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湿った土と、青く若い草木の匂いが鼻腔をくすぐる。
王都を囲む三重の城壁を抜け、さらに街道を北へと数日進んだ場所。そこは「ソル・インヴィクトゥス帝国」の最北端、竜骨山脈の麓に広がる旧国境地帯だった。
「ふう……ここまで来れば、もう帝国の追手も来ないわね」
私は街道の脇にある大きなオークの木の根元に腰を下ろし、深く息を吐き出した。
王都を出てから五日が経過していた。
乗合馬車と己の足を交互に使い、ただひたすらに北を目指した。目的地は、帝国と長年対立関係にある隣国「黒夜の帝国」との緩衝地帯に位置する自治都市、ガルダナだ。
かつての私なら、これほど長距離の移動など三日も持たずに倒れていただろう。なにしろ毎夜、命の血を削って大結界に魔力を注ぎ込んでいたのだ。歩くことすら、死の淵を彷徨うような苦痛だった。
しかし、今は違う。
胸の奥を重く締め付けていた激痛はすっかり消え去っていた。手首の傷跡は薄くなり、肌には血色が戻り始めている。何より、視界が恐ろしいほどに明るく見えた。風に揺れる葉の枚数まで判別できるほどに、私の感覚は研ぎ澄まされている。
「結界の楔から解放されるだけで、こんなにも身体が軽くなるなんて……」
私は自分の掌を開閉させた。
指先を滑る黒い魔力が、まるで喜ぶように小刻みに揺れている。
私の魔力は、本来「破壊」や「呪い」の属性ではない。あらゆるエネルギーを包み込み、呑み込み、無に還す「終焉と安らぎ」の属性だ。だからこそ、増幅しすぎて暴走した帝国の過剰な光を中和することができた。
だが、帝国者どもはその質を理解しようとせず、「不気味な黒い魔力」と一括りにして忌み嫌った。
滑稽な話だ。自分たちの命を繋ぎ止めていた命綱を、毒蛇だと思って踏みつけにしていたのだから。
私は旅嚢から干し肉と固いパンを取り出し、小刀で薄く削いで口に運んだ。
お世辞にも美味しいとは言えない質素な食事。けれど、王宮で刺すような視線に晒されながら食べた高級料理の百倍、美味しく感じられた。
「……さて」
パンを噛み締めながら、私は懐から一枚の古びた羊皮紙を取り出した。
亡き母の遺品の中にあった、一枚の地図だ。そこにはガルダナのさらに先、竜骨山脈の深部に存在する「忘れられた館」の位置が記されていた。
母は亡くなる直前、私にこう言い残した。
『エルヴィラ。もしもあなたが王宮で居場所を失い、すべてに絶望したなら、北の漆黒の森を目指しなさい。そこにはテネブリスの真の遺産と、あなたを必要とする「真の理解者」が眠っているわ』
幼い頃は単なるおとぎ話だと思っていた。
だが今なら分かる。母もまた、この帝国の歪みと王家の強欲さを知り、私がいずれ捨てられることを見越していたのだ。
「お母様……あなたの言った通りになりましたよ。私はすべてを捨てて、ここに来ました」
空を見上げると、帝国の方角には重々しい雲が立ち込め始めていた。
だが、私が向かう北の空は、雲の隙間から澄んだ星空が顔を覗かせていた。
─
国境の砦を越えるのは、驚くほど簡単だった。
名目上、私は「追放身分」のはずだが、手配書すら回っていなかったのだ。おそらくルシウス殿下は、私が王都を出てすぐに途中で野垂れ死にするか、魔獣の餌になるだろうと高をくくっているのだろう。「陰気で無能な大悪女」が一人で生き延びられるはずがない、と。
傲慢さは、時として最高の隠蔽工作になる。
私は偽名「エル」を名乗り、あっさりと自治都市ガルダナへの入市許可を得た。
ガルダナは、帝国と近隣諸国の交易の要衝であり、多種多様な種族が行き交う活気あふれる街だった。きらびやかだがどこか冷たい王都の街並みとは違い、そこには泥臭くも生き生きとした「人間の生活」があった。
私はまず、冒険者ギルドへと足を運んだ。
目的は身分証の獲得と、当面の資金稼ぎだ。
「おいおい、嬢ちゃん。そんな華奢な身体で冒険者登録かい? ここは良家の令嬢が遊ぶような場所じゃないぜ」
受付の強面の大男が、私を胡乱な目で見下ろす。
現在の私は、漆黒の旅用ローブを羽織り、深くフードを被っている。しかし、そこから覗く白すぎる肌や整った顔立ちは、どうしても目立ってしまうようだった。
「身の程は弁えております。薬草の採取や、簡単な魔力の精製作業を中心に受けるつもりです」
「ふん……まあいい。登録料は銀貨三枚だ。それと、そこの『魔力測定の水晶』に手をかざしてくれ」
差し出されたのは、初級魔導士の適性を測る小さな水晶だった。
冒険者のランク付けのための形式的なものだ。
私は軽く息を吐き、魔力を最小限――本当に蚊の鳴くような、全体の数万分の一程度に抑えて水晶に触れた。
……ピキッ。
「ん?」
受付の男が目を見開いた。
透明だった水晶が、一瞬にして深い漆黒に染まり、内部からミシミシと亀裂が入ったのだ。
「……あ」
しまった。抑えすぎたつもりだったが、それでもこの市販の測定器では耐え切れなかったらしい。
「き、貴様……一体何者だ!? 今の魔力は……!」
「……すみません、手が滑って魔力が乱れてしまいました。壊してしまった分は弁償しますので、どうか内密に」
私は旅嚢から、王宮を出る際に持ち出した高品質な金貨を一枚取り出し、カウンターに滑らせた。金貨の輝きを目にした受付男は、喉を鳴らして言葉を呑み込んだ。
「あ、いや……まあ、怪我人が出たわけじゃないしな。よし、登録は完了だ。ランクはFからだが、特別に採集依頼の制限は解除しておいてやる」
「感謝いたします」
こうして無事に冒険者証を手に入れた私は、ギルドを後にし、街の高級宿屋へと向かった。
通された部屋は、フカフカの羽毛布団が敷かれた大きなベッドと、磨き上げられた調度品が並ぶ快適な空間だった。
王宮の私の部屋よりは狭いが、あそこにあったのは嫌悪と蔑視の空気だけだ。それに比べれば、ここは天国と同義だった。
「お湯が沸きましたよ、お嬢様」
宿の給仕が運んできてくれた木製の浴槽には、なみなみと温かいお湯が張られ、爽やかなハーブの香りが漂っていた。
「ありがとうございます」
私は服を脱ぎ捨て、ゆっくりとお湯に身を沈めた。
「〜〜〜〜っ」
思わず、声にならない溜息が漏れる。
温かいお湯が、疲れ切った細胞の一つ一つに染み渡っていく。
王宮にいた頃は、お風呂に入ることすら贅沢だった。地下祭壇での儀式が終われば倒れ込むように眠り、目覚めればまた儀式。自分の身体を労わる時間など、一秒たりとも与えられなかったのだから。
「暖かい……。本当に、自由になったのね……」
お湯に浮かべた自分の手を見つめる。
爪の間に詰まっていた黒い魔力の澱みはすっかり消え、桜色の健康的な爪が顔を出していた。
私はお湯を顔にかけ、これまでの人生で溜まりに溜まった垢を洗い流すように、何度も身体を洗った。
この街で少し旅の準備を整えたら、母の言っていた竜骨山脈の森へ向かおう。
そこには何があるのか。私を待つ者とは誰なのか。
恐怖はなかった。あるのは、溢れんばかりの好奇心と、未来への希望だけだった。
─
ガルダナに滞在して三日目の夜。
街の賑わいが静まり返り、月が天頂に達した頃、私は激しい「共鳴」を感じて目を覚ました。
「……ッ! これは……?」
ベッドから飛び起き、窓の外を見つめる。
北の空――竜骨山脈の遥か彼方から、目に見えない魔力の波動が、波紋のように広がっていた。
普通の人間や、光の魔術師には感じ取れないだろう。それは「極小の闇」を宿す者にしか届かない、深い、深い深淵からの振動だった。
『……来い……』
脳裏に、直接声が響いた。
低く、重厚で、それでいて不思議と耳に心地よい男性の声。
『我が生贄の鎖を断ち切りし者よ……。我が封印を解く鍵を持つ、テネブリスの娘よ……』
「私のことを……知っているの?」
私は胸に手を当てた。
心臓がトクン、と強く高鳴る。
その波動は、恐怖を与えるものではなく、長年探し求めていた「半身」と巡り会ったかのような、懐かしい愛おしさを孕んでいた。
私は迷うことなく、漆黒のローブを羽織り、荷物をまとめた。
朝を待つ必要はない。夜の闇こそが、私の領域なのだから。
宿屋の窓から軽やかに飛び出し、夜の街を滑るように駆け抜ける。
門番の目を魔術で眩まし、ガルダナの街を後にした。
目指すは、北の漆黒の森。
竜骨山脈の懐深くに眠る、禁忌の地。
闇の中を走りながら、私は己の内に湧き上がる魔力が、今までにないほど活性化しているのを感じていた。
これまでの「耐えるための魔術」ではない。世界を切り開くための、「解き放たれた魔術」。
「待っていて。今、行くわ」
私は誰にともなく呟き、夜の深淵へと没していった。
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### 四、狂い始める箱庭
その頃――。
ソル・インヴィクトゥス帝国の王都は、一見すると相変わらずの平和と繁栄を謳歌しているように見えた。
王宮の大広間では、今夜もルシウス王太子と、新たなる婚約者アメリアを祝う華やかな夜会が催されていた。
「ルシウス様、見てくださいな! このドレス、ガルダナから取り寄せた最高のシルクなんですのよ!」
金髪を揺らし、無邪気に微笑むアメリア。
彼女の首元には、王家の財宝から贈られた巨大なダイヤモンドが輝いていた。
「ああ、とても似合っているよ、アメリア。あの陰気なエルヴィラが着ていたボロ布とは比べものにならない」
ルシウスは満足そうにアメリアの腰を抱き寄せ、高級な葡萄酒を飲み干した。
「本当に、エルヴィラお姉様がいなくなってスッキリしましたわ。あんな不気味な女、最初からこの王宮には必要ありませんでしたのよ」
「まったくその通りだ。追放して正解だったな。これで我が国の威信も保たれるというものだ」
取り巻きの貴族たちも、追従の笑みを浮かべて頷き合う。
「ええ、まさにその通りでございます!」
「アメリア様こそが、我が国の真の太陽!」
だが――彼らは気づいていなかった。
大広間の天井から吊り下げられた巨大な水晶シャンデリアの光が、ほんの僅かに、不規則に明滅していることに。
そして、その場にいた神殿の若き司祭――エルヴィラを冷たく追い払ったあの男だけが、額に不快な汗を浮かべていた。
(おかしい……。結界の魔力数値が、安定しない……?)
司祭は懐から、大結界の状態を示す監視用の魔導具を取り出し、こっそりと確認した。
表面の数値は「正常」を示している。アメリアが定期的に流し込む膨大な光の魔力によって、結界の強度はむしろ以前より増しているように見えた。
しかし。
魔導具の奥深くに刻まれた「限界値」のメーターが、静かに、しかし確実に赤い領域へと傾き始めていた。
「……気のせいか。アメリア様の光の魔力は完璧だ。あの闇の魔術師の女がいなくなったことで、結界がより純化されただけに過ぎない」
司祭は自分に言い聞かせるように呟き、魔導具を懐にしまって笑みを浮かべた。
「あの女の代わりなど、いくらでもいる」――そう、自分たちが下した決断が間違っているはずがないのだ。
だが、彼らが知らない真実があった。
現在、王都を包み込んでいる大結界は、中和装置を失った過熱する原子炉と同じ状態に陥っていた。
アメリアが「良かれ」と思って注ぎ込む強大な光の魔力は、相殺されることなく結界の内部に溜まり続け、逃げ場を失った熱エネルギーとなって、結界の「基盤」そのものを内側から焼き切ろうとしていた。
外壁は強固に見える。
しかし、その内部は、既にスカスカの空洞と化していたのだ。
王宮の地下深く、かつてエルヴィラが血を流していた漆黒の祭壇。
今や誰もいなくなったその暗闇の中で。
パキリ。
大結界の核をなす透明な水晶に、目視できるほどの小さな「亀裂」が入った。
それは、やがて訪れる大崩壊の、ほんの小さな序曲に過ぎなかった。
王都の人々はまだ知らない。
自分たちが踏みしめている栄光の土台が、すでに崩れ去ろうとしていることを。
そして、自分たちが追い払った「魔女」こそが、唯一の救い手であったという真実を。
真の地獄の幕が上がるまで、残された時間はあとわずかだった。




