鬼の選択
庭には、まだ戦いの跡が残っていた。
長腕の妖怪たちが暴れた地面はところどころ抉れ、木の幹には深い爪痕が刻まれている。源一郎が押さえ込んでいた鬼も、今は少し離れた場所に座り込み、低い呼吸を繰り返していた。
あれだけ暴れていたというのに、もう襲いかかってくる様子はない。
むしろ鬼の視線は、何度も窓の方へ向いていた。
そこに春丸がいることを確かめるように。
源一郎は妖刀へ軽く手を添えながら、晴明へ顔を向けた。
「なあ、晴明」
「なんです?」
「妖怪ってのは、死んだ人間がなることもあるのか?」
晴明は源一郎ではなく、座り込んだ鬼を見た。
「あります。ただ、妖怪すべてがそういう存在というわけではありません」
「他にもいるのか?」
「ええ。最初から人ならざるものもいます。山や川に生まれるもの、獣や道具が長い年月を経て妖へ変じるものもいる」
晴明は少し間を置いた。
「それとは別に、人が死ぬ時にあまりに強い思いを残すと、それだけが魂にこびりついて形を持つことがあります」
源一郎が鬼を見る。
「恨みとか?」
「恨みもあります。怒り、悲しみ、執着、後悔。あるいは、どうしても叶えたかった願い」
鬼は何も言わない。
ただ、春丸のいる部屋を見ていた。
晴明が続ける。
「そうなった場合、人だった頃の記憶がすべて残るとは限りません。名前も、住んでいた場所も、家族の顔も忘れてしまうことがある」
「じゃあ、何が残る?」
「最後まで手放せなかった思いです」
源一郎の目が少し細くなった。
目の前の鬼に残っているもの。
それは、あまりにも分かりやすい。
「守る、か」
鬼の肩がわずかに動いた。
晴明も頷く。
「恐らく、この鬼は生前に子どもを守れなかったのでしょう」
「春丸を昔から知っていたわけじゃない?」
「おそらくは」
晴明は庭に残った長腕の妖気へ目を向ける。
「春丸を狙っていた妖怪を見て、生前の何かと重ねた。だから毎晩ここへ来ていたのでしょう」
源一郎は鬼を見つめた。
名前も忘れた。
自分がどんな人間だったのかも分からない。
それでも、守れなかったことだけは忘れられなかった。
「随分しつこい後悔だな」
「人は、そういうものですよ」
晴明の返事は静かだった。
源一郎は少しだけ晴明を見る。
何となく、妙に実感のこもった言い方に聞こえた。
だが、それを尋ねる前に部屋の奥で小さな音がした。
戸が開く。
春丸だった。
父親の後ろから庭を覗き込み、まだそこにいる鬼を見つけると足を止めた。
鬼も春丸を見る。
巨大な身体。
太い腕。
2本の角。
牙まである。
やはり、見た目だけなら恐ろしい。
源一郎は春丸の方へ歩き、その前でしゃがんだ。
「怖いか?」
春丸は鬼を見たまま、少し考える。
「ちょっと」
「そうか」
源一郎は笑った。
「それでいい」
「源一郎、あの鬼……もう怒ってない?」
「たぶんな」
春丸が源一郎を見る。
「僕を食べに来てたんじゃないの?」
「違う」
源一郎は鬼へ視線を向けた。
「あいつは、お前を守ってた」
春丸の目が大きくなる。
「僕を?」
鬼が低く喉を鳴らした。
「……守る」
春丸が動きを止める。
源一郎も晴明も何も言わなかった。
春丸はゆっくりと鬼へ近づく。
父親が反射的に手を伸ばしかけたが、晴明が静かに首を横に振った。
「大丈夫です」
春丸が一歩進む。
鬼は動かない。
もう一歩。
それでも鬼は、ただ春丸を見ているだけだった。
「毎晩来てたの?」
「……守る」
「僕のこと?」
鬼がゆっくりと頷いた。
春丸はしばらく鬼の顔を見上げていた。
やがて、目に薄く涙を浮かべる。
「ありがとう」
鬼の身体が、ぴくりと震えた。
「ずっと守ってくれて、ありがとう」
今度は鬼が動かなかった。
ただ春丸を見つめている。
長い間、何かを探していたような目だった。
そしてようやく見つけたように、鬼の表情が少しだけ緩んだ。
「……守れた」
小さな声だった。
だが、はっきり聞こえた。
源一郎は何も言わず、鬼を見る。
晴明も静かに目を伏せた。
「これで、この者の未練はかなり薄れたでしょう」
「未練がなくなると、どうなる?」
源一郎が尋ねる。
「それは本人次第です」
「本人次第?」
晴明が鬼へ目を向けた。
「このまま現世に残ることもできます。意思があり、本人が望むのであれば、私と契約して式神になることもできる」
「お前の使役になるってことか」
「ええ。ただし、無理に縛ることはしません」
晴明の声は淡々としている。
だが、その言葉には迷いがなかった。
「もう1つは?」
「逝くことです」
源一郎は鬼を見る。
「成仏するってことか」
「そうです」
晴明は鬼の前まで歩いた。
「まだこの世に残りますか?」
鬼は答えない。
代わりに、春丸を見る。
春丸も鬼を見返した。
しばらくして、小さく笑う。
「僕、もう大丈夫だよ」
その言葉を聞いた鬼は、ゆっくりと首を横に振った。
晴明が頷く。
「分かりました」
懐から1枚の札を取り出した。
源一郎は黙ってその動きを見守る。
晴明が目を閉じ、短く何かを唱えた。
低く静かな声が夜の庭へ響く。
やがて、晴明の指先から札が離れた。
風もないのに、ふわりと浮かぶ。
そのまま鬼の額へ貼りついた。
「急急如律令」
札が淡く光った。
最初は小さな光だった。
だが、ゆっくりと鬼の全身へ広がっていく。
巨大な指先が、淡い光の粒へ変わる。
次に腕。
肩。
胸。
少しずつ、その姿が夜の空気へ溶け始める。
鬼は苦しんでいなかった。
むしろ、どこか穏やかだった。
何年、あるいは何十年抱えていたのかも分からないものを、ようやく手放せたような顔だった。
「ありがとう!」
春丸が声を上げた。
鬼が最後に春丸を見る。
「……もう、大丈夫」
巨大な身体が光へ変わった。
無数の粒がふわりと舞い上がり、夜空へ溶けていく。
しばらくすると、そこには何も残っていなかった。
春丸は、鬼がいた場所を見つめ続けている。
源一郎が隣へ立った。
「行ったな」
「うん」
「寂しいか?」
春丸は少しだけ考えた。
「ちょっとだけ」
「そうか」
源一郎は春丸の頭を軽く撫でた。
「でも、あいつは満足してたと思うぞ」
「本当?」
「ああ」
春丸が少しだけ笑った。
屋敷を出る頃には、東の空が明るくなり始めていた。
源一郎は晴明の隣を歩きながら、先ほどの鬼の姿を思い出していた。
妖怪。
こちらの世界へ来たばかりの頃は、その言葉を聞けば鬼や化け物のようなものしか思い浮かばなかった。
だが、どうやら随分と種類があるらしい。
源一郎が口を開く。
「晴明」
「なんです?」
「斬らなくていい妖怪も、結構いるんだな」
「いますよ」
晴明の返答は簡単だった。
「だから最初に相手を見るんです」
源一郎は少し笑う。
「それは覚えとく」
「お願いします。源一郎の場合、先に身体が動きますから」
「今回はちゃんと見ただろ」
「鬼とはかなり派手にやり合っていましたが」
横を歩いていた紫苑が楽しそうに口を挟んだ。
「妖怪は斬ったのに、鬼は素手で投げ倒してたものね」
「斬る理由がなかったからな」
「投げる理由はあったの?」
「向こうから殴ってきた」
「それなら仕方ないのかしら」
紫苑が首を傾げる。
晴明は少しだけ笑った。
「結果的には、悪くない判断でした」
源一郎が晴明を見る。
「珍しく褒めるな」
「必要な時は褒めます」
「もっと普段から褒めてもいいぞ」
「調子に乗るので嫌です」
紫苑が声を出して笑った。
「もう十分乗ってるわよ、源ちゃん」
「そうか?」
「そうよ」
紫苑はいつものように源一郎の腕へ絡みつく。
源一郎も、もうその程度では驚かない。
むしろ自然に受け入れて歩き続けた。
「それにしても」
源一郎が空を見上げる。
「妖怪も色々いるんだな」
「まだほんの一部しか見ていませんよ」
晴明が答える。
「最初から妖のものもいる。人が変じたものもいる。言葉が通じるものもいれば、何をしても通じないものもいます」
「面倒だな」
「そういうものです」
「でも面白い」
晴明が源一郎を見る。
「面白いですか?」
「ああ」
源一郎は素直に頷いた。
「知らないことが多い方が、退屈しない」
92歳まで生きた。
その頃には、大抵のことは一度くらい経験したつもりだった。
だが今は、毎日のように知らないことが出てくる。
妖怪。
術。
式神。
成仏。
そして、妖怪だからという理由だけで斬ってはいけないということ。
源一郎は腰の妖刀へ軽く触れた。
妖怪を斬るための刀を持っている。
だからこそ、斬るかどうかを決めるのは自分なのだろう。
「源ちゃん」
「なんだ?」
紫苑がにやりと笑う。
「今、ちょっといいこと考えてたでしょ?」
「なぜ分かる」
「顔」
「そんなに出るか?」
「結構ね」
源一郎は少し困ったように笑う。
「そうじゃのう……」
言った瞬間、紫苑の目が光った。
源一郎も気づいた。
「あ」
「源ちゃん」
「今のは気が抜けた」
「そういう時はいいって言ったでしょ」
「なら指摘するな」
「だって可愛いんだもの」
「92歳の男に可愛いと言うな」
「見た目は若いからいいの」
前を歩く晴明の肩がわずかに揺れた。
源一郎がすぐに気づく。
「晴明」
「なんです?」
「今、笑っただろ」
「笑っていません」
「絶対笑った」
「朝から元気ですね、源一郎」
「話を逸らすな」
3人の声が、朝の道に響いていった。
妖怪を斬る戦いもある。
妖怪を斬らない戦いもある。
そして、刀を抜く必要すらない終わり方もある。
源一郎は、その違いを少しずつ知り始めていた。




