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「お久しぶりですね、ルシウス殿下。……いいえ、今はもう『殿下』ではございませんか」
エルヴィラの鈴の音のような声が、静かな森に響き渡った。
その声には、怒りも、憎しみも、未練すらも含まれていなかった。ただ、路傍の石ころを見るかのような、完璧な「無関心」だけが存在していた。
ルシウスはその視線に一瞬怯んだものの、己の内に渦巻く執着と欲望を抑えきれず、必死で泥を這いずりながら階段の下まで進み出た。
「エルヴィラ! エルヴィラぁっ! 会いたかったぞ!」
ルシウスは、顔を涙と泥で汚しながら、叫ぶように言葉を吐き散らした。
「探したのだぞ! お前を救うために、私はわざわざこんな辺境までやってきたのだ!」
「私を……救うために?」
エルヴィラは、軽く首を傾げた。その動作一つすら、息を呑むほどエレガントだった。
「そうだ! 喜べ、エルヴィラ! 私はお前を許すことにした!」
ルシウスは、狂気じみた笑みを浮かべ、胸を張った。彼の中の「王子としてのプライド」が、滅びかけた現実を拒絶し、必死に昔の立ち位置へと固執させていた。
「アメリアは使えない偽物だった! あの女は国を滅ぼした罪人だ! だから私はアメリアとの婚約を破棄した! お前が本当の聖女だったのだな! 私のためにずっと陰で尽くしてくれていたこと、今なら分かってやるぞ!」
ルシウスは、まるで大慈悲を与えるかのように両腕を広げた。
「だから戻ってこい、エルヴィラ! お前を再び私の正式な婚約者として迎え入れてやる! 公爵家の財産もすべて戻し、新しき帝国の国母として私の隣に立つことを許そう! お前もそれを望んでいたのだろう!? 私を愛しているからこそ、あの苦痛に耐えていたのだろう!?」
一息にまくし立てたルシウスは、期待に満ちた目でエルヴィラを見上げた。
彼の中では、絶望の底にいたエルヴィラが感涙にむせび、自分の足元に縋り付いて感謝の言葉を述べる未来しか見えていなかった。
しかし。
「……クク、クハハハハハ!」
沈黙を破ったのは、エルヴィラの隣に立つヴァレリウスの腹からの爆笑だった。
「ハハハハハ! 素晴らしい! これほどまでに頭の爛れた虫ケラを見るのは、千年ぶりのことだ! エルヴィラ、この男は本気で言っているのか?」
ヴァレリウスは心底おかしそうに腹を抱え、涙を拭った。
ルシウスは顔を真っ赤にしてヴァレリウスを睨みつけた。
「だ、誰だ貴様は! 無礼者め! 私はソル・インヴィクトゥス帝国の王太子だぞ! その女は私の所有物だ!」
「所有物、ですか」
エルヴィラは小さく息を吐き出すと、ゆっくりと階段を降りてきた。
その優雅な歩みに合わせて、漆黒のドレスの裾が静かに揺れる。彼女が近づくにつれ、ルシウスは身体を押し潰されるような強烈な威圧感に気押され、思わず後ずさりした。
エルヴィラは、泥にまみれたルシウスの数歩手前で足を止めた。
そして、彼を見下ろし、心底あきれたように薄く微笑んだ。
「相変わらず、哀れなほどに自己評価が高いのですね、ルシウス様」
「な……何……?」
「私が貴方を愛していた? 貴方のために耐えていた? ……ふふ、大きな勘違いをなさらないで頂戴」
エルヴィラは氷のように冷たい瞳で、ルシウスを見据えた。
「私が守っていたのは、父が愛したこの土地と、何も知らずに生きる無辜の民の命だけです。貴方という傲慢で無能な男のためになど、私の一滴の血すら捧げる価値はありませんわ」
「なっ……! お前、何を言っている……! 私を見捨てるというのか!? 婚約者の座に戻してやると言っているのだぞ!?」
「婚約者の座?」
エルヴィラは可笑しそうに口元を扇で隠した。
「私の代わりなど、いくらでもいるとおっしゃったのは、他ならぬ貴方ではありませんでしたか?」
「そ、それは……あの時はアメリアに騙されていて……!」
「『私の代わりはいくらでもいる』。ええ、本当に素晴らしいお言葉でしたわ。お陰様で私は、己の愚かな犠牲精神を捨て、本当の自由を得ることができましたの。貴方が私を追い出してくださったお陰で、私はこうして真の理解者であり、世界の半分を統べる『深淵の王』ヴァレリウス様と出会うことができたのですから」
エルヴィラは振り向き、ヴァレリウスへと愛おしげな視線を送った。
ヴァレリウスもまた、優しく微笑んでエルヴィラの手を取り、その甲に口づけを捧げた。
「ご覧なさい、ルシウス様」
エルヴィラは再びルシウスに向き直り、圧倒的な女王の威厳を以て告げた。
「私は今、このノクス帝国の正当なる女王であり、ヴァレリウス様の唯一の伴侶です。滅びかけた一地方の、無力で愚かな元・王太子の『婚約者』などという落ちぶれた地位に、何の価値がおありだと?」
「ぐ……っ……あ……!」
ルシウスの顔から血の気が引いていった。
自分が差し出そうとしていた「最高の報酬」が、今のエルヴィラにとってはゴミ屑以下の価値しかないという現実を突きつけられたのだ。
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### 四、引導
「お前……最初から……こうなることが分かっていて……!」
ルシウスはガタガタと震えながら、血走った目でエルヴィラを指差した。
「知っていたんだろう!? 自分が抜けたら結界が崩壊することも! 王都が魔獣に襲われることも! お前は私たちを見殺しにしたんだ! この悪魔め! 酷薄な魔女め!」
「見殺し、ですか?」
エルヴィラの瞳に、初めて冷ややかな侮蔑の光が宿った。
「私は追放される間際、貴方に申し上げましたはずです。『精々、束の間の平穏を楽しんで下さい』と。忠告はいたしましたわ。それを『不遜な女だ』と切り捨て、妹の甘言に酔い痴れて私を追い払ったのは、貴方ご自身でしょう?」
「ひっ……!」
「自らの無知と強欲で国を滅ぼし、自らの手で命綱を切り捨てておきながら、いざ破滅が訪れれば他人に罪をなすりつける。……どこまでも見苦しく、醜い方」
エルヴィラは静かに背を向けた。
「もう二度と、私の視界にその汚らわしい姿を見せないでください」
「ま、待て! 待ってくれエルヴィラ!」
ルシウスは必死でエルヴィラのドレスの裾に手を伸ばそうとした。
「頼む! 助けてくれ! 何でもする! 奴隷にでも何にでもなるから、私を助けてくれ! 魔獣に喰われたくない! 死にたくないんだぁぁぁっ!」
かつて尊大に他者を見下していた男が、今や泥に顔を擦り付け、惨めに命乞いをして泣き喚いていた。その姿には、王族としての欠片の威厳も存在しなかった。
「失せよ、醜悪な虫ケラ」
ヴァレリウスが冷たく言い放つと同時に、強力な漆黒の衝撃波が放たれた。
「ぎゃあああああっ!?」
ルシウスと騎士たちは、吹き飛ばされて城門の外、森の暗闇へと転がり落ちた。
重々しい音を立てて、黒石の城門が閉ざされていく。
門が完全に閉まる直前、ルシウスの視界に映ったのは、ヴァレリウスの胸に寄り添い、一度も振り返ることなく城の奥へと歩んでいくエルヴィラの、美しくも冷酷な後ろ姿だった。
バタンッ!
門が完全に閉じられ、彼らは暗い『漆黒の森』に取り残された。
周囲の暗闇から、爛々と輝く無数の赤い瞳が浮かび上がってくる。
「死蝕の大蛇」をはじめとする、森の魔獣たちが、飢えた牙を剥き出しにして彼らを囲んでいた。
「あ……あぁぁぁぁぁっ! 助けて! エルヴィラぁぁぁぁぁっ!!」
ルシウスの絶望の叫びは、二度と届くことのない漆黒の森の暗闇の中に、むなしく吸い込まれて消えていった。
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### 五、深淵に咲く花
城内の静かな庭園。
黒い薔薇が咲き誇るテラスで、私はヴァレリウス様が淹れてくださった温かい紅茶を口に含んでいた。
「随分と、あっ気ない幕引きだったな」
ヴァレリウス様が、私の隣の椅子に腰掛け、優しく髪を撫でてくれた。
「ええ。もっと憎しみが湧くかと思っておりましたけれど……実際にあの男の惨めな姿を見たら、ただただ虚しく、哀れに思えるだけでしたわ」
「それでいい。奴らは自らが蒔いた種を刈り取っただけに過ぎん。お前が心を痛める必要など、最初からなかったのだ」
ヴァレリウス様は私の手を取り、愛おしそうに指先に口づけを重ねた。
「これからは、お前のための時間だ、エルヴィラ。この広い世界を、私と共に見て回ろう。お前が望むなら、どんな楽園でも作ってみせる」
「ふふ……はい、ヴァレリウス様。貴方と一緒なら、どこへでも」
私はヴァレリウス様の肩に頭を預け、澄み切った北の空を見上げた。
遠い南の地で、かつての王国がどのような末路を辿ろうと、もう私には関係のないことだ。
私は自分の意思で歩み出し、自分の意思でこの愛する場所を手に入れたのだから。
風が頬を撫でる。
それは、どこまでも自由で、どこまでも優しい、私だけの世界の風だった。




