橋の女
日が沈むにつれ、橋の周囲から人の姿が消えていった。
昼間にはまだ通行人もいたというのに、空が赤く染まり始めた頃には、橋へ近づこうとする者さえほとんどいない。人が消えるという噂は、源一郎が思っていた以上に広まっているらしい。
橋のたもとでは、役人たちが少し離れた場所から様子を窺っていた。
源一郎は欄干へ背を預け、暗くなり始めた川を眺めている。
その少し隣には渡辺綱がいた。
綱は腰に刀を差したまま、先ほどからほとんど動いていない。
ただ立っているだけ。
それなのに、源一郎には分かった。
隙が少ない。
「源一郎だったな」
突然、綱が口を開いた。
「ああ」
「何流だ?」
源一郎は少し考えた。
剣道。
柔術。
それ以外にも、生前はいくつかの古い型や技を学んできた。
だが、この時代の人間へどう説明すればいいのかは難しい。
「色々だな」
綱が横目で見る。
「色々?」
「長くやってたんだ」
「見た目の割に随分年寄りみたいな言い方するな」
源一郎は少しだけ笑った。
「よく言われる」
離れた場所で聞いていた紫苑が口元を押さえて笑う。
源一郎はそちらを見た。
「聞こえてるぞ」
「何も言ってないわよ、源ちゃん」
顔が言っている。
晴明はそんな2人を気にすることもなく、橋の周辺へ何枚か札を配置していた。
綱の視線が源一郎の腰へ移る。
「その刀も妙だ」
「これか?」
源一郎が妖刀の柄へ手を置く。
晴明に妖気を抜いてもらったとはいえ、最初にもらった頃よりわずかに重い。
「妖気がする」
「分かるのか?」
「多少はな」
綱は源一郎ほど妖怪について詳しいわけではなさそうだが、怪異と戦う経験は相当に積んでいるのだろう。
「自分で打たせた刀じゃなさそうだが」
「もらった」
「誰に?」
源一郎が晴明を指差した。
綱が一度晴明を見る。
そして再び源一郎を見る。
「……それはまた随分と厄介そうなものを」
「俺も最近そう思ってる」
綱が初めて少し笑った。
妙な男だ。
源一郎はそう思った。
だが嫌いではない。
むしろ、もう少し話してみたいとも思う。
武術を長くやっている者同士には、言葉にしなくても分かるものがある。
立ち方。
呼吸。
手の位置。
足の置き方。
綱もまた、源一郎を観察しているらしかった。
「その刀、抜いたところを見てみたいな」
「そのうちな」
「今じゃ駄目か?」
「仕事中だろ」
綱が少し意外そうに源一郎を見る。
源一郎は笑った。
「晴明に怒られる」
「正しい判断です」
離れていたはずの晴明から声が飛んできた。
綱が眉を上げる。
「耳がいいな」
「聞こえる距離です」
晴明は当然のように答えた。
完全に日が落ちた。
月明かりが橋を照らしている。
源一郎たちは橋の近くへ留まり、しばらく待った。
何も起こらない。
川の流れる音だけが聞こえている。
源一郎が小さく欠伸をしようとした、その時だった。
「来ました」
晴明の声が変わった。
源一郎もすぐに気づく。
橋の反対側。
人影がある。
女だった。
ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
月明かりの下へ姿が出た瞬間、源一郎は少し目を見開いた。
美しい。
年の頃は20代ほど。
長い黒髪が背中へ流れ、淡い色の着物を身につけている。
月の光を受けた肌は白く、整った顔立ちは遠目でも分かるほどだった。
源一郎はしばらく女を見る。
隣から紫苑の声が飛んできた。
「源ちゃん」
「なんだ?」
「見すぎ」
「怪異か確認してるだけだ」
「胸まで?」
源一郎が少し黙る。
「……そこはついでだ」
紫苑の目が細くなった。
綱が隣で吹き出す。
「面白い男だな、お前」
「褒め言葉として受け取っとく」
晴明だけは笑わなかった。
女をじっと見ている。
「妖気が薄い」
その言葉で、源一郎の意識が切り替わった。
「妖怪じゃない?」
「まだ断定できません」
女はゆっくり橋の中央へ進んでくる。
足取りは軽い。
源一郎たちに警戒している様子もない。
やがて女が止まった。
その視線が、真っ直ぐ源一郎へ向く。
「そこの方……」
澄んだ声だった。
「はい」
源一郎は反射的に返事をした。
紫苑が腕を掴む。
「源ちゃん」
「仕事だ」
「ちょっと嬉しそう」
「気のせいだ」
女が手招きする。
「少し、こちらへ来ていただけませんか?」
源一郎は晴明を見る。
晴明は止めなかった。
「近づいてみてください。ただし、刀は抜かないように」
「分かった」
紫苑が源一郎の腕を離さない。
「本当に行くの?」
「何がいるのか分からないだろ」
「私も行く」
「結界は?」
紫苑が少し止まった。
橋の周辺を覆うように張った結界を維持しているのは紫苑だ。
「……源ちゃん、こういう時だけ真面目ね」
「仕事中だからな」
晴明の影響なのかもしれない。
源一郎はそう思いながら、女へ近づいていった。
歩きながら、違和感があった。
最初は何か分からなかった。
だが数歩進んだところで気づく。
音がしない。
女は歩いている。
確かに足を動かしている。
なのに、草履が橋板を踏む音が聞こえない。
源一郎は少しだけ目を細めた。
さらに月明かりへ目を向ける。
自分の影はある。
綱の影もある。
晴明や紫苑の影もある。
だが女の足元には、ほとんど影が落ちていなかった。
「なるほど」
源一郎が呟く。
女が首を傾げる。
「何か?」
「いや。綺麗な夜だと思ってな」
女が微笑んだ。
「こちらです」
そのまま橋の中央へ。
源一郎も続く。
少し離れて綱がついてくる。
「お前も来るのか?」
「何かあってからじゃ遅い」
「心配してくれるのか」
「お前じゃない。仕事だ」
「晴明みたいなこと言うな」
綱が笑う。
橋の中央へ到着すると、女は欄干の外を指した。
「こちらをご覧ください」
暗い川が流れている。
源一郎は欄干へ近づいた。
水面には月が揺れていた。
「何を見るんだ?」
「もう少し」
女の声が変わった気がした。
源一郎が少しだけ身体を前へ傾けた瞬間。
水面が弾けた。
白い腕が飛び出した。
源一郎の右足首を掴む。
「おっと」
身体が一気に川へ引かれる。
だが源一郎は倒れなかった。
左足を踏み込み、腰を落とす。
橋板が小さく軋んだ。
「力は結構あるな」
源一郎が感心する。
水中から伸びた腕が、さらに強く引いた。
その瞬間。
鋭い音が走った。
白い腕が切断される。
源一郎の足首を掴んでいた手が力を失い、橋の上へ落ちた。
綱だった。
抜刀した姿勢のまま、源一郎の横に立っている。
源一郎は足元へ落ちた腕を見る。
それから綱を見る。
「速いな」
「お前もな」
「俺は何もしてないぞ」
「引かれたのに体勢が全く崩れてない」
綱は刀を払う。
切り落とした腕が黒い靄へ変わり、水へ溶けていった。
「普通なら、もう川の中だ」
「足腰には自信がある」
「その程度じゃないだろ」
綱の口元が少し上がる。
源一郎も笑った。
やはり、この男とは気が合いそうだった。
その時。
女の笑い声がした。
2人が振り向く。
女の顔が変わっている。
美しかった笑顔が、不自然なほど大きく歪んでいた。
「来て……」
声も先ほどとは違う。
「こちらへ……もっと……」
女が後ろへ下がる。
欄干の向こう。
そのまま川へ落ちるはずだった。
だが身体は落ちなかった。
宙に浮いている。
髪が風もないのに広がった。
「晴明!」
源一郎が呼ぶ。
晴明はすでに札を持っていた。
「動かないでください」
女の身体が一瞬揺れる。
次の瞬間。
消えた。
跡形もなく。
源一郎はすぐに周囲を見る。
川。
橋。
対岸。
どこにもいない。
「逃げた?」
綱が刀を構えたまま聞く。
「いいえ」
晴明が橋の中央へ歩いてくる。
女が立っていた場所へしゃがんだ。
そこに、何かが落ちていた。
長い黒髪。
数本ではない。
切り取られたような髪の束だった。
しかも濡れている。
晴明が直接触れず、札を一枚重ねて持ち上げる。
紫苑も近づいてきた。
「嫌な感じ」
「妖気か?」
源一郎が聞く。
紫苑は首を傾げる。
「ある。でも、あの女から感じたものとは少し違う」
晴明が髪を確認する。
「これは生きている人間のものではありません」
源一郎の表情が変わる。
「死者の髪?」
「ええ」
綱も顔をしかめた。
「じゃあ、今の女は幽霊か?」
晴明は首を横に振った。
「それも違います」
「どういうことだ?」
源一郎が尋ねる。
晴明は橋の外へ視線を向けた。
暗い川。
先ほど腕が伸びてきた場所。
水面はもう何事もなかったように流れている。
「女には、ほとんど妖気がありませんでした」
「でも消えたぞ」
「だからです」
晴明が濡れた髪を見る。
「恐らく、あれは姿だけ」
源一郎は眉を寄せる。
「姿だけ?」
「死者の髪や残った念を使って作られた、餌のようなものでしょう」
紫苑が小さく呟く。
「人を橋の中央まで誘うための?」
「ええ」
晴明が頷く。
「そして、誘われた者を川へ引き込む」
源一郎は暗い川を覗く。
「じゃあ本体は……」
「下でしょうね」
晴明が静かに答えた。
「少なくとも、今の女ではありません」
綱が川へ目を向ける。
「川の中に何かいるってことか」
晴明は答えなかった。
その代わり、一枚の札を水面へ落とす。
札はゆっくりと川へ着いた。
流される。
そう思った次の瞬間。
水面の下から、何かが札を掴んだ。
一瞬だった。
白い札が、暗い川の底へ引きずり込まれる。
源一郎の目が細くなった。
綱も刀の柄へ手を置き直す。
紫苑の表情から笑みが消えた。
晴明だけは静かに川を見ていた。
「やはりいますね」
「何が?」
源一郎が聞く。
晴明はすぐには答えなかった。
暗い水面の向こう。
何か大きなものが、ゆっくりと動いたように見えた。
「それを調べるのは――」
晴明が立ち上がる。
「これからです」
橋の下から、低い音が響いた。
まるで誰かが、水の底で笑ったような音だった。




