妖気を喰う刀
晴明の屋敷へ戻った頃には、すでに朝日が高く昇っていた。
春丸の家を出てからしばらく歩き通しだったが、源一郎の身体にはほとんど疲れが残っていない。前日の朝帰りから十分な睡眠を取ったとは言えないものの、20代の肉体が持つ回復力は、92歳まで生きた源一郎にとって驚くほど頼もしいものだった。
ただし、腰に差した刀だけは違った。
屋敷へ入って妖刀を外した瞬間、源一郎はわずかに眉を寄せる。
「やっぱり重いな」
晴明が振り返った。
「どの程度です?」
「最初にもらった時とは明らかに違う。持てないほどじゃないが、振った時に少し遅れてくる」
源一郎は鞘に収めたまま刀を持ち上げ、手首を使って軽く動かした。
実際の重さが急に増したわけではない。
手に持っている感覚だけなら普通の刀と大差ない。それなのに振ろうとすると、刀身だけがその場へ残ろうとするような抵抗がある。
鏡の女を斬った時にも感じた。
長腕の妖怪を何体も斬った後は、さらに強くなっている。
「一度ちゃんと見た方がよさそうですね」
晴明はそう言うと、妖刀を受け取った。
その瞬間。
「……確かに」
晴明の腕がわずかに下がった。
源一郎が笑う。
「重いだろ?」
「妙ですね」
晴明は両手で持ち直し、鞘から少しだけ刀を抜いた。
白い刃が姿を見せる。
一見しただけなら、渡された時と何も変わっていない。
だが刃の奥に、薄い黒い靄のようなものが揺れていた。
「源ちゃん、ちょっと見せて」
後ろから紫苑がやってくる。
晴明の肩越しに覗き込んだかと思えば、すぐに表情が変わった。
「随分食べたわね、この子」
源一郎が首を傾げる。
「食べた?」
「妖気」
紫苑が刃を指差す。
「鏡の女だけじゃないわ。昨日斬ったあの腕の長い奴らの妖気も残ってる」
「やっぱり吸っとる……吸ってるのか」
言い直すと、紫苑が満足そうに頷いた。
「今のは合格」
「そこを見てたのか?」
「もちろん」
「刀の話をしろ」
晴明は2人を無視して妖刀をじっと見ていた。
やがて鞘へ戻し、仕事部屋へ向かう。
「源一郎。来てください」
「分かった」
紫苑も当然のようについていく。
仕事部屋へ入ると、晴明は床へ妖刀を置き、その周囲に何枚もの札を並べ始めた。
源一郎は向かいに座る。
紫苑はその隣。
最初こそ普通に座っていたが、数秒後には源一郎の肩へ身体を寄せてきた。
「紫苑」
「なに?」
「狭い」
「広いじゃない」
「わざわざくっつく必要があるか?」
「ないわよ」
「じゃあ離れろ」
「嫌」
源一郎は紫苑を見る。
紫苑は楽しそうに笑っている。
少し前までなら戸惑っていたかもしれないが、最近はもう慣れてきた。
「好きにしろ」
「あら、源ちゃん本当に慣れてきたわね」
「紫苑が毎回くっついてくるからだ」
「成果が出てる」
「何の成果だ」
晴明が札を並べ終えた。
「静かにしてもらえます?」
「晴明、妬いてる?」
「違います」
「最近そればっかりだな」
源一郎が笑う。
晴明は深く息を吐いたあと、妖刀へ向き直った。
両手で印を結ぶ。
低く短い声で何かを唱えると、刀の周囲に置かれた札が淡く光り始めた。
源一郎の笑みが消える。
黒い靄が、鞘の隙間からゆっくりと漏れ出してきた。
「おお」
それは煙のようにも見えるが、部屋の中へ広がってはいかない。
晴明の周囲に浮かぶ札へ吸い寄せられ、触れた途端に白い光となって消えていく。
一本。
また一本。
札の文字が黒く染まり、その度に妖刀の気配が少しずつ薄くなる。
しばらくして晴明が手を下ろした。
光が消える。
「一度持ってみてください」
源一郎が妖刀を受け取った。
「軽くなったな」
その場で軽く腕を動かしてみる。
確かに違う。
先ほどまで刀身へまとわりついていたような抵抗がかなり減っていた。
だが。
源一郎は何度か刀を動かしたあと、眉を寄せた。
「まだ残っとる……残ってるな」
晴明の目が細くなる。
「分かりますか?」
「ああ。最初とは違う」
紫苑も妖刀へ手を伸ばした。
触れようとしたところで、源一郎が手首を掴む。
「大丈夫なのか?」
紫苑が少し驚いたように源一郎を見る。
「心配してくれるの?」
「当たり前だろ」
「ふふ」
「何だ?」
「なんでもない」
紫苑は機嫌よく妖刀へ指先を触れた。
目を閉じる。
しばらくすると、その笑みが少し消えた。
「晴明」
「ええ」
晴明も同じことを感じているらしい。
「表に溜まっていた妖気はかなり抜けました。でも、刀そのものに染み込んだものがある」
「染み込む?」
源一郎が妖刀を見る。
晴明は頷いた。
「斬った妖の妖気を、この刀は自分から取り込んでいるようです」
「晴明がそういう術を入れたんじゃないのか?」
「入れていません」
「じゃあ、なぜ吸う?」
「それが分からない」
晴明がはっきりそう答えた。
源一郎は少し意外そうに顔を上げる。
「晴明にも分からん……分からないことがあるんだな」
「当然です。私を何だと思ってるんです?」
「大抵のことができる男」
紫苑が笑う。
「源ちゃん、それ褒めてる?」
「かなり褒めてるぞ」
晴明も怒るほどではないらしく、再び妖刀を手に取った。
「元々この刀には、妖怪や霊体にも刃を通せるよう術が施されています。それが原因なのか、それとも刀そのものに別の性質があったのか。現状では判断できません」
「ただ、妖気を吸うのは確か?」
「ええ」
晴明は刃を少しだけ抜いた。
黒い靄は薄くなった。
それでも完全には消えていない。
「しかも、吸った妖気の全てを吐き出すわけではない」
源一郎が刀を受け取る。
「妖怪を斬るたび、少しずつ重くなる?」
「このままなら」
「どこまで?」
晴明は首を横に振った。
「分かりません」
紫苑が横から妖刀を覗き込む。
「もっと妖気を吸ったら、源ちゃんでも振れなくなるかもしれないわね」
「それは困るな」
言葉とは裏腹に、源一郎の顔にはどこか楽しそうなものがあった。
紫苑がすぐ気づく。
「源ちゃん」
「なんだ?」
「なんでちょっと嬉しそうなの?」
「面白い刀だと思ってな」
「普通は怖がるところじゃない?」
「怖がったら軽くなるのか?」
「ならないけど」
「じゃあ考えても仕方ない」
紫苑が晴明を見る。
「こういう人よね」
「数日でよく分かってきたでしょう」
「とても」
源一郎は2人を無視して刀を見つめた。
「ただ、重くなるのは困る」
「そこは気になるんですね」
晴明が言う。
「当然だ。剣は思った通りに動いてくれないと困る」
源一郎は立ち上がった。
「庭で振っていいか?」
「構いませんが、何も斬らないでください」
「分かってる」
紫苑も立ち上がる。
「私も見る」
「何を見るんだ?」
「源ちゃん」
「刀を見ろ」
3人で庭へ出た。
源一郎は鞘から妖刀を抜いた。
軽く構える。
そして一振り。
刃が空を切る。
次に袈裟。
横薙ぎ。
切り返す。
晴明には十分すぎるほど速く見えた。
刀を振った音が聞こえた時には、もう刃は次の位置へ移っている。
だが源一郎本人は納得していなかった。
「遅いな」
晴明が眉を上げる。
「今ので?」
「ああ」
源一郎はもう一度振る。
「ここ」
何もない空中で刃を止めた。
「儂……俺はここで止めたい」
それから刀身をほんの少し先へ動かす。
「でも実際は、ここまで流れる」
晴明は2つの位置を見る。
差はほんの僅かだった。
「それだけですか?」
「それだけじゃない。振り始めも少し遅い」
晴明には分からない。
紫苑も首を傾げている。
源一郎は妖刀を鞘へ戻した。
「普通に振るなら何の問題もない。でも俺の思った通りではない」
晴明はしばらく源一郎を見ていた。
そして妖刀へ視線を移す。
「なるほど」
「何か分かったか?」
「刀が悪いのではありません」
「では?」
「源一郎が細かすぎます」
源一郎が少し黙った。
紫苑が吹き出す。
「晴明、それ私も思った」
「お前たちな」
「普通の剣士なら、この状態でも十分すぎるほどでしょう」
晴明は淡々と言う。
「ですが源一郎にとっては、ほんの僅かな遅れでも邪魔になる」
源一郎が頷く。
「そういうことだ」
紫苑が源一郎の腕を触った。
「面倒な男ねえ」
「今さらか」
「こういう面倒さは初めて知った」
源一郎は再び妖刀を腰へ差した。
「まあ、今のところは使える」
晴明がすぐ訂正する。
「使えるではなく、十分使いこなしています」
「俺にとって違えば同じだ」
「本当に面倒ですね」
源一郎は笑った。
部屋へ戻ると、晴明は今度は源一郎の方を見た。
「次は源一郎です」
「俺?」
「ええ」
「何をするんだ?」
「身体を調べます」
源一郎の眉が寄る。
「刀の話じゃなかったのか?」
「刀は後でも調べられます。でも、源一郎自身についてはまだまともに確認していない」
晴明の声は真面目だった。
「一度92歳で死んだ人間が、若い身体でここに現れた。普通ではありません」
「それは俺も分かる」
「魂と肉体が本当に一致しているのか。何かの呪いを受けていないか。別の何者かが関わっていないか。確認する必要があります」
源一郎は少し考えた。
確かに、その通りだった。
若返ったことが嬉しくて、深く考えていなかっただけだ。
「分かった。何をすればいい?」
晴明が答える。
「上を脱いでください」
源一郎が止まった。
その横で、紫苑の顔が一気に明るくなる。
「本当に?」
「紫苑は黙っててください」
「晴明、今日はいい仕事するじゃない」
「身体を調べるだけです」
源一郎はため息をついた。
「紫苑、楽しんでるだろ」
「もちろん」
「隠しもしないな」
「今さらでしょ?」
仕方なく源一郎は上衣へ手をかけた。
帯を緩め、紫苑からもらった結界の服を脱いでいく。
上半身が露わになる。
若い頃の肉体。
身長180cmの骨格に、無駄のない筋肉がついている。
肩。
胸。
背中。
腹。
ただ大きくした身体ではなく、長年の剣道と柔術によって作られた身体だった。
いや、正確には若い頃の肉体に、92年間で積み上げた技術だけが戻ってきている。
紫苑がじっと見ていた。
「……源ちゃん」
「なんだ?」
「やっぱり、かなりいい身体ね」
「前にも言ってただろ」
「ちゃんと見るのは別」
紫苑の手が胸元へ伸びる。
源一郎がその手を掴んだ。
「晴明の検査に必要か?」
「私の検査には必要」
「何の検査だ」
「触り心地」
「帰れ」
紫苑が楽しそうに笑う。
晴明はすでに札を用意していた。
「源一郎。紫苑は放っておいてください」
「お前の式神だろ」
「止めても無駄なので」
「諦めるな」
紫苑が源一郎の背後へ回る。
指で背中の筋肉を軽くなぞった。
「こっちもすごい」
「紫苑」
「なあに?」
源一郎は振り返った。
紫苑の顔が近い。
「あとで好きなだけ見せてやるから、今は晴明にやらせろ」
紫苑が固まった。
晴明の手も一瞬止まった。
源一郎が首を傾げる。
「なんだ?」
紫苑の口元がゆっくり上がる。
「源ちゃん」
「なんだ?」
「それ、女の人に簡単に言わない方がいいわよ」
「なぜ?」
「そのうち教えてあげる」
源一郎は意味が分からず眉を寄せた。
晴明が小さくため息をつく。
「検査を始めますよ」
「頼む」
晴明は源一郎の胸元へ札を一枚貼った。
次に背中。
両肩。
腹。
最後に額。
源一郎は自分の姿を見下ろす。
「随分貼るんだな」
「動かないでください」
晴明が目を閉じ、印を結ぶ。
札が淡い光を放ち始めた。
源一郎には特に何も感じない。
ただ、身体の奥を薄い風が通り抜けていくような感覚だけがあった。
しばらくして。
晴明が目を開ける。
「……妙ですね」
源一郎の眉が動いた。
「悪いのか?」
「逆です」
晴明は源一郎の胸元の札を剥がした。
札は真っ白だった。
「何もありません」
「何も?」
「呪いもない。憑依もない。余計な妖気もない。魂と肉体にもずれがありません」
残りの札も確認していく。
どれも変化していない。
「源一郎の魂と、この身体は完全に馴染んでいます」
源一郎は自分の手を見る。
「じゃあ、本当に俺の身体なのか?」
「少なくとも、他人の身体へ魂だけを入れた状態には見えません」
「若い頃の俺そのもの?」
「そう考えるのが一番自然です」
紫苑が横から源一郎の頬をつつく。
「よかったじゃない、源ちゃん」
「何が?」
「借り物じゃなくて」
「確かにな」
源一郎は少し笑った。
自分でも気づかないところで、ほんの少しだけ気にしていたのかもしれない。
今の身体が、誰か別の人間のものだったら。
自分が生き直すために、誰かの身体を奪っていたのだとしたら。
それは後味が悪い。
だが、どうやらそうではないらしい。
晴明が続ける。
「少なくとも現時点では、身体に問題はありません」
「寿命は?」
晴明は少し考えた。
「そこまでは分かりません」
「また92まで生きるかもしれない?」
「明日死ぬかもしれない」
「それは誰でも同じだな」
源一郎は笑った。
その答えで十分だった。
どれだけ残っているか分からない。
だから好きに生きる。
元々そう決めている。
紫苑が源一郎の上衣を拾う。
「はい、源ちゃん」
「ありがとう」
受け取ろうとすると、紫苑が服を引いた。
「なんだ?」
「さっきの約束」
「約束?」
「あとで好きなだけ見せてくれるんでしょ?」
源一郎は数秒黙った。
晴明が横で顔を逸らした。
「……言ったな」
「言ったわよね?」
「言った」
「じゃあ今夜ね」
「何を見るんだ?」
「考えとく」
紫苑が楽しそうに服を返す。
源一郎は着物を着ながら晴明を見る。
「助けろ」
「自分で言ったんでしょう」
「冷たいな」
「仕事は終わりましたから」
晴明は平然と答えた。
源一郎が着替え終わると、晴明は再び妖刀へ目を向けた。
「身体には問題ありません。問題はこちらだけですね」
「刀か」
「ええ」
晴明は妖刀へ手を置く。
「今のところ、私の術で表面の妖気は抜けます。ただ、内部へ染み込んだものまでは完全には取れない」
「使い続ければ?」
「さらに溜まるでしょう」
「重くなる」
「恐らく」
「最後は振れなくなるかもしれない」
「可能性はあります」
源一郎は少し考えたあと、妖刀を腰へ差した。
「なら、その時考える」
晴明が呆れた顔をする。
「源一郎は本当にそればかりですね」
「今使えるんだろ?」
「使えます」
「なら今はそれでいい」
源一郎は柄へ手を置いた。
「ただ、思い通りに動かなくなったら困る。その時は何とかしてくれ」
晴明は少し黙った。
「私で何とかできれば」
「できなかったら?」
晴明は妖刀を見る。
「刀そのものを見られる人間に頼むしかありません」
源一郎の目が少し動く。
「いるのか?」
「います」
「腕は?」
晴明は少し考えた。
「少なくとも、私より刀には詳しい」
「そりゃそうだろ」
「性格には少し問題がありますが」
「お前が言うなら相当だな」
「どういう意味です?」
紫苑が横で笑う。
晴明は否定しなかった。
源一郎は腰の妖刀を軽く叩いた。
妖怪を斬れる刀。
妖気を喰い、その度に少しずつ重くなっていく刀。
今はまだ問題ない。
だが、この刀もまた、源一郎と同じように何かへ変わり始めているのかもしれない。
源一郎は少しだけ口元を上げた。
「まあ、面白そうじゃないか」
紫苑がすぐ反応する。
「源ちゃん、また喋り方戻ってる」
源一郎が止まる。
「……面白そうだな」
「よし」
「そこまで毎回直す必要あるか?」
「ある」
「面倒だな」
「私が?」
「いや、92年分の癖が」
紫苑が楽しそうに笑い、また源一郎の腕へ絡みついた。
晴明はその横で、妖刀から抜き取った妖気で黒く染まった札を見つめていた。
まだ刀に残っているものがある。
晴明にも抜けないものが。
それが何を意味するのか。
今はまだ、誰にも分からなかった。




