源ちゃん、人生初の朝帰り
目を覚ますと、見覚えのない天井があった。
源一郎はしばらく仰向けのまま瞬きをしていた。
頭は痛くない。口の中も乾いていない。昨夜はそれなりに酒を飲んだはずだが、若返った身体は思っていた以上に丈夫らしい。
そこで、すぐ隣から小さな寝息が聞こえた。
顔を横へ向ける。
昨夜、店で声をかけた女が眠っていた。
長い髪が枕の上へ広がり、薄い掛け物から白い肩だけが覗いている。源一郎はその姿を見てから、もう一度天井へ視線を戻した。
しばらくして、口元がゆっくりと緩んだ。
「……朝帰りというやつか」
92年生きた。
酒も飲んだ。恋愛もしたし、妻もいた。
それでも、こんな朝を迎えた記憶はなかった。
若い頃から稽古があった。
道場を持ってからは、なおさらだ。
夜遅くまで酒を飲んでも翌朝には帰っていたし、どこへ行っても「先生」と呼ばれた。自分だけ好き勝手することに、どこかで勝手に線を引いていたのだろう。
今は違う。
朝稽古はない。
門下生も待っていない。
誰かに立派な姿を見せる必要もない。
昨夜はただ酒を飲み、女と話し、そのまま夜を過ごした。
それだけのことなのに、妙に新鮮だった。
「悪くないな」
源一郎が小さく呟くと、隣の女が身じろぎした。
「……もう起きたの?」
「ああ。起こしたか?」
「少しだけ」
女は眠そうに身体を起こすと、源一郎の顔を見て笑った。
「昨日より普通に喋るようになったね」
「ああ、それか」
源一郎も笑う。
「今、直してるところなんだ」
「喋り方を?」
「見た目に合ってないらしい」
昨夜、紫苑から散々言われた。
見た目は若いのに、口を開いた瞬間92歳になる。
あまりにも言い方が酷かったので反論したものの、確かに今の姿で「なんじゃ」「そうじゃのう」を連発するのは妙なのかもしれない。
女がくすくす笑う。
「でも時々、急にお爺さんみたいになるよね」
「92年分の癖だからな。すぐには抜けない」
「92年?」
源一郎が止まった。
女も首を傾げる。
数秒の沈黙。
「……例えだ」
「変な例え」
「よく言われる」
源一郎は誤魔化すように笑い、着物へ手を伸ばした。
「もう帰るの?」
「ああ」
女は少しだけ残念そうに源一郎を見る。
「また来る?」
源一郎は帯を締めながら、少し考えた。
こういう時に何と答えるのが正解なのかは知らない。
紫苑から教わったのは、目を見ろ、思ったことを自然に言え、相手の話を途中で解決しようとするなということくらいだ。
だが、人を雑に扱っていいかどうかなど、教わるまでもない。
源一郎は女を見る。
「また会いたくなったら来る」
女が少し目を丸くした。
「そこは『また来る』って言わないの?」
「約束して来なかったら嫌だろ?」
「正直ね」
「今さら嘘を覚えても仕方ないからな」
女はしばらく源一郎を見ていたが、やがて笑った。
「そういうところ、結構好きかも」
「それは良かった」
源一郎は立ち上がった。
部屋を出る前に振り返る。
「昨夜は楽しかった。ありがとう」
女も笑って手を振った。
「またね」
源一郎は軽く手を上げ、その場を後にした。
朝の都には、夜とは違う静けさがあった。
まだ商いを始めていない店も多く、人通りもまばらだ。昨夜まで酒と笑い声に満ちていた一帯を、今は掃除をする者たちが行き交っている。
源一郎はゆっくり歩きながら大きく伸びをした。
身体が軽い。
眠気もない。
若い肉体というものは、本当に便利だった。
「若い身体はいいのう……」
口にしてから、自分で止まった。
周囲を確認する。
誰も聞いていない。
「……若い身体はいいな」
わざわざ言い直してから、源一郎は苦笑した。
紫苑が聞いていたら、間違いなく指摘されていただろう。
だが、こうして歩いていると改めて思う。
自分は本当に、全く別の人生を始めたのだ。
鬼を投げた。
安倍晴明と出会った。
妖刀を腰に差し、怪異を斬った。
人の死も見た。
そして昨日は、知らない女へ自分から声をかけた。
92歳で死ぬ直前に思った。
今度があるなら、好きに生きてみたい。
それが少しずつ、本当になっている。
「さて」
源一郎は晴明の屋敷へ向かって歩き出した。
「紫苑に何を言われるかだな」
なぜか、妖怪へ向かう時より少しだけ嫌な予感がした。
晴明の屋敷へ戻った時には、すっかり朝になっていた。
門をくぐり、紫苑の結界を抜ける。
庭へ一歩入ったところで、源一郎は足を止めた。
縁側に紫苑がいた。
腕を組み、こちらを見ている。
源一郎と目が合うと、にっこり笑った。
「おかえり、源ちゃん」
笑っている。
間違いなく笑っている。
だが、妙に怖い。
「……ただいま」
「遅かったわね」
「そうだな」
「楽しかった?」
「ああ」
紫苑の笑顔が一瞬だけ固まった。
どうやら、この答えは正解ではなかったらしい。
紫苑は立ち上がると、そのまま源一郎へ近づいてきた。
「ちょっと」
「なんだ?」
返事をする間もなく、紫苑が顔を近づける。
源一郎の襟元へ鼻先を寄せ、軽く匂いを嗅いだ。
「おい」
「動かないで」
「何してるんだ?」
紫苑はもう一度確認するように匂いを嗅ぎ、ゆっくりと顔を上げた。
「女の匂い」
「分かるのか?」
「分かるわよ」
「すごいな」
「褒めてない」
紫苑が不満そうに目を細める。
源一郎には、いよいよ理由が分からない。
「紫苑が行ってこいと言ったんだろ?」
「言ったわよ」
「その通りにしただけだぞ」
「私は女の人と話してきなさいって言ったの」
「話した」
「そのまま朝まで?」
「話だけではなかったな」
紫苑の眉がぴくりと動いた。
「源ちゃん」
「なんだ?」
「余計なことまで正直に言わなくていいの」
「思ったことを自然に言えって教えたのは紫苑だろ」
紫苑が黙った。
源一郎は少し考える。
「……もしかして、怒ってるのか?」
「怒ってない」
「怒ってるように見えるが」
「怒ってない」
少し離れたところから、別の声が飛んできた。
「怒っていますね」
晴明だった。
朝だというのにすでに着替えを済ませ、何事もなかったような顔で縁側に立っている。
紫苑が勢いよく振り返った。
「晴明は黙ってて」
「聞かれたので答えただけです」
「誰も晴明に聞いてない」
晴明は気にする様子もなく源一郎を見る。
「朝帰りですか、源一郎」
「ああ」
「初日にしては上出来ですね」
「何が上出来なんだ?」
「遊びです」
源一郎が少し嬉しそうに笑う。
「師匠に褒められたな」
「その呼び方はやめてください」
紫苑が晴明を睨む。
「晴明まで褒めないで」
「紫苑が自分で教えたのでしょう?」
「それはそうだけど」
「源一郎が実践した。それだけです」
正論だった。
紫苑は言い返せず、晴明を睨んだまま黙り込む。
源一郎はようやく察した。
「紫苑」
「なに?」
「妬いてるのか?」
紫苑の目がさらに細くなる。
「源ちゃん」
「なんだ?」
「昨日まで女の人に声かけるだけで緊張してたくせに、急に調子に乗らない方がいいわよ」
「当たりか」
「違う」
「顔に出てるぞ」
「誰のせいよ」
紫苑が源一郎の脇腹をつねった。
「痛い」
「嘘。全然痛くないくせに」
「まあな」
「腹立つ」
そう言いながらも、紫苑は離れなかった。
むしろそのまま源一郎の腕へ両腕を絡め、身体を寄せてくる。
柔らかな胸元がしっかりと腕に押しつけられた。
源一郎が横目で見る。
「結局くっつくんだな」
「私の勝手でしょ」
「別に嫌とは言ってない」
紫苑がちらりと源一郎を見上げる。
「……ならいい」
少し機嫌が戻ったらしい。
晴明が2人を見ながら静かに呟いた。
「朝から面倒ですね」
源一郎と紫苑が同時に晴明を見る。
「「晴明にだけは言われたくない」」
2人の声が重なった。
晴明が少しだけ眉を上げる。
「なぜです?」
「自覚ないのね、この男」
紫苑が呆れたように言う。
源一郎は声を出して笑った。
朝食が用意される頃には、紫苑の機嫌もほとんど戻っていた。
もっとも、源一郎の隣からは離れようとしない。
源一郎が食事をしながら、横目で紫苑を見る。
「まだ何か言いたそうだな」
「そうだった」
紫苑が姿勢を正した。
「源ちゃん。昨日の講義には続きがあります」
「まだあるのか?」
「当然。女の人と仲良くなるところまでしか教えてないでしょ?」
「講義だったのか、あれ」
「今決めたの」
晴明が茶を飲みながら聞いている。
紫苑は人差し指を立てた。
「まず、相手とのことを人に自慢しない」
源一郎が頷く。
「する気はない」
「遊びだったからって、相手を雑に扱わない」
「ああ」
「変に期待させるような約束もしない。できないことはできないって言う」
「それも分かる」
「次に会ったら、ちゃんと礼を言う」
「別れる時に言ったぞ」
紫苑が少し意外そうに源一郎を見る。
「なんて?」
「楽しかった、ありがとうって」
「……ちゃんとしてるじゃない」
「遊んでこなかっただけで、馬鹿じゃない」
紫苑が少し笑った。
「じゃあ、また来るって言った?」
「いや」
「なんて言ったの?」
「また会いたくなったら来るって」
紫苑が一瞬黙った。
晴明もわずかに顔を上げる。
「何かまずかったか?」
源一郎が聞く。
紫苑は首を横に振った。
「逆。思ってたよりずっとちゃんとしてた」
「そうか」
「そこは直さなくていいわ」
「では合格か?」
「まだまだ」
「厳しいな」
紫苑は楽しそうに笑った。
「でも源ちゃんのそういうところ、結構好きよ」
「朝帰りしたら怒ってたのに?」
「それとこれは別」
「女は難しいな」
「そういうものなの」
晴明が静かに口を挟む。
「私も未だによく分かりません」
源一郎が晴明を見る。
「お前は分からないまま遊んでるのか?」
「ええ」
「それであんなに女関係が多いの?」
紫苑が横から聞く。
晴明は茶を飲む。
「結果として」
「参考にならんな」
「なので私に恋愛相談をしないでください」
源一郎は納得したように頷いた。
「遊びは晴明、女は紫苑だな」
「その分け方やめてもらえます?」
晴明が露骨に嫌そうな顔をした。
紫苑は逆に満足そうだった。
「私はいいわよ」
「何師匠だ?」
「恋の師匠」
「大きく出たな」
「源ちゃんよりは詳しいもの」
「それは否定できん……」
紫苑の目が光る。
源一郎が気づいて咳払いした。
「……否定できないな」
「今、出たわね」
「油断した」
「でも、それくらいなら可愛いからいいかも」
「結局どっちなんだ」
「全部直したら源ちゃんじゃなくなるでしょ?」
源一郎は少し考えてから頷いた。
「それもそうだな」
口調を若くしても、92年生きてきた事実まで消えるわけではない。
それでいい。
自分は若者になったわけではなく、若い身体で新しい人生を始めただけなのだから。
食事も終わり、源一郎がもう一杯茶を飲もうとした頃だった。
屋敷へ一通の文が届いた。
受け取った晴明は、その場で封を開く。
文章へ目を通すうちに、表情が少しずつ変わっていった。
源一郎はすぐに気づいた。
「仕事か?」
「ええ」
紫苑も源一郎の腕から離れ、晴明を見る。
「どんなの?」
晴明は文を読みながら答えた。
「都の外れにある家からです。夜になると、子どもの部屋に何かが現れるそうです」
源一郎の表情から、遊んでいた時の緩さが消える。
「子どもは無事なのか?」
「今のところは」
「今のところ?」
「毎晩、同じ頃に部屋から物音がする。家族が駆けつけると何もいない。しかし朝になると、部屋の床に大きな足跡が残っているそうです」
「足跡だけ?」
「ええ」
紫苑が首を傾げる。
「子どもを襲ってる様子はないの?」
「文を読む限りでは」
源一郎は少し考えた。
鏡の女のことが頭をよぎる。
怪異だから悪い。
妖怪だから斬る。
そんな単純な話ではないことを、すでに知ってしまった。
「なら、いきなり斬るのはなしだな」
晴明が源一郎を見る。
「私もそのつもりです」
「何しに来てるか確かめるのが先か」
「ええ」
紫苑も頷いた。
「悪い妖怪とは限らないものね」
晴明は文を畳んだ。
「昼には出ます」
源一郎が止まる。
「昼?」
「はい」
「今、帰ってきたばかりなんだが」
晴明が冷静に答える。
「朝まで遊んでいたのは源一郎の都合です」
「厳しい師匠だな」
「だから師匠ではありません」
紫苑が楽しそうに源一郎へ寄ってくる。
「源ちゃん、寝る?」
「いや」
源一郎は立ち上がり、大きく身体を伸ばした。
眠くもない。
若い身体はまだ十分に動けそうだ。
「行こう」
晴明が少し意外そうな顔をする。
「休まなくていいんですか?」
「遊ぶ時は遊ぶ。仕事する時は仕事するんだろ?」
晴明の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
「覚えるのが早いですね」
「師匠がいいからな」
「源一郎」
「冗談だ」
紫苑が声を出して笑った。
源一郎は腰の妖刀へ手を置く。
人生初の朝帰り。
思っていた以上に楽しかった。
できることなら、もう少しその余韻に浸っていたかった気もする。
だが、新しい人生でやりたいことは遊ぶことだけではない。
困っている子どもがいる。
なら、行く。
それもまた、好きに生きるということなのだろう。
源一郎は立ち上がりながら、晴明の持つ文へ視線を向けた。
「それで、その子どもはいくつなんだ?」
「7歳です」
源一郎の目が少し細くなる。
夜な夜な7歳の子どもの部屋へ現れる何か。
足跡だけを残し、今のところ傷つけてはいない。
一体、何をしに来ているのか。
源一郎にはまだ分からなかった。




