子どもの部屋に立つもの
昼を少し回った頃、源一郎たちは都の外れへ向かっていた。
昨夜は女の部屋でそれなりに眠ったものの、いつものように十分な睡眠を取ったわけではない。それでも源一郎の足取りは軽く、身体には思っていたほど疲れが残っていなかった。
若い身体に戻った影響なのだろう。92歳の頃なら、夜更かしした翌日にこんな調子で歩き回るなど考えられなかった。
隣を歩く紫苑が、源一郎の顔を横から覗き込む。
「源ちゃん、眠くない?」
「少しはな」
「少しって。昨日ほとんど寝てないんでしょ?」
「数時間は寝たぞ」
「それを十分寝たとは言わないの」
紫苑は呆れたように言ったが、源一郎は気にした様子もなく肩を回した。
腕も軽い。脚にも重さはない。
「92の頃なら、今日は昼まで動けなかっただろうな。でも今は平気だ」
「若い身体って便利ねえ」
「ああ。本当にありがたい」
「でも、身体が若くても無茶する癖まで若返ったわけじゃないんだからね」
源一郎は少し考えた。
「そこは昔から変わらんな」
「あ、それ自慢にならないわよ」
紫苑はそう言いながら、いつものように源一郎の腕へ自分の腕を絡めた。
相変わらず距離が近い。
源一郎も、もういちいち身を固くすることはなくなっていた。
少し前を歩いていた晴明が振り返る。
「源一郎」
「なんだ?」
「現場に着いてから、眠くなったので休む、はなしですよ」
「分かってる。仕事中はちゃんとやる」
「朝まで遊んでいた人の言葉とは思えませんね」
「だから数時間は寝たと言ってるだろ」
「そこを強調する時点で駄目だと思います」
紫苑が隣で楽しそうに笑う。
源一郎は軽く眉を寄せたものの、言い返すのはやめた。
昨日、晴明から届いた依頼の話を聞いた時点で、眠いから行かないという選択肢はなかった。
夜になると、7歳の子どもの部屋へ何かが現れる。
大きな足跡だけを残し、子どもには今のところ危害を加えていない。
鏡の女の件があったばかりだからこそ、源一郎も最初から斬るつもりはなかった。
何をしに来ているのか。
まずはそこからだ。
依頼のあった家は、都の中心から少し離れた場所にあった。
貴族の大屋敷というほどではないが、庭もあり、何人かの使用人もいる。暮らしに困っている家ではなさそうだった。
門の前では30代半ばほどの男が3人を待っていた。
晴明を見るなり、深く頭を下げる。
「晴明様。お待ちしておりました」
「子どもの様子は?」
晴明は余計な挨拶を挟まずに尋ねた。
仕事に入った瞬間、やはり雰囲気が変わる。
先ほどまで源一郎の朝帰りを皮肉っていた男と同じ人物には見えない。
「今は落ち着いております。ただ……昨夜も来たようで」
男の顔には、何日もまともに眠れていないような疲れが浮かんでいた。
源一郎が尋ねる。
「子どもは7歳だったな?」
男は源一郎を見上げた。
この時代の人間からすれば、180cmほどある源一郎はかなり大きく見えるらしい。少し驚いたように晴明へ視線を向ける。
「こちらは?」
「源一郎です。私と一緒に調べます」
晴明の紹介は簡単だった。
源一郎も軽く頭を下げる。
「よろしく頼む」
後ろで紫苑が小さく頷いた。
源一郎がちらりと見ると、口元を緩めている。
どうやら今の話し方は合格らしい。
男は3人を屋敷へ招き入れながら、これまでの経緯を説明し始めた。
「息子は春丸と申します。最初に妙なことが起きたのは、7日ほど前でした」
「何があったのです?」
「夜中に、大きな物音がしたのです。私と妻ですぐに春丸の部屋へ向かったのですが、部屋にはあの子しかおりませんでした」
晴明が歩きながら尋ねる。
「戸は?」
「閉まっておりました」
「窓は?」
「そちらもです」
「壊された跡は?」
「ありません」
晴明の眉がわずかに動いた。
「それから毎晩?」
「はい。ただ、何も見つからないのです。ところが朝になると……」
男が足を止めた。
目の前にある部屋を指す。
「足跡が残っています」
部屋へ入った瞬間、源一郎にもその意味が分かった。
床に黒い跡がいくつも残っている。
形そのものは人間の足に近い。
だが、大きい。
源一郎は自分の足を隣へ置いて比べた。
「でかいな」
晴明もしゃがみ込んで確認する。
「源一郎より大きいですね」
「これなら2メートルは超えてそうだな」
源一郎は足跡の向きを追う。
部屋の入口から中へ。
さらに奥へ。
そこで妙なことに気づいた。
「晴明」
「なんです?」
「こいつ、子どものところへ行ってないぞ」
足跡は部屋の中央を避けるように進み、窓際で止まっている。
子どもが寝ている場所には、ほとんど近づいていない。
晴明もそれに気づいたらしい。
何も言わずに立ち上がり、今度は窓の周辺を確認し始めた。
紫苑は床へ手をかざす。
指先に淡い紫色の光が宿った。
「妖気はあるわね」
「どれくらいだ?」
源一郎が聞く。
「そこまで強くない。でも、人間じゃないのは確か」
「鬼か?」
「それはまだ分からない」
紫苑が答える一方で、晴明は窓の外側へ回っていた。
しばらくして声が飛ぶ。
「源一郎」
「何かあったか?」
「こちらへ」
窓の外へ回る。
晴明が指していたのは木枠だった。
細い傷が何本も刻まれている。
源一郎は指で触れず、顔を近づけた。
「爪か?」
「恐らく」
「中にいる奴がつけた?」
「いえ」
晴明が首を横に振る。
「傷の向きが逆です」
源一郎も改めて見る。
確かに。
外から内へ向かって引っ掻いている。
「じゃあ、外にも何かいるのか」
晴明の目が細くなった。
「その可能性があります」
紫苑も窓辺まで来る。
先ほどまでの軽い表情は消えていた。
「夜に来てるの、1匹じゃないのかもね」
源一郎はもう一度、室内に残った大きな足跡を見る。
何かが毎晩、部屋の中へ入ってくる。
だが子どもへは近づかず、窓際に立っている。
そして外からは、別の何かが入り込もうとした痕跡が残っている。
少しずつ、話が変わってきた。
「父上?」
小さな声がした。
振り返ると、部屋の入口に男の子が立っていた。
聞いていた通り、7歳ほどだろう。
まだ少し眠そうな目をしている。
父親がすぐに近づいた。
「春丸。起きたのか」
「うん」
春丸は父親の脇から3人を見た。
まず晴明。
次に紫苑。
最後に源一郎へ視線が止まる。
しばらく見上げてから、ぽつりと言った。
「大きい」
源一郎が少し笑う。
「よく言われる」
春丸は源一郎の腰にある刀へ目を向けた。
「お侍さん?」
「違う」
「でも刀あるよ」
「これは……まあ、仕事道具みたいなものだ」
妖怪を斬るための刀で、妖気を吸って少しずつ重くなる。
そんな説明を7歳相手に始める気にはならなかった。
源一郎はその場にしゃがみ、春丸と目線を合わせる。
「少し話を聞いていいか?」
春丸は父親を見る。
父親が頷いたので、春丸も小さく頷いた。
「毎晩、この部屋に何か来るんだって?」
「うん」
「見たことはある?」
「あるよ」
父親が驚いた。
「春丸、本当に見たのか?」
「うん」
どうやら詳しく聞き出せていなかったらしい。
晴明も源一郎の横へしゃがむ。
「どんな姿でした?」
春丸は少し考えた。
「大きい」
源一郎と晴明が顔を見合わせる。
「どれくらいだ?」
源一郎が聞くと、春丸は源一郎を指差した。
「この人より大きい」
「それはかなりだな」
「黒いの」
「黒い?」
「うん。それで……角がある」
父親の顔から血の気が引いた。
「鬼……」
源一郎も同じものを想像した。
自分がこの世界へ来て初めて遭遇した鬼。
大柄で、人間とは比較にならない力を持っていた。
だが、春丸の様子が妙だった。
毎晩自分の部屋に巨大な鬼が現れる。
普通なら、こんなに落ち着いて話せるものだろうか。
源一郎は尋ねた。
「怖くないのか?」
春丸は少しだけ考えてから答えた。
「最初は怖かった」
「今は?」
「怖くない」
「どうして?」
春丸は窓を指差した。
「あそこにずっといるから」
3人の視線が窓へ向く。
晴明が尋ねる。
「何をしています?」
「外見てる」
「春丸のことは見ない?」
「うん。ずっと外」
源一郎の目が細くなる。
「何か話したことはあるか?」
「ない」
「襲われたことは?」
春丸は首を横に振った。
「ないよ」
「触られたことも?」
「ない」
春丸は少し考えてから、付け加えた。
「でも、怒ってる時ある」
「何に?」
「分かんない」
春丸は窓の外を見た。
「外に向かって、うーって言う」
源一郎は立ち上がった。
昼間確認した、窓の外側についた爪痕。
毎晩現れる巨大な鬼。
春丸には近づかず、窓の外を見続ける。
そして外へ向かって威嚇する。
「晴明」
「ええ」
晴明も同じことを考えているようだった。
「この家に来ている妖怪は、春丸を襲いに来ているとは限りません」
父親が目を見開く。
「では……何をしに?」
源一郎は窓を見る。
「外から何かが入ってこないようにしてるんじゃないか?」
「鬼が……息子を守っていると?」
男には到底信じられないらしい。
無理もない。
源一郎もこの世界に来たばかりなら、同じように思ったかもしれない。
晴明が静かに言う。
「今夜確認します」
「今夜?」
「ええ。その鬼が現れるところを見ます」
男は不安そうに春丸を見る。
「ですが、息子をここに寝かせるということでしょうか」
「危険があれば、すぐに止めます」
晴明が答える。
源一郎も春丸を見る。
「春丸」
「なに?」
「今夜もここで寝られるか?」
父親が慌てる。
「待ってください! そんな危険な――」
源一郎は男の方を見る。
「危なくなったら俺たちがいる」
自然に言葉が出た。
源一郎自身が、一瞬だけ引っかかる。
俺。
生前、年を取ってからはほとんど使わなかった一人称だ。
だが、今の身体で口にすると意外と違和感がない。
横にいた紫苑がすぐに反応した。
「源ちゃん」
「なんだ?」
「今のいい」
「何が?」
「あとで教える」
仕事中に何の話だと思ったが、紫苑は少し嬉しそうだった。
春丸は源一郎を見上げる。
しばらく考えたあと、小さく頷いた。
「寝られる」
「怖かったらすぐ言え」
「うん」
源一郎は春丸の頭を軽く撫でた。
日が落ちるまで、3人は屋敷で待つことになった。
晴明は家の周囲を調べ、紫苑は簡単な結界を仕込む。
源一郎は特にすることがなかったので、庭で春丸の相手をしていた。
「源一郎、これできる?」
春丸が木の枝を持って見せる。
どうやら剣の真似らしい。
「振ってみろ」
言われた通りに春丸が枝を振る。
上から力任せに一振り。
源一郎は少し考えた。
「悪くない」
「本当?」
「ああ。ただ、もう少し肩の力を抜いた方がいい」
そう言ってから、源一郎は止まった。
春丸もこちらを見る。
少し離れたところにいた紫苑が笑っていた。
「源ちゃん」
「なんだ?」
「先生に戻ってる」
源一郎は枝を持つ春丸を見る。
「あ」
気づけば完全に指導していた。
春丸が首を傾げる。
「先生なの?」
「昔な」
「強かった?」
源一郎は少し考える。
「まあまあだ」
紫苑が声を上げて笑った。
「源ちゃん、それはさすがに謙遜しすぎ」
「本当のことだ」
「鬼を素手で投げる人が?」
春丸の目が一気に輝いた。
「鬼、投げたの!?」
源一郎が紫苑を見る。
「余計なことを」
「本当でしょ?」
春丸が枝を放り出して源一郎へ近づいてくる。
「どうやったの!? 鬼って投げられるの!?」
「腰が浮いてればな」
「僕もできる?」
「今は無理だ」
「じゃあ教えて!」
源一郎は困ったように頭を掻いた。
2度目の人生では先生をやめたはずなのに、どうも癖は簡単には抜けそうになかった。
夜。
春丸はいつもの場所で横になっていた。
灯りは消してある。
隣の部屋では、源一郎、晴明、紫苑の3人が息を潜めて待っていた。
晴明は数枚の札を準備し、紫苑は家全体を覆うように薄い結界を張っている。
源一郎は壁へ背を預け、妖刀を膝に乗せていた。
静かな時間が続く。
外では虫が鳴いている。
昼間は平気だった眠気が、さすがに少し戻ってきた。
源一郎が軽く欠伸を噛み殺す。
それを紫苑が見逃さなかった。
「源ちゃん」
声を潜めて呼んでくる。
「なんだ?」
「やっぱり眠いんじゃない」
「少しだけだ」
「だから言ったのに」
「妖怪が来れば目も覚める」
「来る前に寝ないでよ?」
「寝ない」
晴明が暗闇の中でぼそりと言う。
「静かにしてください」
源一郎と紫苑は黙った。
しばらくして。
ミシッ。
隣の部屋から音がした。
源一郎の目から眠気が消える。
晴明もすでに立ち上がっていた。
再び。
ミシッ。
床板が沈むような、重い音。
何か大きなものが歩いている。
源一郎は音を立てずに立ち上がる。
晴明が戸をほんの少しだけ開いた。
3人で隙間から隣の部屋を覗く。
月明かりが差し込んでいた。
春丸は布団の中で眠っている。
その少し離れたところ。
窓際に、巨大な影が立っていた。
源一郎より頭1つ以上大きい。
2メートルを軽く超えている。
黒い肌。
太い腕。
大きな背中。
そして額には、2本の角。
鬼だった。
紫苑がほとんど息だけで囁く。
「本当に鬼ね」
源一郎の右手が妖刀の柄へ触れる。
だが、抜かなかった。
鬼は春丸へ背を向けている。
子どもへ近づく気配もない。
ただ窓の外をじっと見つめていた。
その姿は、獲物を狙っているというより――。
「見張ってるな」
源一郎が小さく呟く。
晴明も無言で頷いた。
その時だった。
鬼の頭がわずかに動く。
窓の向こう。
暗い庭へ顔を向けた。
「グルルル……」
低い唸り声。
春丸に向けたものではない。
外にいる何かへ威嚇している。
源一郎の表情が変わる。
木々の間。
暗闇の中で、何かが動いた。
1つ。
2つ。
3つ。
小柄な影が次々と姿を現す。
人間よりも小さい。
だが腕だけが異様に長く、地面へ届きそうなほど垂れている。
そのうちの1体が木の幹へ爪を立てた。
ギィィィ……。
木を引っ掻く嫌な音が響く。
昼間見つけた傷と同じだった。
「こいつらか」
源一郎の声が少し低くなる。
影は4体。
いや。
その後ろにもいる。
暗闇に目が慣れるにつれ、さらに多くの影が見えてきた。
鬼が一歩前へ出る。
窓と春丸の間に立つように。
巨大な身体で、子どもを背に庇っている。
源一郎の口元がわずかに上がった。
「なるほどな」
晴明が横を見る。
「何がです?」
「退治する相手を間違えずに済みそうだ」
源一郎の手が妖刀から離れた。
今ここで斬るべきなのは、この鬼ではない。
庭の闇から、細長い腕が一斉に伸びた。
次の瞬間。
鬼が吠えた。
家全体が揺れるほどの咆哮だった。




