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【完結】私の代わりなど、いくらでもいるのでしょう? 精々、束の間の平穏を楽しんで下さい  作者: 逆立ちハムスター


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2

湿った土と、青く若い草木の匂いが鼻腔をくすぐる。

王都を囲む三重の城壁を抜け、さらに街道を北へと数日進んだ場所。そこは「ソル・インヴィクトゥス帝国」の最北端、竜骨山脈の麓に広がる旧国境地帯だった。


「ふう……ここまで来れば、もう帝国の追手も来ないわね」


私は街道の脇にある大きなオークの木の根元に腰を下ろし、深く息を吐き出した。


王都を出てから五日が経過していた。

乗合馬車と己の足を交互に使い、ただひたすらに北を目指した。目的地は、帝国と長年対立関係にある隣国「黒夜の帝国ノクス・インペリウム」との緩衝地帯に位置する自治都市、ガルダナだ。


かつての私なら、これほど長距離の移動など三日も持たずに倒れていただろう。なにしろ毎夜、命の血を削って大結界に魔力を注ぎ込んでいたのだ。歩くことすら、死の淵を彷徨うような苦痛だった。


しかし、今は違う。


胸の奥を重く締め付けていた激痛はすっかり消え去っていた。手首の傷跡は薄くなり、肌には血色が戻り始めている。何より、視界が恐ろしいほどに明るく見えた。風に揺れる葉の枚数まで判別できるほどに、私の感覚は研ぎ澄まされている。


「結界のくさびから解放されるだけで、こんなにも身体が軽くなるなんて……」


私は自分の掌を開閉させた。

指先を滑る黒い魔力が、まるで喜ぶように小刻みに揺れている。

私の魔力は、本来「破壊」や「呪い」の属性ではない。あらゆるエネルギーを包み込み、呑み込み、無に還す「終焉と安らぎ」の属性だ。だからこそ、増幅しすぎて暴走した帝国の過剰な光を中和することができた。


だが、帝国者どもはその質を理解しようとせず、「不気味な黒い魔力」と一括りにして忌み嫌った。

滑稽な話だ。自分たちの命を繋ぎ止めていた命綱を、毒蛇だと思って踏みつけにしていたのだから。


私は旅嚢から干し肉と固いパンを取り出し、小刀で薄く削いで口に運んだ。

お世辞にも美味しいとは言えない質素な食事。けれど、王宮で刺すような視線に晒されながら食べた高級料理の百倍、美味しく感じられた。


「……さて」


パンを噛み締めながら、私は懐から一枚の古びた羊皮紙を取り出した。

亡き母の遺品の中にあった、一枚の地図だ。そこにはガルダナのさらに先、竜骨山脈の深部に存在する「忘れられた館」の位置が記されていた。


母は亡くなる直前、私にこう言い残した。

『エルヴィラ。もしもあなたが王宮で居場所を失い、すべてに絶望したなら、北の漆黒の森を目指しなさい。そこにはテネブリスの真の遺産と、あなたを必要とする「真の理解者」が眠っているわ』


幼い頃は単なるおとぎ話だと思っていた。

だが今なら分かる。母もまた、この帝国の歪みと王家の強欲さを知り、私がいずれ捨てられることを見越していたのだ。


「お母様……あなたの言った通りになりましたよ。私はすべてを捨てて、ここに来ました」


空を見上げると、帝国の方角には重々しい雲が立ち込め始めていた。

だが、私が向かう北の空は、雲の隙間から澄んだ星空が顔を覗かせていた。



国境の砦を越えるのは、驚くほど簡単だった。

名目上、私は「追放身分」のはずだが、手配書すら回っていなかったのだ。おそらくルシウス殿下は、私が王都を出てすぐに途中で野垂れ死にするか、魔獣の餌になるだろうと高をくくっているのだろう。「陰気で無能な大悪女」が一人で生き延びられるはずがない、と。


傲慢さは、時として最高の隠蔽工作になる。


私は偽名「エル」を名乗り、あっさりと自治都市ガルダナへの入市許可を得た。


ガルダナは、帝国と近隣諸国の交易の要衝であり、多種多様な種族が行き交う活気あふれる街だった。きらびやかだがどこか冷たい王都の街並みとは違い、そこには泥臭くも生き生きとした「人間の生活」があった。


私はまず、冒険者ギルドへと足を運んだ。

目的は身分証の獲得と、当面の資金稼ぎだ。


「おいおい、嬢ちゃん。そんな華奢な身体で冒険者登録かい? ここは良家の令嬢が遊ぶような場所じゃないぜ」


受付の強面の大男が、私を胡乱な目で見下ろす。

現在の私は、漆黒の旅用ローブを羽織り、深くフードを被っている。しかし、そこから覗く白すぎる肌や整った顔立ちは、どうしても目立ってしまうようだった。


「身の程は弁えております。薬草の採取や、簡単な魔力の精製作業を中心に受けるつもりです」


「ふん……まあいい。登録料は銀貨三枚だ。それと、そこの『魔力測定の水晶』に手をかざしてくれ」


差し出されたのは、初級魔導士の適性を測る小さな水晶だった。

冒険者のランク付けのための形式的なものだ。

私は軽く息を吐き、魔力を最小限――本当に蚊の鳴くような、全体の数万分の一程度に抑えて水晶に触れた。


……ピキッ。


「ん?」


受付の男が目を見開いた。

透明だった水晶が、一瞬にして深い漆黒に染まり、内部からミシミシと亀裂が入ったのだ。


「……あ」


しまった。抑えすぎたつもりだったが、それでもこの市販の測定器では耐え切れなかったらしい。


「き、貴様……一体何者だ!? 今の魔力は……!」


「……すみません、手が滑って魔力が乱れてしまいました。壊してしまった分は弁償しますので、どうか内密に」


私は旅嚢から、王宮を出る際に持ち出した高品質な金貨を一枚取り出し、カウンターに滑らせた。金貨の輝きを目にした受付男は、喉を鳴らして言葉を呑み込んだ。


「あ、いや……まあ、怪我人が出たわけじゃないしな。よし、登録は完了だ。ランクはFからだが、特別に採集依頼の制限は解除しておいてやる」


「感謝いたします」


こうして無事に冒険者証を手に入れた私は、ギルドを後にし、街の高級宿屋へと向かった。


通された部屋は、フカフカの羽毛布団が敷かれた大きなベッドと、磨き上げられた調度品が並ぶ快適な空間だった。

王宮の私の部屋よりは狭いが、あそこにあったのは嫌悪と蔑視の空気だけだ。それに比べれば、ここは天国と同義だった。


「お湯が沸きましたよ、お嬢様」


宿の給仕が運んできてくれた木製の浴槽には、なみなみと温かいお湯が張られ、爽やかなハーブの香りが漂っていた。


「ありがとうございます」


私は服を脱ぎ捨て、ゆっくりとお湯に身を沈めた。


「〜〜〜〜っ」


思わず、声にならない溜息が漏れる。

温かいお湯が、疲れ切った細胞の一つ一つに染み渡っていく。

王宮にいた頃は、お風呂に入ることすら贅沢だった。地下祭壇での儀式が終われば倒れ込むように眠り、目覚めればまた儀式。自分の身体を労わる時間など、一秒たりとも与えられなかったのだから。


「暖かい……。本当に、自由になったのね……」


お湯に浮かべた自分の手を見つめる。

爪の間に詰まっていた黒い魔力の澱みはすっかり消え、桜色の健康的な爪が顔を出していた。


私はお湯を顔にかけ、これまでの人生で溜まりに溜まった垢を洗い流すように、何度も身体を洗った。

この街で少し旅の準備を整えたら、母の言っていた竜骨山脈の森へ向かおう。

そこには何があるのか。私を待つ者とは誰なのか。

恐怖はなかった。あるのは、溢れんばかりの好奇心と、未来への希望だけだった。



ガルダナに滞在して三日目の夜。

街の賑わいが静まり返り、月が天頂に達した頃、私は激しい「共鳴」を感じて目を覚ました。


「……ッ! これは……?」


ベッドから飛び起き、窓の外を見つめる。

北の空――竜骨山脈の遥か彼方から、目に見えない魔力の波動が、波紋のように広がっていた。

普通の人間や、光の魔術師には感じ取れないだろう。それは「極小の闇」を宿す者にしか届かない、深い、深い深淵からの振動だった。


『……来い……』


脳裏に、直接声が響いた。

低く、重厚で、それでいて不思議と耳に心地よい男性の声。


『我が生贄の鎖を断ち切りし者よ……。我が封印を解く鍵を持つ、テネブリスの娘よ……』


「私のことを……知っているの?」


私は胸に手を当てた。

心臓がトクン、と強く高鳴る。

その波動は、恐怖を与えるものではなく、長年探し求めていた「半身」と巡り会ったかのような、懐かしい愛おしさを孕んでいた。


私は迷うことなく、漆黒のローブを羽織り、荷物をまとめた。

朝を待つ必要はない。夜の闇こそが、私の領域なのだから。


宿屋の窓から軽やかに飛び出し、夜の街を滑るように駆け抜ける。

門番の目を魔術で眩まし、ガルダナの街を後にした。


目指すは、北の漆黒の森。

竜骨山脈の懐深くに眠る、禁忌の地。


闇の中を走りながら、私は己の内に湧き上がる魔力が、今までにないほど活性化しているのを感じていた。

これまでの「耐えるための魔術」ではない。世界を切り開くための、「解き放たれた魔術」。


「待っていて。今、行くわ」


私は誰にともなく呟き、夜の深淵へと没していった。


---


### 四、狂い始める箱庭


その頃――。

ソル・インヴィクトゥス帝国の王都は、一見すると相変わらずの平和と繁栄を謳歌しているように見えた。


王宮の大広間では、今夜もルシウス王太子と、新たなる婚約者アメリアを祝う華やかな夜会が催されていた。


「ルシウス様、見てくださいな! このドレス、ガルダナから取り寄せた最高のシルクなんですのよ!」


金髪を揺らし、無邪気に微笑むアメリア。

彼女の首元には、王家の財宝から贈られた巨大なダイヤモンドが輝いていた。


「ああ、とても似合っているよ、アメリア。あの陰気なエルヴィラが着ていたボロ布とは比べものにならない」


ルシウスは満足そうにアメリアの腰を抱き寄せ、高級な葡萄酒を飲み干した。


「本当に、エルヴィラお姉様がいなくなってスッキリしましたわ。あんな不気味な女、最初からこの王宮には必要ありませんでしたのよ」


「まったくその通りだ。追放して正解だったな。これで我が国の威信も保たれるというものだ」


取り巻きの貴族たちも、追従の笑みを浮かべて頷き合う。

「ええ、まさにその通りでございます!」

「アメリア様こそが、我が国の真の太陽!」


だが――彼らは気づいていなかった。

大広間の天井から吊り下げられた巨大な水晶シャンデリアの光が、ほんの僅かに、不規則に明滅していることに。


そして、その場にいた神殿の若き司祭――エルヴィラを冷たく追い払ったあの男だけが、額に不快な汗を浮かべていた。


(おかしい……。結界の魔力数値が、安定しない……?)


司祭は懐から、大結界の状態を示す監視用の魔導具を取り出し、こっそりと確認した。

表面の数値は「正常」を示している。アメリアが定期的に流し込む膨大な光の魔力によって、結界の強度はむしろ以前より増しているように見えた。


しかし。

魔導具の奥深くに刻まれた「限界値」のメーターが、静かに、しかし確実に赤い領域へと傾き始めていた。


「……気のせいか。アメリア様の光の魔力は完璧だ。あの闇の魔術師の女がいなくなったことで、結界がより純化されただけに過ぎない」


司祭は自分に言い聞かせるように呟き、魔導具を懐にしまって笑みを浮かべた。

「あの女の代わりなど、いくらでもいる」――そう、自分たちが下した決断が間違っているはずがないのだ。


だが、彼らが知らない真実があった。


現在、王都を包み込んでいる大結界は、中和装置を失った過熱する原子炉と同じ状態に陥っていた。

アメリアが「良かれ」と思って注ぎ込む強大な光の魔力は、相殺されることなく結界の内部に溜まり続け、逃げ場を失った熱エネルギーとなって、結界の「基盤」そのものを内側から焼き切ろうとしていた。


外壁は強固に見える。

しかし、その内部は、既にスカスカの空洞と化していたのだ。


王宮の地下深く、かつてエルヴィラが血を流していた漆黒の祭壇。

今や誰もいなくなったその暗闇の中で。


パキリ。


大結界の核をなす透明な水晶に、目視できるほどの小さな「亀裂」が入った。


それは、やがて訪れる大崩壊の、ほんの小さな序曲に過ぎなかった。


王都の人々はまだ知らない。

自分たちが踏みしめている栄光の土台が、すでに崩れ去ろうとしていることを。

そして、自分たちが追い払った「魔女」こそが、唯一の救い手であったという真実を。


真の地獄の幕が上がるまで、残された時間はあとわずかだった。

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