晴明のいない夜
その日は珍しく、昼を過ぎても晴明の屋敷に使いの者が訪れなかった。
朝廷からの呼び出しもなく、陰陽寮から届けられる書状もない。貴族の家人が怪異の相談を持ち込むこともなければ、どこかの寺社から厄介事が回ってくることもなかった。
源一郎にとっては、それが少し意外だった。
縁側に座り、妖気を抜いてもらったばかりの刀を眺めながら晴明へ声をかける。
「毎日、何かしら仕事があるわけじゃないんだな」
「当然でしょう」
晴明は書物から視線を上げずに答えた。
「陰陽寮からの正式な仕事もあれば、貴族から個人的に頼まれることもあります。毎日妖怪が暴れているわけではありません」
「今までが続いただけか」
「源一郎が来てから妙に続いていますね」
「俺のせいみたいに言うな」
少し離れた場所で寝転がっていた紫苑が、楽しそうに笑った。
「源ちゃん、怪異を呼ぶ体質だったりして」
「晴明に調べてもらっただろ。身体は健康そのものだ」
「身体はね」
「中身も健康だ」
「92歳だけど?」
「それはもういい」
そんな会話をしているうちに、日はゆっくりと傾いていった。
夕刻になると、晴明が書物を閉じた。
そして何事もないように立ち上がる。
源一郎が顔を上げた。
「どこか行くのか?」
「ええ」
晴明は部屋の隅へ置いてあった装束を手に取った。
昼間の仕事着よりも少し軽い。
「仕事じゃないよな?」
「今日はもうありません」
「じゃあ遊びか」
晴明の手が一瞬止まった。
「その言い方をされると、妙に聞こえますね」
紫苑が起き上がる。
「でも遊びでしょ?」
「まあ」
「今日はどこ?」
「なぜ紫苑に報告する必要があるんです?」
「帰ってこないかもしれないから」
「帰りますよ」
紫苑は源一郎を見る。
「朝にね」
晴明が何も言わない。
源一郎はその反応だけで十分理解した。
「本当に朝までなんだな」
「その時にならないと分かりません」
晴明は平然としている。
特別に楽しみにしている様子もない。
だからこそ、源一郎には逆に分かった。
これは晴明にとって、何か大げさな遊びではない。
ごく普通の私生活なのだ。
源一郎は少し笑った。
「じゃあ今日は別々だな」
「そうですね」
晴明も特に異論はないらしい。
源一郎は紫苑を見る。
「紫苑は?」
「私はここにいるわよ」
「晴明についていかないのか?」
紫苑が嫌そうな顔をした。
「なんで私が晴明の女遊びについていかなきゃいけないのよ」
「それもそうか」
「それに」
紫苑の目が源一郎へ向く。
にやりと笑った。
「源ちゃんとの約束が残ってるもの」
源一郎は数秒考えた。
そして思い出した。
身体を調べていた時、紫苑が好き勝手触ろうとするので――。
あとで好きなだけ見せてやる。
確かに、そう言った。
「……覚えてたのか」
「当然でしょ?」
晴明が2人を見る。
「何の約束です?」
「晴明には関係ない」
紫苑が即答した。
晴明は少しだけ眉を上げたが、それ以上は聞かなかった。
「では、ごゆっくり」
「その言い方やめろ」
「何も言っていませんが」
晴明はわずかに笑い、そのまま屋敷を出ていった。
門が閉まる。
気配が遠ざかっていく。
屋敷が急に静かになった。
源一郎は隣を見る。
紫苑も源一郎を見ていた。
「……2人になったな」
「そうね」
「なんでそんなに嬉しそうなんだ?」
「源ちゃんこそ、嫌そうじゃないじゃない」
源一郎は少し考える。
否定する理由がなかった。
「まあな」
紫苑の笑みが深くなった。
夕食を済ませた後、2人は縁側に座って酒を飲んでいた。
庭は静かだった。
虫の音が聞こえ、夜風が木々の葉を揺らしている。
源一郎は器を傾けながら、少しだけ空を見上げた。
「こうしてると平和だな」
「妖怪がいない夜もあるのよ」
「それは助かる」
「退屈?」
「まさか」
源一郎は笑った。
「こういうのもやりたかったんだ」
「こういうの?」
「何も考えず酒飲んで、明日の予定も気にせず、ただ座ってるだけの夜」
紫苑が源一郎を見る。
「昔はできなかった?」
「できないというより、やらなかった」
源一郎は器の中の酒を見た。
「道場があった。弟子がいた。家族もいた。俺がちゃんとしてないと困る人間が多かったからな」
「源ちゃん、真面目ね」
「そうだったんだろうな」
「だった?」
「今は少しやめるつもりだから」
紫苑が笑う。
「いいじゃない」
そのまま少し源一郎へ身体を寄せる。
肩と肩が触れた。
源一郎は避けない。
以前なら一瞬身体を固くしていたが、今は普通に酒を飲んでいる。
紫苑がそれに気づいた。
「本当に慣れたわね」
「誰のせいだ」
「私のおかげ?」
「せい、だ」
「同じようなものよ」
源一郎が笑う。
しばらく静かな時間が続いた。
やがて、源一郎がふと思い出したように紫苑を見る。
「そういえば」
「なに?」
「紫苑はいつから晴明といるんだ?」
「私?」
「ああ。式神なんだろ?」
「そうよ」
紫苑は少し考えながら酒を飲む。
「結構前から」
「随分曖昧だな」
「細かい年月なんて気にしないもの」
「妖怪はそういうもんなのか?」
「私は私」
「便利な答えだ」
源一郎は苦笑した。
「どうやって晴明の式神になった?」
その問いに、紫苑の口元が面白そうに上がる。
「聞きたい?」
「嫌ならいい」
「嫌じゃないわ」
紫苑は器を置いた。
「晴明に口説かれたの」
源一郎が止まる。
「……式神になる時に?」
「そう」
「どういう口説き方だ」
紫苑が少し姿勢を正した。
晴明の真似をするように、わざと澄ました顔を作る。
「私の式神になりませんか」
「普通だな」
「そのあと、なぜって聞いたの」
「それで?」
紫苑が笑う。
「美しいからです、って」
源一郎は数秒黙ったあと、吹き出した。
「晴明らしいな」
「でしょ?」
「仕事で契約する理由じゃない」
「しかもね、最初に会った時からずっと胸ばっかり見てたのよ」
源一郎がまた笑う。
「今の晴明からでも想像できる」
「でも私が結界を見せた途端、急に仕事の顔になった」
「それも想像できるな」
「さっきまで胸しか見てなかったくせに、『その術式は誰に教わりました?』って」
源一郎は腹を抱えた。
「変わらんな、あいつ」
「全然」
紫苑も楽しそうに笑っている。
「だから最初は面白そうだから付き合ってあげただけ」
「今は?」
紫苑の目が少し柔らかくなる。
「今は結構気に入ってる」
「晴明を?」
「そう。私を式神扱いしすぎないから」
源一郎は少し納得した。
確かに、晴明と紫苑の間には主人と使い魔のような硬い上下関係がほとんどない。
紫苑は晴明を呼び捨てにする。
晴明の私生活を平気で暴露する。
晴明もそれを本気で咎めない。
「いい関係なんだな」
「まあね」
紫苑はそう答えてから、源一郎をじっと見た。
「でも最近は源ちゃんも気に入ってる」
「知ってる」
紫苑の眉が上がる。
「随分自信ついたじゃない」
「毎日くっつかれてれば分かる」
「じゃあ」
紫苑がさらに距離を詰めた。
源一郎の腕に胸元を押し当てるように絡みつく。
「これは?」
「俺をからかってる」
「半分正解」
「残り半分は?」
「源ちゃんが好きだから」
紫苑はさらりと言った。
源一郎は少し黙った。
以前ならここで目を逸らしたかもしれない。
だが今日は、紫苑を見たままだった。
「そういうこと平気で言うんだな」
「嫌?」
「嫌じゃない」
「ふふ」
紫苑は満足そうに笑った。
「モテ講座の成果ね」
「俺が素直になっただけだ」
「それを成果って言うのよ」
源一郎も笑う。
そこで紫苑が、何かを思い出したように源一郎の胸元へ手を置いた。
「ところで」
「なんだ?」
「約束」
「まだ覚えてるのか」
「忘れるわけないでしょ?」
指先が上衣の襟へかかる。
源一郎がその手を見下ろす。
「本当に見るだけだぞ」
「あら。触っちゃ駄目?」
「最初から触る気だったのか」
「もちろん」
紫苑が楽しそうに笑う。
源一郎は少し考えたあと、ため息混じりに上衣を緩めた。
「好きにしろ」
「源ちゃん、最近それ言うようになったわね」
「止めてもやるだろ」
「よく分かってきたじゃない」
上衣を脱ぐ。
鍛え上げられた肩や胸、腹が夜気に触れる。
紫苑は遠慮なく眺めた。
「やっぱりいい身体」
「何度目だ、その感想」
「何回見ても思うもの」
紫苑の指が胸板へ触れる。
そのまま肩。
腕。
源一郎はされるがままになっていた。
「剣道とか柔術って、こんな身体になるの?」
「若い頃はもっと鍛えてたからな」
「これ以上?」
「今の身体が、その頃の身体みたいなもんだ」
紫苑が源一郎の腕を軽く掴む。
「硬い」
「筋肉だからな」
「こっちは?」
今度は腹へ手が伸びる。
源一郎が笑う。
「随分楽しそうだな」
「楽しい」
「正直だ」
「源ちゃんも嫌そうじゃない」
「嫌なら服脱いでないだろ」
紫苑が源一郎を見る。
少し間があった。
「そういう言い方、上手くなってきたわね」
「誰かさんに教わった」
「先生がいいもの」
「恋の師匠だったか?」
「そう」
紫苑は満足そうに頷いた。
それから源一郎の肩へ頭を預ける。
源一郎もそのまま酒を飲んだ。
二人とも、しばらく何も言わなかった。
庭を抜ける夜風が心地いい。
源一郎はふと、自分の人生でこんな時間があっただろうかと考えた。
女と2人きりで酒を飲むことくらいはあった。
だが、何の立場も気にしない。
明日の稽古も考えない。
相手の目を気にして「先生らしく」振る舞う必要もない。
ただ、自分が居心地がいいからここにいる。
そんな時間は、本当に初めてなのかもしれない。
「紫苑」
「なに?」
「これも遊びってやつか?」
紫苑は源一郎の肩にもたれたまま笑った。
「そうかもね」
「悪くないな」
「でしょ?」
源一郎はもう一杯だけ酒を注いだ。
翌朝。
源一郎は縁側で目を覚ました。
いつの間にか、そのまま眠っていたらしい。
隣には紫苑がいる。
源一郎の肩へ頭を預けたまま、静かに寝息を立てていた。
源一郎は少しだけ笑う。
「……よく寝るな」
「起きてるわよ」
紫苑が目を閉じたまま答える。
「いつからだ」
「今」
「そうか」
「源ちゃん、動かないで。まだ眠い」
「はいはい」
源一郎が再び庭を見る。
その時、門の向こうで気配がした。
少しして、晴明が入ってくる。
「おはようございます」
いつもの声だった。
源一郎が振り向く。
そして、一瞬黙った。
晴明の装束が微妙に乱れていた。
大きく崩れているわけではない。
だが、普段の晴明を知っていれば分かる。
襟元が少しずれ、帯にも一度締め直したような乱れがある。髪もいつもよりわずかに崩れていた。
そして肩のあたりに、うっすら白い跡が残っている。
紫苑も目を開けた。
晴明を見る。
「おかえり、晴明」
「ただいま戻りました」
紫苑は晴明の肩を指差した。
「白粉ついてるわよ」
晴明が自分の肩を見る。
「そうですか」
それだけだった。
慌てもしない。
さらに紫苑が目を細める。
「襟のところ、紅もついてない?」
晴明は今度は襟元を確認する。
薄く赤い跡があった。
「あとで着替えます」
「それだけ?」
「他に何か?」
紫苑が源一郎を見る。
「ね?」
源一郎も妙に納得した。
「本当に日常なんだな」
「だから言ったでしょ、源ちゃん」
晴明はそんな2人を見て、今度は源一郎の方へ視線を向ける。
上衣はすぐそばに置かれている。
源一郎は上半身を出したまま。
その肩には紫苑が寄りかかっている。
晴明が少しだけ沈黙した。
「……こちらも随分楽しそうですね」
源一郎が自分の格好を見る。
紫苑も見る。
「まあな」
紫苑が嬉しそうに笑う。
「楽しかったわよ?」
晴明はそれ以上聞かなかった。
「そうですか」
そのまま屋敷の中へ向かう。
源一郎が声をかけた。
「寝るのか?」
「着替えます。そのあと少し休みます」
「朝飯は?」
「後で」
どこまでも普通だった。
源一郎は晴明の背中を見送りながら、小さく笑った。
「自由だな、あいつ」
「仕事さえなければね」
紫苑が答える。
その言葉通りだった。
晴明は仕事には異常なほど真面目だ。
だが仕事がなければ、好きに遊ぶ。
源一郎が2度目の人生でやろうとしていることを、この男はとっくにやっているらしい。
「やっぱり遊びの師匠だな」
「本人に言ったら嫌がるわよ」
「だから言うんだ」
「悪い顔するようになったわね、源ちゃん」
「成長したんだろ」
「そういうことにしとく」
紫苑がまた源一郎の肩へ寄りかかった。
それからしばらくして。
門の外から声がした。
「安倍晴明様のお屋敷はこちらでございますか」
源一郎が顔を上げる。
紫苑も庭の方を見る。
門前には、きちんとした身なりの男が立っていた。
手には一通の文がある。
紫苑が小さく息を吐く。
「ほら」
「何だ?」
「晴明の休日、終わり」
源一郎は笑った。
「早かったな」
男が門の外からもう一度声をかける。
「陰陽寮より、晴明様へ書状をお持ちしました」
源一郎の表情が少し変わった。
これまで受けてきた家からの依頼とは違う。
朝廷側からの正式な書状。
屋敷の奥から、着替えを済ませた晴明が出てくる。
先ほどまでの乱れた装束も、白粉も、紅の跡も消えていた。
もう完全に、仕事の顔だった。
源一郎はその変わり身を見て笑う。
「本当に別人だな」
紫苑が小さく笑った。
「だから面白いのよ、晴明は」
晴明は門へ向かいながら、2人へ振り返った。
「何か言いました?」
「何も」
源一郎と紫苑の声が重なった。
陰陽寮から届いた一通の書状。
それが、源一郎にとって初めてとなる朝廷絡みの仕事へ繋がることになる。




