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地獄とは、死後に訪れる場所ではない。それは生きたまま、自らの愚行によって作り出すものだ。
ソル・インヴィクトゥス帝国の王都は、わずか一晩で無数の命が潰える血の坩堝と化していた。
天井を破って降り注いだ過剰な光の奔流は、王都の三割を焼失させ、暴走した魔導具の火災が街全体を包み込んでいた。さらに、大結界という防壁を完全に失った都に、「常闇の谷」から押し寄せた餓えた魔獣の群れが雪崩れ込んだのだ。
「ひえっ……ひぃぃっ! 助けてくれ! 誰か、誰か撃退してくれ!」
かつて絢爛豪華を極めた王宮の回廊を、ルシウス・ソル・インヴィクトゥスはなりふり構わず走り抜けていた。
赤髪は煤と汗で酷く汚れ、自慢のシルクの衣装は破れ、高級な靴はどこかで脱げ落ちて素足のまま血と硝煙の混じる床を蹴っていた。
彼の背後では、悲鳴と肉が引き裂かれる不快な音が響いていた。
王宮を守るはずの第一騎士団は、結界の暴走による魔力の逆流で壊滅状態にあり、残された者たちも巨大な魔獣の爪と歯の前に次々と餌食となっていた。
「殿下! ルシウス殿下、お待ちください!」
大司祭が、息を切らしながらルシウスの後を追ってくる。その顔は恐怖で激しく歪み、白銀の法衣は返り血で黒く染まっていた。
「大司祭! 結界はどうなった!? アメリアはどうした!?」
ルシウスは立ち止まり、大司祭の胸ぐらを掴んで激しく揺さぶった。
「ア、アメリア様は駄目です! 魔導回路が焼き切れ、もはや精神すら崩壊して自らの名前すら言えぬ状態……! 結界の修復など、金輪際不可能です!」
「使えない女め! 聖女などと面下げて、ただの欠陥品ではないか!」
ルシウスは唾を吐き捨てた。つい一ヶ月前まで「真の聖女」「愛しい伴侶」と持ち上げていた異母妹を、今や害虫のように罵倒していた。
「殿下……お聞きください!」
大司祭は涙と鼻水にまみれた顔で、ルシウスの腕にしがみついた。
「地下の記録保管庫から、古の結界管理に関する『真の秘録』が見つかりました……! 我々は、恐ろしい勘違いをしていたのです……!」
「真の秘録……? 何のことだ!」
「この大結界は……元より『光の魔術』だけでは維持できない構造だったのです! 光が増幅すればするほど生じる強力な『毒(瘴気)』を、テネブリス家の漆黒の魔力がすべて呑み込み、中和することで初めて安定していた……! つまり……!」
大司祭の身体が、恐怖でガタガタと震えた。
「この十年間、国を守っていたのは光の神でも、アメリア様でもなく……エルヴィラ様お一人だったのです! 彼女は毎夜、国中の毒を己の体内に引き受け、命の血を流して結界の崩壊を防いでいた……! 彼女こそが、この国の真の守護者だったのです……!」
「な……んだ……と……?」
ルシウスの思考が停止した。
脳裏に浮かぶのは、地下祭壇から上がってきたエルヴィラの青白い顔。目の下に刻まれた濃い隈。命を削り取られた死人のような姿。
彼女が言っていた「儀式が終わりました」という言葉。自分たちが「陰気で無能な女が部屋に引きこもっているだけ」と嘲笑っていたあの時間が、すべて彼女の命の犠牲の上に成り立っていたというのか。
「では……アメリアが注ぎ込んでいた光は……」
「ただ結界を内部から加熱し、爆破させるための『燃料』に過ぎませんでした! 我々は……我々自身の手で、唯一の命綱を断ち切り、この国を爆破したのです……!」
大司祭は床に崩れ落ち、頭を叩きつけて号泣した。
「そんな……そんなバカな……! 私が間違っていたというのか!? 私は太陽の子、正義の王太子だぞ!?」
ルシウスは頭を抱えて狂乱した。
自分が追い払った「陰気な魔女」こそが、自らの命を捧げて自分たちの贅沢と平和を支えていた本物の聖女。
そして自らが選び取った「愛らしい聖女」こそが、国を滅ぼした毒。
残酷すぎる現実が、ルシウスのプライドを完璧に粉砕した。
「し、しかし……! エルヴィラなら! エルヴィラを連れ戻せば、まだやり直せるはずだ!」
ルシウスの瞳に、奇妙な執着と狂気が宿った。
「そうだ! あの女は私に惚れていた! だからこそ、あれほどの苦痛に耐えて国を守っていたのだ! 私が頭を下げて……いや、復権を約束してやれば、あの女は泣いて喜んで戻ってくるに決まっている! 婚約者の座も、公爵家の地位も戻してやる! そうだ、そうに決まっている!」
自らの都合の良い解釈に縋り付いたルシウスは、青ざめた大司祭を見下ろした。
「大司祭! 今すぐ生存している精鋭騎士を集めろ! 北へ向かうぞ! エルヴィラを探し出し、この王都へ連れ戻すのだ!」
それは、既に滅びの淵に足を踏み入れた愚者たちの、あまりにも浅はかな悪あがきだった。
それから二週間後。
王都ソル・インヴィクトゥスは完全に沈黙した。
魔獣の群れによって街は荒廃し、生き残った貴族や民衆は散り散りとなって国は事実上崩壊。帝国という巨大な機構は、跡形もなく消滅したのだった。
そんな荒野となった旧帝国領から北へ向かって、一隊の小集団が泥にまみれて進んでいた。
ルシウス・ソル・インヴィクトゥスと、彼を護衛するわずか数名の生き残り騎士たちだ。
彼らは飢えと寒さ、そして途中で襲い来る魔獣の恐怖に怯えながら、エルヴィラの手がかりを追って北の自治都市ガルダナを経由し、遂に「漆黒の森」の境界線へと辿り着いていた。
「ここか……あの女が逃げ込んだという、忌まわしい森は……」
ルシウスの姿には、かつての王太子の威厳など微塵も残っていなかった。
髭は伸び放題、頬はこけ、着ている鎧は傷だらけで臭気を放っている。だが、その瞳だけは不気味な執念でギラギラと輝いていた。
「殿下……正気ですか?」
騎士団長が、怯えた声で尋ねる。
「この森は『漆黒の森』……足を踏み入れた者で生きて戻った者はいないと言われる禁忌の地です。このような場所にエルヴィラ様がいらっしゃるはずが……」
「黙れ! ギルドの情報では、エルヴィラに似た黒髪の女がこの森へ向かったと間違いなく言っていた! あの女はここにいる! 私を待っているのだ!」
ルシウスは怒鳴り散らし、無理やり騎士たちを森の中へと進ませた。
森へ一歩足を踏み入れた瞬間、異様な静寂が彼らを包み込んだ。
太陽の光が届かない暗闇。だが、不思議なことに、王都を襲ったような不快な熱気や殺気は一切存在しない。むしろ、静謐で、清廉な空気すら漂っていた。
「な、なんだこの森は……? 魔獣が……いない……?」
騎士たちが戸惑う中、森の奥から静かに霧が立ち込め、彼らの視界を遮った。
そして、霧の向こうから、地鳴りのような足音が近づいてくる。
「ひっ……魔獣か!?」
騎士たちが剣を抜こうとした瞬間、霧を押し破って姿を現したのは、小山ほどもある巨大な三つ目の大蛇――「死蝕の大蛇」だった。
「ひあああああっ! 怪物だ! 怪物が出たぞ!」
騎士たちがパニックに陥り、剣を振り回そうとしたその時。
『鎮まれ、浅はかな虫ケラども』
重厚で、絶対的な威圧感を伴った声が森全体に響き渡った。
その声一振りに込められた凄まじい魔力圧に、ルシウスと騎士たちは息を詰まらせ、その場に膝をついて吐血した。
「ぐはっ……!? こ、この魔力は……何だ……!?」
地面に顔を押し付けられたルシウスの視界の先に、暗闇を裂いて壮麗な漆黒の門が現れた。
古代黒石で築かれたその城塞の門が静かに開かれ、内側から一筋の光――いや、深く美しい漆黒の輝きが漏れ出していた。
「お前達が……我が愛しき女王の『昔の玩具』か」
城の門前、高い階段の上から見下ろす一人の男がいた。
漆黒の軍服を纏い、地獄の業火のような赤い瞳を持つ男――深淵の王ヴァレリウスだ。その圧倒的な存在感の前に、ルシウスは息をすることすら忘れて硬直した。
そして、ヴァレリウスの隣から、ゆっくりと一人の女性が歩み出てきた。
「……あ」
ルシウスの喉から、掠れた声漏れた。
そこにいたのは、彼がよく知る、そして全く知らない女性だった。
黒ダイヤモンドの王冠を戴き、絢爛豪華な漆黒のドレスを纏った女性。
かつての死人のような青白さは消え去り、白磁のような肌には艶やかな血色が宿り、漆黒の髪は夜空の星のように輝いている。その瞳は、すべてを見通す深く静かな深淵の輝きを湛えていた。
「エル……ヴィラ……?」
ルシウスは、自分の目を疑った。
目の前にいるのは、かつて自分が「陰気で無能な出来損ない」と蔑み、大広間で冷酷に追い払ったあの女なのか?
そこには、一国の王どころか、世界そのものをひれ伏せさせるような、気高く美しい「女王」が降臨していた。




