切るべきもの
庭の闇から、細長い腕が一斉に伸びた。
窓際に立っていた鬼が吠える。
低く腹の底へ響く咆哮とともに、巨大な腕が横薙ぎに振るわれた。窓を越えようとしていた影の1体がまともに受け、庭の端まで吹き飛んでいく。
だが、それで止まる数ではなかった。
木々の陰から次々と姿を現す。
背丈は子どもほどしかない。それに対して腕だけが異様に長く、地面につくほど伸びている。痩せ細った身体に大きな口が開き、暗闇の中から黄色い歯が覗いていた。
1体。
2体。
源一郎が目で追う。
「……8」
さらに木の裏から2体が這い出してきた。
「10か」
晴明が隣に立つ。
「まだいる可能性があります」
「十分多いな」
そう答えながら、源一郎の表情には焦りがなかった。
むしろ、少し楽しそうですらある。
紫苑が横から覗き込んだ。
「源ちゃん、嬉しそうにしないの」
「そう見えるか?」
「見える」
「久しぶりに身体を動かせるからな」
「昨日も動かしてたでしょ」
「それとこれは別だ」
紫苑が何か言い返そうとした瞬間、長腕の1体が地面を蹴った。
狙いは窓だ。
その奥にいる春丸。
源一郎の表情が変わった。
「晴明」
「はい」
「外の奴らは斬っていいんだな?」
晴明は長腕の妖怪たちを見る。
「妖気も濃い。何より、春丸を狙っていることは間違いなさそうです」
「なら分かりやすい」
源一郎の親指が鍔を押した。
白い刃が月明かりを拾う。
妖刀を抜いた瞬間、庭の空気がわずかに変わった。
長腕の妖怪が窓へ飛びかかる。
その横から、源一郎が入った。
一歩。
ただそれだけで間合いが消える。
刀が下から走り、長く伸びた腕を斬り落とした。
妖怪の口から甲高い悲鳴が上がる。
その声が終わる前に、源一郎の刃が返った。
胴を斜めに斬り抜く。
黒い身体が崩れ、煙のような妖気へ変わった。
その妖気が刀身へ吸い込まれていく。
源一郎は一瞬だけ刃を見る。
「やっぱり吸うな」
前の怪異を斬った時と同じだった。
黒い妖気が刀へまとわりつき、そのまま消える。
そして、ほんの少しだけ刀が重くなる。
「源ちゃん、来る!」
紫苑の声が飛ぶ。
左右から2体。
長い腕が鞭のように振るわれた。
源一郎は身体を沈め、1本目を頭上へ通す。そのまま踏み込み、懐へ入った。
横一文字。
1体目の腹が裂ける。
だが、もう1体の爪が背後から迫っていた。
源一郎は振り向かない。
足を半歩ずらし、身体だけを捻る。
爪が着物の表面を掠めた瞬間、紫苑が仕込んだ術式が淡く光った。
「お」
薄紫色の膜が爪を弾く。
完全には防げなかった。
布の表面に細い裂け目が入る。
源一郎の眉が動いた。
「紫苑」
「なに?」
「服が少し切れた」
「今それ言う!?」
「あとで怒るだろ」
「分かってるなら避けて!」
「避けたぞ。少し遅かっただけだ」
言いながら、源一郎は背後へ刀を振った。
刃が妖怪の首筋へ吸い込まれる。
黒い首が落ち、身体が煙へ変わった。
再び妖気が刀へ吸われる。
源一郎が軽く柄を握り直した。
「……重くなってきたな」
まだ問題になるほどではない。
だが、最初に晴明から受け取った時とは明らかに違う。
一振りごとに、刀がほんの少しずつ腕へまとわりつくような感覚がある。
普通の剣士なら気づかない程度かもしれない。
しかし、源一郎にとっては剣先のわずかな違いさえ大きい。
「面白いが、少し邪魔だな」
晴明が後方から声をかける。
「無理なら私が出ます」
源一郎は振り返らない。
「まだいい」
長腕の妖怪が4体、同時に距離を詰めてくる。
源一郎は刀を構え直した。
その姿を見ていた紫苑が、晴明を横目で見る。
「本当に手伝わないの?」
「必要ありません」
「4体一緒よ?」
「見れば分かります」
「何が?」
晴明は源一郎を見る。
囲まれているというのに、肩に力が入っていない。
呼吸も乱れていない。
視線だけが静かに敵の動きを追っている。
「あれは困っている人の顔ではありません」
紫苑も源一郎を見る。
ちょうど4体の妖怪が一斉に飛び込んだ。
源一郎が笑った。
「確かにね」
最初の1体が正面から腕を振り下ろす。
源一郎は斜め前へ入った。
刀を振るのではない。
相手が進んでくる軌道へ、刃を置く。
それだけで首筋が裂けた。
そのまま左へ身体を流し、2体目の腕をかわす。手首を斬り、返す刃で胸を切り上げる。
3体目。
長い腕が横から伸びる。
源一郎はしゃがみ、その腕の下を潜った。
立ち上がりながら一閃。
胴が断たれる。
最後の1体が背後から跳びついた。
源一郎は足音で位置を取っていた。
振り返るより先に、一歩前へ出る。
妖怪の爪が空を切った。
そして振り向きざまに刀を振るう。
静かになった。
4体の妖怪が、次々と黒い煙へ変わる。
妖気が刀へ吸い込まれていった。
源一郎は刃を横にして眺めた。
「これで7か」
「残り3です」
晴明が答える。
「数えてたのか」
「源一郎が最初に数えたので」
「真面目だな」
「仕事ですから」
その時、窓際から大きな音が響いた。
鬼だった。
残った長腕の1体を掴み、地面へ叩きつけている。
もう1体が背中へ爪を立てようとするが、鬼は振り向きざまに拳を叩き込んだ。
小柄な妖怪が宙を舞う。
「強いな」
源一郎が感心する。
だが、その直後。
鬼と源一郎の目が合った。
鬼の視線が、源一郎の持つ妖刀へ落ちる。
黒い妖気を吸い込み、淡く不気味な気配をまとった刃。
鬼の表情が変わった。
「グルルルル……」
源一郎が眉を上げる。
「おい。こっちじゃない」
通じなかった。
鬼が地面を蹴る。
巨体が一直線に源一郎へ迫ってきた。
晴明の手に札が現れる。
紫苑も身構えた。
だが源一郎は動かなかった。
鬼の拳が振り上げられる。
源一郎は妖刀を見た。
それから、春丸を守るように窓際へ立っていた鬼の姿を思い出す。
「……これは違うな」
刀を鞘へ戻した。
晴明の目がわずかに動く。
「源一郎?」
「こいつは斬らない」
次の瞬間、巨大な拳が飛んできた。
源一郎は両腕で受け流す。
衝撃が身体を抜け、足が地面を滑った。
数歩。
源一郎が止まる。
「おお……」
思わず笑いが漏れた。
「すごい力だな」
鬼がもう一度殴りかかる。
源一郎は正面から受けなかった。
拳の外側へ身体をずらし、鬼の手首へ触れる。
そのまま崩そうとした。
だが。
「重っ……!」
源一郎の身体ごと引っ張られた。
普通の人間なら、わずかに力の向きを変えるだけで重心を崩せる。
だが相手は鬼だ。
体重も筋力も違いすぎる。
源一郎は手を離し、横へ飛ぶ。
鬼の腕が地面を叩いた。
土が跳ねる。
「力比べは無理だな」
それでも声に焦りはない。
むしろ、少し嬉しそうだった。
紫苑が呆れる。
「源ちゃん、楽しんでない?」
「少しな」
「少し?」
晴明は札を持ったまま、動かない。
紫苑が横を見る。
「晴明」
「まだです」
「でも、さっき源ちゃん飛ばされたわよ」
「足元を見てください」
紫苑が源一郎の足を見る。
姿勢は崩れていない。
呼吸も変わらない。
晴明は静かに続けた。
「力で勝てないと確認しただけです」
源一郎は鬼を見上げていた。
「さて」
鬼が再び突っ込んでくる。
今度は両腕。
源一郎を掴もうとする。
「力を使わせてもらうか」
源一郎は逃げなかった。
鬼が伸ばした右腕へ自分の身体を寄せる。
手首ではない。
肘。
肩。
そして鬼の足。
一瞬で全部を見る。
源一郎は鬼の腕を取ると、正面ではなく横へ身体を流した。
鬼の力が、そのまま前へ抜ける。
巨体がわずかに傾いた。
「ここだ」
源一郎の足が鬼の足へ絡む。
重心が落ちる。
鬼が踏ん張る。
源一郎の腕に力が入る。
「……やっぱり重いな!」
鬼が吠えた。
源一郎も歯を見せて笑う。
簡単ではない。
だが、どうすればいいかは分かる。
力そのものに勝つ必要はない。
相手が自分から動いてくれる。
その力を使えばいい。
鬼が身体を起こそうとした瞬間、源一郎は逆方向へ体勢を変えた。
膝が落ちる。
ドンッ!
鬼の片膝が地面についた。
「まず1つ」
鬼が怒り狂ったように腕を振る。
源一郎はすぐに離れた。
拳が頬を掠める。
「危ないな」
口ではそう言っているが、目は落ち着いている。
鬼が立ち上がる。
もう一度。
今度は源一郎も少し腰を落とした。
鬼が飛び込む。
源一郎は懐へ入った。
巨大な身体の下。
腕を取る。
腰は入れない。
人間相手の投げ方では無理だ。
代わりに、鬼が踏み出した足と、上半身が進む方向を合わせる。
押すのではない。
引くのでもない。
ただ、行きたい方向へ少しだけ余計に進ませる。
鬼の巨体が浮いた。
わずかに。
だが、それで十分だった。
「よっと」
大きな音がした。
鬼が地面へ倒れる。
庭が揺れた。
源一郎も一緒に倒れ込み、すぐに鬼の背後へ回った。
右腕を取る。
肩を押さえる。
鬼が暴れた。
源一郎の身体が大きく揺れる。
「おっと」
片手だけでは無理だ。
両腕を使う。
脚も絡める。
全身で鬼の腕と肩を制する。
「グオオオオオッ!」
「大人しくしろ!」
鬼がさらに力を込める。
源一郎の額に汗が浮いた。
簡単ではない。
少し気を抜けば、そのまま吹き飛ばされる。
それでも。
源一郎の声には余裕が残っていた。
「お前を斬りたくないんだ」
鬼が暴れる。
「聞け」
さらに押さえ込む。
「俺たちは春丸を殺しに来たんじゃない」
鬼の動きが、ほんのわずかに止まった。
源一郎は気づいた。
「やっぱり分かるのか」
晴明の視線が鋭くなる。
紫苑も息を潜めた。
源一郎は鬼の腕を押さえたまま続ける。
「お前もそうだろ?」
鬼が低く唸る。
「毎晩ここへ来て、あの子を守ってた」
再び鬼が動こうとする。
源一郎は力を緩めない。
「だったら俺たちは敵じゃない」
しばらく、鬼は動かなかった。
庭の端では、最後に残った長腕の妖怪が逃げようとしている。
晴明がそちらへ視線を向けた。
札を1枚放つ。
白い紙が妖怪の額へ貼りついた。
「止」
晴明が一言告げる。
長腕の身体が、その場で硬直した。
源一郎が晴明を見る。
「手を出さないんじゃなかったのか?」
「逃がすとは言っていません」
「なるほど」
源一郎は少し笑う。
その下で、鬼がまた低く唸った。
だが先ほどとは違う。
怒りではない。
源一郎は少しずつ力を緩めた。
「暴れないなら離すぞ」
鬼は動かない。
源一郎が完全に腕を離す。
すぐに立ち上がれるよう、一歩だけ距離を取った。
鬼もゆっくり身体を起こす。
源一郎よりはるかに大きい。
立ち上がれば、その圧力は相当なものだった。
それでも源一郎は刀へ手を伸ばさなかった。
鬼の視線が源一郎から、窓の奥で眠る春丸へ移る。
しばらく見つめたあと、再び源一郎へ戻った。
そして。
「……守る」
低い声だった。
人間の声とは少し違う。
喉の奥から絞り出すような声。
だが、確かに言葉だった。
源一郎の表情が変わる。
「喋れるじゃないか」
鬼はもう一度、春丸を見る。
「守る」
それだけを繰り返した。
源一郎は少し笑った。
「なら最初からそう言え」
晴明が後ろから静かに答える。
「源一郎。普通は鬼と会話する前に、ここまで組み合いません」
「向こうから殴ってきたんだ」
「刀を持っていたからでしょう」
源一郎は腰の妖刀を見る。
確かに、鬼から見れば妖怪を斬る刀を持った人間が春丸の近くに現れたのだ。
警戒する理由は十分ある。
紫苑が源一郎へ近づき、袖の裂けた部分をつまんだ。
「それより源ちゃん」
「なんだ?」
「服」
源一郎が目を逸らした。
「……少し切れたな」
「少し?」
「直せるだろ?」
紫苑がにっこり笑う。
「もちろん」
「よかった」
「その代わり、あとで私の言うこと1つ聞いてね」
源一郎が紫苑を見る。
「それ、直すより高くつかないか?」
「どうかしら」
紫苑は楽しそうに笑った。
その横で、巨大な鬼がもう一度だけ呟く。
「守る」
源一郎たちの視線が戻った。
なぜこの鬼は、春丸を守っているのか。
そして庭へ現れた長腕の妖怪たちは、なぜ7歳の子どもを狙っているのか。
戦いは終わった。
だが、分からないことはまだ残っていた。




