陰陽寮からの書状
門の外に立っていた男は、これまで晴明の屋敷を訪ねてきた使いの者とは少し雰囲気が違っていた。
身なりは整い、姿勢も崩れない。手には丁寧に畳まれ、封をされた一通の書状を持っている。
晴明が門まで出ると、男は深く頭を下げた。
「陰陽寮より参りました。晴明殿へ、こちらを」
「ご苦労さまです」
晴明が書状を受け取る。
男はそれで帰る様子を見せず、その場に留まった。
源一郎は少し離れたところからその様子を見ていた。隣には、当然のように紫苑がいる。
「帰らないんだな」
「返事を待ってるんでしょ」
紫苑が小声で答える。
「今までの依頼とは違うのか?」
「違うわよ。今までのは個人的な依頼だったもの」
源一郎は晴明を見る。
つい先ほどまで朝帰りの痕跡を残していた男とは思えないほど、すでに身なりは整っていた。襟も帯も乱れ一つなく、肩についていた白粉も消えている。
書状の封を切る表情も、完全に仕事のものだった。
「切り替え早いな」
「晴明はあれだけは昔からすごいのよね」
「あれだけ?」
「仕事だけ」
少し離れていたはずなのに、晴明が顔を上げた。
「聞こえていますよ、紫苑」
「聞こえるように言ったもの」
晴明は何も返さず、書状へ視線を戻した。
源一郎は紫苑の横へ立ちながら、少し声を落とす。
「陰陽寮っていうのは、晴明みたいなのが集まって妖怪を退治するところなのか?」
紫苑が答えようとしたところで、晴明が書状を読みながら口を開いた。
「違います」
「聞こえてたのか」
「この距離なら聞こえます」
晴明は書状を読み終えると、丁寧に畳んだ。
「陰陽寮は、妖怪退治をするためだけの場所ではありません。占い、天文、暦、時刻。他にも朝廷に必要な仕事があります」
「じゃあ妖怪は?」
「怪異や呪詛が朝廷や都に関われば、こちらへ回ってくることがあります」
源一郎は少し納得した。
「つまり、何でも妖怪が出たら晴明のところに来るわけじゃないんだな」
「その通りです。庶民の家で起きた怪異まで、すべて陰陽寮で把握しているわけではありません」
「だから今までの依頼は、直接手紙が来たりしてたのか」
「貴族なら家人を寄越します。庶民の場合は、寺や社、その土地の有力者などを通して話が来ることもあります」
源一郎は頷いた。
ようやく、晴明に仕事が集まる仕組みが少し見えてきた。
「で、今回は?」
晴明の表情が少しだけ険しくなる。
「陰陽寮からの正式な仕事です」
源一郎の視線が、手に持たれた書状へ向く。
「何があった?」
「人が消えています」
紫苑の笑みが薄れた。
晴明は書状をもう一度開く。
「一条の辺りで、夜間に人が行方不明になる事案が続いているそうです。これまで確認されているだけで4人」
「4人か」
「うち2人は朝廷に仕える者です」
源一郎は少し眉を寄せた。
なるほど。
そこで正式案件になったらしい。
「死体は?」
「見つかっていません」
「血は?」
「現場によっては残っているそうです。ただし、4人分とは考えにくい量だと」
「持っていかれた?」
「その可能性もあります」
晴明はさらに書状を読み進める。
「共通しているのは、夜に1人で歩いていたこと。そして、最後に姿を見られた場所が同じ一帯であることです」
源一郎が腰の妖刀へ手を置く。
「妖怪だと思われてるのか?」
「まだ分かりません」
「分からないから晴明?」
「そういうことです」
源一郎は小さく笑った。
「便利に使われてるな」
「官人なので」
晴明は気にした様子もない。
その答えに、源一郎は少しだけ昔を思い出した。
どこへ行っても先生。
何かあれば呼ばれる。
困った時だけ頼られることもあった。
立場があると、そういうものなのだろう。
晴明が使者へ向き直る。
「承知しました。今日中に現場へ向かいます」
「ありがとうございます」
使者が深く頭を下げる。
「なお、現場にはすでに武士を1名向かわせております。陰陽寮からは、晴明殿と合流するよう伝えております」
「武士?」
源一郎が反応した。
使者が初めて源一郎を見る。
一瞬、視線が上へ動く。
源一郎の体格が珍しいのだろう。
「はい。近頃は人が消えていることもありまして、晴明殿お1人では危険との判断で」
源一郎が晴明を見る。
「俺がいるぞ」
使者が少し困った顔をした。
晴明は平然と答える。
「源一郎は陰陽寮の者ではありませんから」
「そういうもんか」
「そういうものです」
紫苑が横で笑っている。
使者が帰ったあと、源一郎は晴明へ聞いた。
「俺はついていっていいのか?」
晴明は少しだけ考えた。
「正式な役目なので、本来なら関係者以外を連れていくのは面倒なんですが」
「じゃあ留守番か?」
「それでも構いませんよ」
源一郎は即座に答えた。
「行く」
晴明が小さく笑う。
「でしょうね」
「知らない場所で人が4人も消えてるんだろ。気になる」
「では私の従者ということにしておきましょう」
源一郎が止まる。
「従者?」
「嫌なら留守番で」
「……従者でいい」
紫苑が吹き出した。
「源ちゃん、晴明の従者になるの?」
「形だけだ」
「源ちゃん、荷物持って」
「お前の荷物は持たん」
「従者なのに?」
「晴明のだろ」
「私は晴明の式神だから、ほとんど晴明みたいなものでしょ?」
「無理がある」
晴明は2人を放っておきながら、必要な札や道具を準備し始めていた。
その横顔はすでに、これから遊びに出る男ではない。
源一郎も腰の妖刀を確認する。
晴明に妖気を抜いてもらったばかりとはいえ、最初に手にした頃よりわずかに重い。
今のところ戦うには問題ない。
だが、今回も妖怪だった場合は、また妖気を吸う可能性がある。
「晴明」
「なんです?」
「これ、今回あんまり斬らない方がいいか?」
源一郎が妖刀を軽く叩く。
「相手によります」
「また重くなるだろ」
「必要な相手なら使ってください。刀が重くなることを気にして人が死んだら本末転倒です」
「それもそうだな」
「ただし、何でもかんでも斬らないでください」
「そこはもう覚えた」
紫苑がにやりとする。
「本当?」
「鬼を斬らなかっただろ」
「代わりに投げ倒してたけどね」
「向こうから来たんだ」
晴明が準備を終える。
「行きますよ」
「今からか?」
「正式な仕事ですから」
源一郎はため息をついた。
「朝まで遊んでたのに元気だな」
「仕事なので」
それだけだった。
紫苑が源一郎へ小声で言う。
「怖いでしょ?」
「何が?」
「晴明の仕事スイッチ」
「少しな」
3人は屋敷を出た。
一条の辺りへ着いた頃には、日はかなり傾いていた。
現場には役人らしい男たちが何人か立っている。
人が消えた場所だというのに、見た目だけなら普通の道だった。
大きな橋があり、その向こうへ道が続いている。
近くには家もある。
人通りが全くないわけでもない。
ただ、日が沈み始めるにつれ、通る者の数は急激に減っていた。
「皆、避けているんですね」
晴明が周囲を見る。
役人の1人が頭を下げた。
「噂が広まっておりますので。夜になると、この辺りへ近づく者はほとんどおりません」
源一郎は橋の周囲を眺めた。
「4人ともこの橋で?」
「正確には、橋とその周囲でございます」
「誰か見てないのか?」
「1人だけ」
役人の表情が硬くなる。
「行方不明になった者のうち1人が、消える直前に別の者と会っております」
晴明が反応した。
「証言は?」
「女を見た、と」
源一郎と紫苑が顔を上げる。
「女?」
晴明が聞く。
「はい。橋の上に女が立っていたそうです」
「顔は?」
「夜だったため、分からなかったと。ただ……」
役人が言葉を濁す。
「なんだ?」
源一郎が尋ねる。
「非常に美しかった、と」
一瞬。
源一郎の頭に、鏡の事件が浮かんだ。
紫苑も同じことを考えたのか、表情から笑みが消えている。
だが晴明はすぐに首を横に振った。
「まだ結びつけない方がいいでしょう」
「分かってる」
源一郎も頷く。
美しい女。
それだけなら、この前の事件と同じとは限らない。
晴明がさらに役人へ尋ねようとした時だった。
背後から声がした。
「お前が安倍晴明か?」
源一郎が振り返る。
1人の男が立っていた。
歳は源一郎の今の外見と同じくらいか、少し上。
大柄だった。
晴明ほどの身長はありそうだが、体つきはさらに厚い。
腰には刀。
その立ち方を見た瞬間、源一郎の目が少しだけ変わった。
武術をやっている。
それも、かなりできる。
男も源一郎を見る。
最初に目が合った瞬間、同じことを感じたのかもしれない。
視線が源一郎の足元から腰、肩へゆっくり移る。
最後に妖刀で止まった。
「そっちは?」
男が聞く。
晴明が答える。
「源一郎です。私と一緒に動いています」
源一郎は男を見る。
「お前が先に来てた武士か?」
男の眉が少し上がる。
「随分気軽だな」
「まずかったか?」
「いや」
男は少し笑った。
嫌な感じではない。
むしろ、源一郎を見る目には興味が浮かんでいる。
「俺は渡辺綱」
源一郎の表情がわずかに変わった。
「綱?」
「なんだ。知ってるのか?」
知っている。
その名くらいは。
安倍晴明と同じだ。
昔話や伝説の中で、何度か聞いたことがある。
鬼の腕を斬った男。
源一郎は少しだけ口元を上げた。
「いや」
今はそれ以上言わなかった。
目の前にいる男が、自分の知っている伝説と同じ男なのか。
それはこれから分かることだ。
綱も源一郎を見ながら笑う。
「妙な刀を持ってるな」
「お前のも普通じゃなさそうだ」
2人の間に、妙な空気が流れた。
紫苑が晴明へ小声で聞く。
「なんか始まってない?」
晴明はため息をつく。
「男というのは、なぜこうなるんでしょうね」
「晴明も男でしょ」
「私はああではありません」
源一郎と綱は、まだ互いから目を逸らさなかった。
人が消える橋。
夜に現れる美しい女。
そして、渡辺綱。
源一郎にとって初めての朝廷からの正式な仕事は、どうやら今までとは少し違うものになりそうだった。




