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【完結】私の代わりなど、いくらでもいるのでしょう? 精々、束の間の平穏を楽しんで下さい  作者: 逆立ちハムスター


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3

竜骨山脈の北裾に広がる「漆黒の森」は、足を踏み入れる者すべてを拒絶する死の領域として恐れられていた。樹齢数千年の巨木たちが空を覆い尽くし、太陽の光は一光子たりとも地上へ届かない。足元には太古の腐葉土と濃密な黒い霧が立ち込め、一般の旅人ならば数分と経たずに感覚を狂わされ、森の恐怖に呑み込まれて命を落とす場所だ。


しかし、その暗闇を歩む私の足取りは、恐ろしいほどに軽やかだった。


「素晴らしい……なんて心地よい空気なのかしら」


深く息を吸い込むと、肺の隅々まで澄み切った冷気が満ち渡る。王宮のあの息詰まる贅沢な香水と吐き気を催す光の魔力に塗れた空間とは雲泥の差だ。ここにある闇は、私を害するものではなく、優しく包み込んでくれる母の胎内のような安らぎに満ちていた。


ガサリ、と頭上の枝が大きく揺れた。


次の瞬間、漆黒の頭部を持つ巨大な大蛇――「死蝕の大蛇ハイドラ」が、鎌首を持ち上げて目の前に姿を現した。その巨体は小山ほどもあり、爛々と輝く赤色の三つの瞳が、侵入者である私を捉えている。一口で人間など数人丸呑みにできるほどの怪物が、威嚇するように低い唸り声を上げた。


普通の人間なら恐怖で腰を抜かし、狂乱して逃げ出すだろう。

だが、私はただ静かにフードを外し、真っ直ぐにその三つの瞳を見つめ返した。そして、右手をそっと差し出し、私の中に眠る黒い魔力をほんのわずかに放出した。


「お静かに。私には貴方と争う意思はありませんわ」


私の指先から揺らめく黒い魔力触れた瞬間、大蛇の巨大な身体がぴたりと硬直した。

赤く血走っていた瞳から狂気が引いていき、驚愕と、そして絶対的な服従の色が宿る。大蛇はゆっくりと巨体を地上へと降ろすと、恐れ多そうにその頭部を私の足元へと擦り付け、服従の意を示したのだ。


森の魔獣たちは、愚かな光の教団が説くような「悪の化身」などではない。彼らはただ、世界の歪んだ魔力に晒されて狂わされているに過ぎないのだ。そして、すべてを呑み込み中和する私の「蝕の魔力」は、彼らにとっても狂気を鎮める最高の救いだった。


「良い子ね。道を教えてくれるかしら? 私を呼ぶ、あの方の元へ」


大蛇は低く咽び泣くような声を上げると、巨体を滑らせて森のさらに奥深くへと導くように進み始めた。


大蛇の後を追って進むこと半刻。森の中心部に開けた巨大なカルデラ状の盆地に、私は辿り着いた。

そこに佇んでいたのは、古の黒石(黒曜石)を積み上げて作られた、圧倒的な威容を誇る城塞だった。古代帝国の建築様式を残すその城は、幾重もの強力な結界によって世間から隠隠蔽されていたが、テネブリスの血を引く私の前では、その結界は歓喜の声を上げるように自ら霧散していった。


城の重厚な鉄門が、ギィと音を立てて開く。

吸い込まれるように城内へと歩みを進めると、大理石の回廊の先、王座の間にひとつの「封印」が存在していた。


巨大な透明な結晶。その内部に閉じ込められていたのは、一人の男だった。


漆黒の髪に、地獄の業火を煮詰めたかのような深く美しい赤い瞳。滑らかな漆黒の軍服を纏い、ただそこに存在するだけで世界そのものを圧迫するほどの、絶大な威圧感を放っている。


「……来てくれたのだな、私の愛しいくさびよ」


結晶の内部から、あの脳裏に響いていた声が直接届いた。

男の瞳が、私を捉える。その眼光に射抜かれた瞬間、私の全身の血が熱く沸き立った。


「貴方は……?」


「我が名はヴァレリウス・ノクス・インペラトール。かつてこの地上を統治し、神を名乗る光の偽善者どもによってこの地に封じられた『深淵の王』だ」


ヴァレリウスと名乗った男は、結晶の中から私を見つめ、いとおしそうに目を細めた。


「千年だ。私はこの冷たい結晶の中で、世界の移り変わりを見つめてきた。そして、我が血を分けたテネブリスの末裔が、愚かな光の王家に玩具として踏みつけにされ、命を削られる様を……ずっと胸を痛めて見ていたのだよ、エルヴィラ」


「私のことを……ご存知だったのですか?」


「勿論だ。お前が毎夜、あの血の犠牲を払い、世界の歪みを一人で支えていたこともな。お前の孤独も、絶望も、そして気高き矜持も、私はすべて知っている。……よくぞ、あの愚者どもの鎖を断ち切ってくれた。私の愛し子よ」


胸の奥が、カッと熱くなった。

今まで誰一人として認めてくれなかった。私がいかに苦しみ、いかに耐えてきたかを、誰も知ろうとすらしてくれなかった。それを、この初対面の「深淵の王」は、すべて理解してくれていたのだ。目元が熱くなり、涙が溢れそうになるのを、私は必死で堪えた。


「さあ、エルヴィラ。お前のその手で、私をこの下らない箱から引き揚げておくれ。お前の血と魔力こそが、この封印を解く唯一の鍵なのだから」


私は迷うことなく、結晶へと歩み寄った。

そして、手首の小傷から一滴の赤黒い血を滑らせ、結晶の表面へと触れさせた。


「――目覚めなさい、ヴァレリウス様」


瞬間、世界が震えた。


ドカンッ! と、凄まじい音と共に結晶が粉々に砕け散った。

解き放たれた膨大な漆黒の魔力が渦を巻き、城全体を、いや、漆黒の森全体を包み込んでいく。空を覆っていた重い雲が引き裂かれ、真紅の月が暗闇の城塞を照らし出した。


舞い散る結晶の欠片の中、ヴァレリウス様がゆっくりと歩み寄り、私の前に跪いた。

そして、私の右手を恭しく取り、その指先に深い口づけを落とした。


「感謝する、我が愛しき救世主よ。今日この時より、私の命も、この力も、すべてはお前のために捧げよう。……お前を虐げ、踏みにじった愚者どもに、どのような報いを与えたい? お前が望むなら、今すぐあの帝国を灰燼に帰してみせよう」


その申し出は、恐ろしいほどに魅力的で、そして甘美だった。

だが、私は静かに首を振った。


「いいえ、ヴァレリウス様。直接手を下す必要などございませんわ」


私は優雅に微笑み、遠く南の空――あの愚かな帝国が存在する方角を見つめた。


「私が手を汚さずとも、あの方々は自らの強欲と無知によって、自分たちの楽園を焼き尽くすでしょうから。私たちはただ、高みの見物を決め込めば良いのです。……特等席で、彼らの醜い破滅の舞踊を鑑賞いたしましょう」


ヴァレリウス様は一瞬目を見開いた後、心底愉しそうに喉を鳴らして笑った。


「くく……ハハハハ! 素晴らしい! なんと美しく、冷酷で、気高き女王なのか! 良いだろう、エルヴィラ。お前の望むままに、あの愚者どもの末路を見届けるとしようではないか!」


ヴァレリウス様は私の腰を抱き寄せ、優しく引き寄せた。

その胸の温もりに包まれながら、私はかつてない確信を抱いていた。

もう、誰も私を縛ることはできない。私は今、真の居場所と、真の理解者を得たのだから。


それから三週間の月日が流れた。


ソル・インヴィクトゥス帝国の王都は、一表面上は未だ祝祭の余韻の中にあった。

王太子ルシウスと「真なる聖女」アメリアの婚約を祝う宴は連日のように開かれ、貴族たちは贅沢を競い合い、民衆は光の教団が振りまく「永久の繁栄」の教義に酔い痴れていた。


しかし、その繁栄の皮膜は、今や破裂寸前の風船のように引き薄くなっていた。


王都の中心に聳え立つ、神聖ソル・インヴィクトゥス大聖堂。

その地下深くに位置する大結界の管理室では、数十人の高位司祭たちが、青ざめた顔で狂ったように魔導書をめくり、複雑な術式を叫び散らしていた。


「冷やせ! 結界の核を冷やすのだ! 魔力冷却陣を最大展開しろ!」

「駄目です! 光の魔力が過剰すぎて、冷却術式そのものが蒸発してしまいます!」

「アメリア様は!? アメリア様はまだお着きにならないのか!?」


絶叫が飛び交う室内は、焦吐くような熱気と不快な金属音に満ちていた。

部屋の中央に鎮座する大結界の核――かつて透明だった巨大な水晶は、今や赤黒い熱を持ち、表面全体に蜘蛛の巣のような無数の亀裂が走っていた。そこから漏れ出る不規則な光の奔流が、壁や天井を削り取り、バチバチと不気味な放電現象を引き起こしている。


「な、何事だ! この見苦しい大騒ぎは!」


バン! と荒々しく扉が押し開かれ、王太子ルシウスが姿を現した。その背後には、派手なドレスを着たアメリアが、不安そうに身を縮めて付いてきている。


「ルシウス殿下……! お許しください、しかし結界の状態が……!」


大司祭が汗だくになりながら駆け寄り、膝をついた。


「結界がどうしたというのだ! 最近、街の魔導具が暴走して火災が起きたり、貴族街の井戸水が沸騰したりしているという苦情が私のもとに届いているぞ! 全く、貴様たち聖職者は何をしている!? アメリアという素晴らしい聖女を得ておきながら、なぜこのような不始末をやらかすのだ!」

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