心してる場合か!」
綱はすでに水鬼の背後へ回っていた。
鋭い斬撃が右脚を深く裂く。人間ならその場で倒れてもおかしくない傷だったが、水鬼は揺らいだだけだった。傷口から黒い妖気が湧き上がり、裂けた肉が見る間に繋がっていく。
「やっぱり戻るか」
綱が顔をしかめた瞬間、水鬼の長い腕が背後へ薙ぎ払われた。
綱は低く沈み込んで避けたが、その足元では川面に広がっていた黒髪のような妖気が蠢いていた。それが足首へ絡みつき、一瞬だけ動きを止める。
水鬼の裂けた口が大きく開いた。
源一郎はすぐに間へ入った。
肩口へ妖刀を打ち込み、そのまま大きく振り抜く。
「離せ」
黒い妖気が断たれ、綱の足を縛っていたものも一緒に霧散した。
「助かった」
距離を取った綱が短く言う。
「礼は後でいい」
「言うだけ言わせろ」
「律儀だな」
そんな会話をしている間にも、水鬼の傷は塞がり始めていた。
だが、源一郎はそこで違和感に気づく。
「……さっきより遅いな」
綱が斬った脚は、ほとんど元通りになっている。
それに対し、源一郎が妖刀で斬った肩はまだ黒い妖気を漏らし続けていた。再生してはいるものの、明らかに速度が違う。
橋の端で戦況を見ていた晴明が口を開いた。
「その刀の影響です」
源一郎が一瞬だけ妖刀を見る。
「そんな力もあったのか?」
「私も今知りました」
「晴明がくれた刀だろ?」
「妖を斬れるようにしただけです。こんな性質まで加えた覚えはありません」
紫苑も結界を維持したまま、不思議そうに刀を見ていた。
「源ちゃん、その刀……本当にどんどん変になっていくわね」
「俺に言うな」
再生を終えた水鬼が、突然大きく後退した。
そのまま川へ沈む。
「逃げる!」
紫苑が声を上げる。
だが、晴明は首を横に振った。
「違います。下です」
源一郎が水面を覗き込む。
暗い川底に、人の姿があった。
先ほど一瞬だけ見えた男だ。
まだ生きている。
そしてその身体へ向かって、水鬼から伸びた白い腕が何本も迫っていた。
「先に喰うつもりか」
源一郎は欄干へ足をかける。
綱がすぐに肩を掴んだ。
「待て。川に入る気か?」
「まだ生きてる」
「分かってる。だが水の中じゃ向こうの方が速いぞ」
源一郎は綱を見る。
「だからって見てるのか?」
綱は何も言わなかった。
代わりに晴明が一歩前へ出る。
「私が止めます」
4枚の札が指先から放たれ、水面の四方へ散った。川に触れた札は流されることなく淡い光を放ち、互いを線で結ぶ。
晴明が印を組む。
「縛」
川面が大きく震えた。
水底へ沈もうとしていた水鬼の身体が、何かに縫いつけられたように止まる。
「長くは持ちません」
「十分だ」
源一郎は妖刀を鞘へ収めると、そのまま橋から飛び込んだ。
冷たい水が全身を包んだ。
思った以上に流れが強い。それでも20代の身体は、源一郎の思った通りに動いてくれた。
一気に潜り、川底へ向かう。
男の身体には何本もの黒い妖気が巻きついていた。源一郎が腕を掴むと、弱々しいが反応がある。
生きている。
黒いものを素手で掴もうとするが、指がすり抜ける。
こういう相手には、やはり妖刀が必要だった。
源一郎は再び抜刀する。
抜いた瞬間、それまで腰に感じていた以上の重さが腕へ乗った。さらに水の抵抗まで加わり、地上とは比較にならないほど振りにくい。
それでも一本ずつ、男を縛る妖気を斬っていく。
最後の一本を断ち切り、男を抱えて水面へ向かおうとした。
その時だった。
晴明の術が砕けた。
水底から巨大な影が迫る。
速い。
源一郎が振り向いた時には、白く濁った目がすぐそこまで来ていた。
長い腕が伸びる。
男を片腕で抱えたままでは避けきれない。
源一郎は妖刀を横へ構えた。
凄まじい衝撃が全身を走り、身体ごと水中を押し戻される。
「……っ!」
男を離すわけにはいかない。
水鬼がもう一度腕を振るおうとした、その瞬間。
水面から一本の刀が突き込まれた。
水鬼の腕が途中から斬り飛ばされる。
橋から身を乗り出した綱だった。
「上がれ!」
源一郎は水面へ出る。
綱が男の着物を掴み、源一郎が下から身体を押し上げる。2人がかりで橋へ引き上げると、男は激しく咳き込みながら大量の水を吐いた。
紫苑がすぐに駆け寄った。
「生きてるわ」
その言葉を聞いて、源一郎はようやく息を吐いた。
「頼む」
「任せて」
男を紫苑へ預け、源一郎は濡れた髪をかき上げながら立ち上がった。
川面が大きく揺れる。
再び水鬼が姿を現した。
「さて」
綱も刀を構え直す。
「これで遠慮はいらないな」
「ああ」
「どっちが先に仕留める?」
源一郎は思わず笑った。
「競争する仕事じゃないだろ」
「さっきから俺の剣を楽しそうに見てる奴が言うか?」
「いいものは見たいだけだ」
「同じようなもんだ」
水鬼が咆哮した。
2人は同時に動く。
先に間合いへ入ったのは綱だった。
水鬼の腕が頭上から振り下ろされる。綱はぎりぎりまで引きつけて身体を流し、そのまま刀を走らせた。
左腕が落ちる。
返す刃で右腕まで断つ。
ほとんど間がない。
源一郎の目が自然と細くなった。
「やっぱり速いな」
「感心してないで来い!」
綱が叫ぶ。
源一郎はすでに水鬼の懐へ入っていた。
妖刀を抜き、腹から胸、肩へと連続して斬撃を入れる。傷口から黒い妖気が噴き出し、水鬼は大きく後退した。
だが倒れない。
「違うな」
肉体には届いている。
妖気の流れも乱している。
それでも本体を斬った感覚がない。
晴明は少し離れた場所から、何もせず水鬼を見続けていた。
白く濁った目。
胸。
腹。
再生する傷。
全身を巡る妖気。
紫苑が横から声をかける。
「晴明」
「もう少しです」
「まだ見てるの?」
「弱点を探しています」
水鬼の腕が再び生え始める。
その口が大きく開いた。
すると、そこから人間の声が溢れ出した。
「助けて……」
「寒い……」
「こちらへ……」
「帰りたい……」
男も女もいる。
老人も若者も。
喰われた人間たちの声なのかもしれない。
源一郎の表情から笑みが消えた。
「趣味が悪いな」
水鬼が突進する。
綱が右へ。
源一郎は左へ。
打ち合わせをしたわけではない。
それでも戦うほどに、2人の動きは自然と噛み合っていった。
綱が水鬼の視線を奪えば、源一郎が死角へ入る。源一郎が腕を斬れば、綱がその隙を使って懐へ潜る。
互いに相手の動きを邪魔しない。
むしろ次に何をするのか、何となく分かる。
「今日会ったばっかりよね、あの2人」
紫苑が呆れたように呟く。
晴明は水鬼から視線を外さない。
「武人同士には、あれで十分なのでしょう」
「晴明には分からない世界ね」
「別に分かりたくありません」
その時だった。
晴明の視線が、水鬼の胸で止まった。
傷が塞がるたび、全身の妖気が一瞬だけ一点へ集まっている。
心臓より少し下。
そこだけ、流れが違う。
「源一郎」
声が飛ぶ。
水鬼の攻撃をかわしながら、源一郎が返した。
「なんだ?」
「胸です。心臓より少し下」
晴明が一点を指す。
「そこに核があります」
源一郎の目が変わった。
場所さえ分かればいい。
「綱!」
「ああ、聞こえてる!」
「開けられるか?」
綱が笑った。
「誰に言ってる」
水鬼が両腕を振り回す。
綱は真正面から間合いへ入った。
右腕。
左腕。
2本を続けざまに斬り落とし、その勢いを殺さず水鬼の胸へ刃を叩き込む。
肉が深く裂けた。
黒い妖気が噴き出す。
だが、普通の刀ではその奥にあるものまでは届かない。
「源一郎!」
「分かってる!」
源一郎が踏み込んだ。
妖刀を両手で握る。
重い。
斬れば斬るほど妖気を吸い、明らかに最初より動きが鈍くなっている。
腕だけでは駄目だ。
源一郎は足を踏み込み、腰を回した。背中、肩、腕までを一つの動きとして繋げる。
綱が開いた傷へ刃を滑り込ませた。
奥で、何か硬いものに触れる。
一瞬だけ刀が止まった。
「そこか」
源一郎はさらに踏み込んだ。
刃が振り抜かれる。
乾いた音がした。
水鬼の身体が止まる。
胸の奥にあった黒い球体が、真っ二つに割れていた。
「ァ……」
裂けた口から短い声が漏れる。
次の瞬間、身体に細い亀裂が走った。
それは瞬く間に全身へ広がり、大量の妖気が噴き出した。
「源ちゃん!」
紫苑が叫ぶ。
だが妖気は周囲へ散らなかった。
黒い靄が一斉に源一郎の妖刀へ集まり始める。
刃を包み、そのまま内部へ吸い込まれていく。
刀身が低く震えた。
源一郎の両腕が、わずかに下がる。
「……重っ」
今までとは違う。
持てないわけではない。
だが、刀だけが下へ引っ張られているような感覚がある。
綱が横から見る。
「どうした?」
「こいつ、また妖気を食った」
源一郎は試しに持ち上げてみる。
上がる。
だが、明らかに重かった。
軽く動かしただけでも、刃がわずかに遅れてついてくる。
「これは結構きたな」
水鬼はその間にも崩れていた。
青黒い身体が煙へ変わり、夜の川へ溶けていく。
やがて最後に残った頭も消えた。
橋の下が静かになる。
源一郎は妖刀を両手で持ち、慎重に鞘へ戻した。
完全に刃が収まる。
それでも重さは消えなかった。
「……重いままだな」
鞘ごと持ち上げる。
抜いている時より扱いやすくはあるが、以前とは明らかに違う。腰に差して歩き続ければ、邪魔になるのは間違いなかった。
晴明が近づき、鞘の上から妖刀へ手を添える。
「かなり吸っていますね」
「帰ったら抜けるか?」
「ある程度なら。ただ、刀そのものに染み込んだ妖気までは完全に抜けません」
源一郎は腰の刀を見る。
「このまま重くなり続けると、持ち歩くのも面倒だな」
「そうですね」
珍しく晴明もすぐ同意した。
紫苑が助け出した男の様子を見ながら振り返る。
「源ちゃん、それずっと腰に差すつもりなんでしょ?」
「そのつもりだ」
「その重さで?」
「だから困ってる」
「やっと困った顔した」
「戦う時に重いのはまだいい。普段まで重いのは嫌なんだ」
晴明は妖刀ではなく、その鞘をしばらく見つめていた。
何かを考えている。
源一郎が気づいた。
「何か思いついたか?」
「少し」
「何をする?」
「屋敷へ戻ってから試します」
晴明はそれ以上説明しなかった。
源一郎も追及しない。
「じゃあ任せる」
「随分あっさりですね」
「こういうのは晴明の方が詳しいだろ」
「珍しく正しい判断です」
「珍しくは余計だ」
紫苑が笑った。
源一郎は重くなった妖刀を腰へ差し直した。
ずしりとした感覚が腰へ乗る。
このまま妖怪を斬り続ければ、さらに重くなるのだろう。
その先に何があるのかはまだ分からない。
それでも今は、目の前にもっと大事なものがあった。
橋の端では、助け出された男がまだ咳き込んでいる。
生きている。
源一郎はそれを確認し、ようやく表情を緩めた。
「間に合ったな」
「ええ」
晴明が頷いた。
消えた4人のうち、3人は戻らなかった。
それでも最後の1人だけは助けられた。
源一郎にとっては、それで十分にこの場へ来た意味があった。
綱はしばらく川を見つめていたが、やがて刀を鞘へ収めた。
そして源一郎へ向き直る。
「源一郎」
「なんだ?」
「今度、俺とやれ」
「何を?」
綱は自分の刀の柄を軽く叩いた。
「決まってるだろ。手合わせだ」
源一郎の口元が上がった。
「いいぞ」
迷いのない返事だった。
ただし、自分の腰に差した妖刀へ手を置く。
「これじゃなく、普通の刀を貸してくれるならな」
綱の眉が少し上がった。
「なぜだ?」
「今みたいに刀の方が俺の動きを邪魔してる状態でやっても、俺の剣じゃない」
綱は数秒、源一郎を見つめた。
やがて楽しそうに笑う。
「いいな」
「何が?」
「そういう面倒くさいところだ」
「褒めてるのか?」
「褒めてる」
少し離れたところで紫苑が肩を落とす。
「戦いが終わったばっかりなのに、もう次に戦う話してる」
晴明も呆れたように息を吐いた。
「放っておきましょう」
「晴明に賛成」
源一郎と綱は、そんな2人を気にする様子もなかった。
橋の上には、激しい戦いの跡が残っている。
渡辺綱の剣。
源一郎の妖刀。
晴明が見抜いた妖の核。
そして、助けることのできた1人の命。
初めての共闘は終わった。
ただ、源一郎の腰には、それまでとは比べものにならないほど重くなった妖刀が残っている。
どう扱うのか。
その答えを考えるのは、屋敷へ戻ってからでよかった。




