川底の水鬼
橋の下から聞こえた笑い声は、しばらく水面に残っているように思えた。
低く、濁った音だった。
人の声にも聞こえる。だが、喉から出した声というより、水の底に沈んだ何かが無理やり笑い方だけを真似ているような、不快な響きだった。
源一郎は欄干から川を覗き込む。
月明かりが水面に揺れている。
つい先ほどまで、そこには何もなかったはずだ。
「晴明」
「動かないでください」
晴明は水面から目を離さなかった。
手にはすでに札が数枚握られている。その横では紫苑も笑みを消し、橋の周囲に張った結界へ意識を集中させていた。
綱だけは刀を抜いたまま、源一郎と同じように川を見下ろしている。
「来るぞ」
綱が呟いた。
次の瞬間だった。
水面が膨らんだ。
最初は小さな波だった。
それが川の中央から急速に広がり、まるで下から巨大な何かに押し上げられているように、水そのものが盛り上がっていく。
そして。
バシャアッ!
大量の水が弾けた。
源一郎の目の前を、白い何かが通過する。
反射的に身体を引いた。
細長い腕だった。
いや、腕に見えるだけで、人間のものとは到底思えない。肘があるべき場所を無視するように曲がり、濡れた白い指が橋板へ爪を立てる。
ギィィィィ……。
木を削る嫌な音がした。
「さっきの腕か」
源一郎が腰を落とす。
川の中から、さらにもう1本。
その隣から、また1本。
白い腕が次々と水面を突き破った。
5本。
6本。
明らかに1体の身体から生えている数ではない。
紫苑が目を細める。
「全部本物の腕じゃないわ」
「妖気か?」
「ええ。形にしてるだけ」
白い腕の1本が綱へ伸びた。
綱は躊躇なく刀を振るう。
一閃。
腕が途中から斬り落とされ、水面へ落ちる前に黒い靄へ変わった。
だが、切断されたはずの根元から妖気が溢れ、すぐに新しい指先が伸び始める。
綱の眉が寄った。
「再生するのか」
「面倒そうだな」
源一郎が言った直後、足元の橋板が大きく揺れた。
川の中央から、黒い頭が浮かび上がる。
長い髪だった。
濡れた黒髪が水面いっぱいに広がり、その中心から巨大な顔がゆっくりと姿を現す。
源一郎は思わず見上げた。
「……でかいな」
水鬼が川から立ち上がる。
完全に姿を現した身体は、3m近くあった。
青黒い皮膚。
異様に長い両腕。
骨ばった指先には、魚の骨のように白い爪が伸びている。
腰近くまである黒髪は、水から上がっても肌へ張りついたままで、その隙間から白く濁った目が覗いていた。
口元だけは、人間とは思えないほど横へ裂けている。
その口が開いた。
「ァ……ァァ……」
声と同時に、水鬼の身体から冷たい妖気が広がった。
紫苑の結界が薄紫色に光る。
「強いわね」
「さっきの女とは全然違うな」
源一郎も分かった。
橋の上に現れた女からは、ほとんど妖気を感じなかった。
だが、これは違う。
目の前に立っているだけで、肌へ冷たいものがまとわりつく。
晴明が静かに言った。
「あの女はやはり餌だったのでしょう」
「餌?」
綱が水鬼から目を離さず聞く。
晴明は、先ほど拾った濡れた髪の束を見せた。
「死者の髪と残った念から、見た目だけを作っていた。人間を橋の中央まで誘い出すために」
源一郎が水鬼を見る。
「美人なら男が寄ってくると覚えたわけか」
「長く人間を喰っていれば、それくらいは学びます」
「賢いのか馬鹿なのか分からんな」
紫苑が横から源一郎を見る。
「源ちゃんも普通についていったじゃない」
「仕事だ」
「胸まで見てたけど?」
「そこはもういいだろ」
綱がこんな時だというのに笑った。
その笑い声に反応したのか、水鬼の首が不自然な角度で傾く。
白く濁った目が綱へ向いた。
次の瞬間。
消えた。
「なに?」
綱の声とほぼ同時に、水面が大きく弾けた。
水鬼が一瞬で橋の反対側へ移動している。
3m近い巨体からは想像できない速さだった。
「水の中だと速いな」
源一郎が振り向く。
水鬼の長い腕が橋を横から薙いだ。
源一郎と綱が同時に後ろへ跳ぶ。
太い腕が欄干を打ち砕いた。
木片が宙へ舞う。
その間にも、水面から伸びた白い腕が何本も橋へ這い上がってくる。
「晴明!」
紫苑が声を上げる。
「結界は維持してください」
晴明は動かない。
「手を出さないの?」
「まだ必要ありません」
晴明の視線の先には、すでに源一郎と綱がいた。
源一郎も妖刀へ手をかける。
綱は一歩前へ出た。
水鬼が大きく腕を振り上げる。
綱が迎え撃った。
刀が月光を反射する。
次の瞬間。
水鬼の左腕が宙へ飛んだ。
あまりにも綺麗な一太刀だった。
巨大な腕が橋の上へ落ち、黒い妖気を撒き散らす。
源一郎の目が細くなる。
「やっぱり速いな」
綱が刀についた妖気を払う。
「感心してる場合か」
「いいものはいい」
だが、斬られた水鬼は倒れなかった。
腕の付け根から黒い妖気が湧き上がる。
肉が蠢き、骨が伸び、数秒もしないうちに新しい腕が形を作り始めた。
「面倒な奴だな」
綱が顔をしかめる。
「肉を斬るだけでは駄目です」
晴明の声が飛ぶ。
源一郎が水鬼を見る。
「じゃあ、どこを斬ればいい?」
晴明は答えなかった。
まだ見ている。
妖気の流れ。
再生する腕。
水の中と身体を行き来する気配。
水鬼が再び口を開いた。
その奥から、先ほどと同じ女の声が聞こえた。
「……こちらへ」
源一郎の表情から笑みが消える。
水鬼の裂けた口の奥で、いくつもの声が重なっていた。
男。
女。
老人。
若者。
これまで喰われた者たちの声なのかもしれない。
そして水鬼の背後。
暗い川底に、人のような影が一瞬見えた。
動いた。
源一郎が目を凝らす。
「晴明」
「見えました」
「あれ、人じゃないか?」
綱も水面を見る。
暗い。
だが確かに、水鬼の後ろに人間の腕らしきものが浮かんでいた。
晴明の顔が変わった。
「まだ生きています」
源一郎の右手が柄を握る。
「なら話が変わったな」
「何がだ?」
綱が聞く。
源一郎は妖刀を抜いた。
白い刃が月明かりの下に現れる。
「倒す前に、助ける」
水鬼が咆哮した。
白い腕が一斉に橋へ伸びる。
源一郎はその群れを見ながら、ほんの少しだけ腰を落とした。
「綱」
「なんだ?」
「少し付き合え」
綱の口元が上がる。
「最初からそのつもりだ」
2人が同時に地面を蹴った。




