終焉の祈りと、道化たちの祝祭
四肢の先から血が引いていく。冷たい。氷の針を血管に流し込まれているかのような錯覚が、毎夜、私を苛んでいた。
「――ウァリス・カリーギニス、常闇の深淵に捧ぐ。我が血を以て贄とし、我が肉を以て楔と為さん。神聖なるソル・インヴィクトゥス帝国の領域を侵すべからず」
大理石の床に刻まれた複雑怪奇な魔法陣の。その中心で、私は両膝をついていた。手首に刻まれた古傷から、どろりとした赤黒い魔力が滴り落ち、溝を伝って広がっていく。それは王国の地下深く、網の目のように張り巡らされた「大結界」の核へと吸い込まれていった。
私の名は、エルヴィラ。
かつて建国の英雄の一翼を担いながらも、今や「忌むべき闇の血筋」と蔑まれるテネブリス公爵家の、唯一の生き残りだ。
このソル・インヴィクトゥス帝国は、常に外世界から押し寄せる魔獣の脅威に晒されている。それを防いでいるのが、王都を包み込む広大な大結界だ。
世間一般の愚民どもは、王家が誇る「光の魔術」が国を守っていると信じて疑わない。教会の聖職者どもは、神への祈りが奇跡を起こしていると説く。
だが、それは滑稽なほどに浅薄な欺瞞に過ぎなかった。
光が強ければ強いほど、その影には濃い闇が生まれる。王家が放つ強大すぎる光の魔術は、そのままでは国を焼き尽くし、逆に魔獣を呼び寄せる瘴気へと変質してしまう。私の役割は、その過剰な光を私の「負の魔力」――すべてを呑み込み、中和する蝕の魔術によって相殺し、結界を安定させること。
平たく言えば、私は国中の毒を一身に引き受ける「濾過器」だった。
「ふぅ……、あ、ぐ……」
魔力を限界まで吸い上げられ、視界が歪む。胃の底からせり上がる吐き気を堪え、私は自身の手首に治癒魔術をかけた。傷口が塞がる。しかし、失われた血液と、魂を削るような疲弊感は消えない。
鏡を見るまでもなく、今の私の顔は死人のようだろう。青白い肌、目の下に刻まれた濃い隈、生気を失った漆黒の髪。二十歳にも満たないというのに、まるで疲れ果てた老人のような有様だ。
「エルヴィラ様。儀式は終了いたしましたか?」
冷淡な声が、地下祭壇の入り口から響いた。
振り返ると、そこに立っていたのは神殿の若き司祭だった。白銀の法衣に身を包んだ彼は、私を見る目に隠そうともしない嫌悪を浮かべている。まるで、汚泥でも見るかのような視線。
「ええ、終わりました。今夜も結界の歪みは完全に修復されています」
「そうですか。では、速やかに退出を。間もなく、次代の『真なる聖女』様がこの部屋の清めに入られますので。あなたのような禍々しい魔力を纏った方が長居されては、神聖な空気が澱みます」
胸の奥が、凍りつくように冷めていくのを感じた。
彼らが「真なる聖女」と崇めるのは、私の異母妹であるアメリアのことだ。彼女はテネブリス家の血を引きながらも、奇跡的に「光の魔術」を宿して生まれた。金髪碧眼、愛らしく、誰からも愛される、まさに絵に描いたような聖女。
対して私は、母親譲りの漆黒の髪と瞳を持ち、不気味な闇の魔術を操る「魔女」。
この十年間、一日も欠かさず、命を削って結界を維持してきたのは私だというのに。この男も、そしてこの国の上層部も、誰もその事実を認めようとはしない。彼らにとって私は、ただ「地下室に引きこもって、不気味な呪術を行っているだけの女」なのだ。
「分かりました。お邪魔いたしましたね」
私は衣服に付いた埃を払い、ゆっくりと立ち上がった。激しい眩暈が襲ったが、壁に手を突いて何とか持ち堪える。
司祭は助ける素振りすら見せず、むしろ私が触れた壁を汚物でも見るかのように睨みつけていた。
私は小さく息を吐き出し、地下祭壇を後にした。
その足取りは重かったが、私の心は不思議なほどに静まり返っていた。
限界は、とうに超えている。
この国のために、私の人生も、若さも、尊厳も、すべてを捧げてきた。だが、返ってくるのは罵倒と蔑みだけ。
――もう、いいのではないかしら。
そんな思いが、暗い水底から浮かび上がる泡のように、私の脳裏に広がっていった。
────
地下から私室へと戻る回廊は、きらびやかな絵画や彫刻で彩られている。
すれ違う侍女や近衛騎士たちは、私を見ると一様に露骨な嫌悪の表情を浮かべ、あるいは目を逸らして、ひそひそと囁き合った。
「見ろよ、あの陰気な顔……」
「テネブリス公爵家の生き残りだろう? よくもまあ、恥ずかしげもなく王宮に居座れるものだ」
「王太子殿下の婚約者という立場にしがみついているらしいわよ。身の程知らずにもほどがあるわ。アメリア様という美しいお妹様がいらっしゃるというのに」
耳に突き刺さる言葉の数々。昔なら、胸を締め付けられるような痛みを覚えたかもしれない。だが、今はもう何も感じない。ただ、鼓膜を震わせる雑音に過ぎなかった。
私室に戻り、古びたドレスから、せめて見苦しくない程度の夜会服へと着替える。
今夜は、王宮の大広間で大規模な晩餐会が開かれているのだ。建国記念を祝うその宴に、王太子ルシウスの「婚約者」である私は、出席を義務付けられていた。……正確には、「晒し者」にするために呼ばれているのだが。
鏡の前で、私は自分の顔を見つめる。
薄く化粧を施しても、死人のような白さは隠しきれない。漆黒のドレスは私の肌の白さを余計に際立たせ、まるで葬列に向かう未亡人のようだった。
「エルヴィラお姉様!」
突如、部屋の扉が乱暴に開け放たれた。
現れたのは、眩いばかりの光を放つ少女。私の異母妹、アメリア・テネブリスだった。
彼女は純白のシルクに金糸をあしらった、華美なドレスを身に纏っている。波打つ金髪は完璧に整えられ、溢れんばかりの生命力と美しさに満ちていた。その背後には、数人の侍女たちが信者のように付き従っている。
「アメリア。人の部屋に入る時は、ノックをするものだと教わらなかったの?」
「あら、ごめんなさい! でも、お姉様があまりにも遅いから、ルシウス殿下がお怒りなのよ? 『あの陰気な女は、また暗闇に引きこもっているのか』って」
アメリアは口元を扇で隠しながら、くすくすと笑った。その瞳には、姉に対する敬意など微塵もない。あるのは、絶対的な優位に立つ者が抱く、残酷なまでの憐れみと愉悦だ。
「ルシウス殿下が……そう。なら、すぐに向かいましょう」
「ええ、そうして頂戴。でも、お姉様? その格好、まるでお葬式みたい。せっかくの祝祭の席なのに、そんな陰気な格好で来られたら、会場の雰囲気が台無しになってしまうわ」
アメリアの侍女たちが、声を殺して笑う。
「本当にございますね、アメリア様」
「まるで呪いの魔女が紛れ込んだかのようですわ」
「そうね。でも、私にはこれしか手持ちがないの。あなたたちのように、贅沢な衣装を次々と新調できるほど、我が公爵家には余裕がないものだから」
私の淡々とした言葉に、アメリアは一瞬だけ表情を強張らせた。
テネブリス公爵家の財政が破綻寸前なのは、すべてアメリアの贅沢と、それを黙認――否、推奨している王家のせいだ。私は大結界の維持に全ての時間を費やしているため、領地の経営に関わる余裕などなかった。それをいいことに、後妻の子であるアメリアとその母親が、公爵家の資産を貪り尽くしたのだ。
しかし、アメリアはすぐに傲慢な笑みを取り戻した。
「ふん、貧乏臭い言い訳。まあいいわ。今夜の主役は私とルシウス殿下ですもの。お姉様は、会場の隅で静かに壁の花にでもなっていて頂戴。あ、壁の『シミ』の間違いかしら?」
彼女はそれだけ言い残すと、高いヒールの音を響かせて去っていった。
残された静寂の中で、私は一つ、深い呼吸をした。
「ええ……。精々、今のうちに楽しんでおくことね、アメリア」
私の声は、誰に届くこともなく、冷たい部屋の空気に溶けて消えた。
────
大広間の扉が開かれた瞬間、光と熱、そして傲慢な笑い声が私を包み込んだ。
何百もの水晶のシャンデリアが天井から吊り下げられ、魔導具によって生み出された黄金の光が会場を隅々まで照らしている。集まった貴族たちは、色とりどりの衣装に身を包み、高級な葡萄酒を片手に談笑していた。
私が一歩足を踏み入れると、波が引くように周囲の会話が止まった。
そして、冷ややかな視線と、嘲笑を含んだ囁きが再び始まる。
「来たぞ、魔術狂いの長女だ」
「殿下の婚約者だというのに、あの無礼な態度。挨拶もせず、ただ突っ立っているだけか」
「アメリア様とは雲泥の差だな」
私はそれらの雑音を完全に無視し、会場の最奥、一段高くなった王族の雛壇へと視線を向けた。
そこに座っていたのは、この国の王太子、ルシウス・ソル・インヴィクトゥス。
燃えるような赤髪に、尊大さを隠そうともしない鋭い金色の瞳。生まれながらの支配者としての自信に満ち溢れた、見栄えだけは良い男だ。
彼の隣には、先ほど私を 嘲笑ったアメリアが、当然のような顔をして寄り添っていた。ルシウスはアメリアの腰に馴れ馴れしく手を回し、何事かを囁き合って笑っている。
私が雛壇の前まで進み、完璧な礼を捧げても、ルシウスはしばらくの間、私を無視し続けた。わざと私を立ったまま待たせ、周囲の貴族たちに見せ物にしているのだ。
数分が経過し、私の足の感覚が麻痺し始めた頃、ルシウスは退屈そうにグラスを傾け、ようやく私を見下ろした。
「……遅いぞ、エルヴィラ。相変わらず、祝祭の場に相応しくない陰気な面をしおって。貴様がそこにいるだけで、酒が不味くなる」
直球の侮辱。周囲の貴族たちから、くすくすと忍び笑いが漏れる。
「申し訳ありません、ルシウス殿下。身の回りの支度に手間取ってしまいました」
「フン、言い訳など聞きたくない。貴様がそうやって怠惰に耽っている間にも、アメリアは神殿で熱心に祈りを捧げ、結界の安定に貢献していたのだぞ。貴様ときたら、婚約者の地位に胡座をかき、何一つ生産的なことをせぬ穀潰しめが」
アメリアは勝ち誇ったような笑みを浮かべ、ルシウスの胸に顔を埋めた。
「まあ、ルシウス殿下。お姉様をあまり責めないであげてくださいな。お姉様には、私のような強大な光の魔力はありませんもの。お部屋でじっとしているしか、できないのですわ」
「アメリア、お前は本当に優しいな。こんな出来損ないの姉を庇うとは」
ルシウスはアメリアの髪を愛おしげに撫で、それから一転して、氷のような視線を私に突き刺した。
その瞳に宿っているのは、明確な「排除」の意志だった。
――ああ、ようやくこの時が来たのね。
私は内心で、深く、深く安堵していた。この退屈で、苦痛に満ちた茶番劇が、ようやく幕を閉じるのだと確信したからだ。
ルシウスは立ち上がり、大広間全体に響き渡る声で宣言した。
「諸侯よ、聞け! 本日、この佳き日に、私は重大な決断を下した!」
会場が静まり返る。貴族たちは、これから何が起こるかを察し、興奮に目を輝かせていた。
「テネブリス公爵家長女、エルヴィラ! 貴様は王太子の婚約者という大任にありながら、その義務を怠り、不気味な闇の魔術に傾倒して王家の威信を傷つけた! さらに、妹であるアメリアへの嫉妬から、数々の嫌がらせを行ったという報告も受けている!」
身に覚えのない罪状。おそらく、アメリアが適当にでっち上げたのだろう。真実など、この場の誰一人として興味はないのだ。ただ、私を追い落とすための大義名分があればそれでいい。
「よって、私は貴様との婚約を破棄する! 貴様のような陰気で禍々しい女は、次代の国母に相応しくない!」
どっと、会場が沸き立った。
「当然だ!」「殿下、英断です!」「魔女を追い出せ!」
罵声と歓声が入り混じり、私を包み込む。
ルシウスはさらに言葉を続けた。
「そして、新たなる私の婚約者として、テネブリス公爵家次女、アメリアを迎え入れる! 彼女こそが、我が光の魔術を支える『真なる聖女』であり、この国を導く太陽の伴侶に相応しい!」
「ルシウス殿下……! 私、お傍で全力でお支えいたしますわ!」
アメリアが感激した様子でルシウスの手を取り、二人は大衆の前で熱い抱擁を交わした。割れんばかりの拍手が巻き起こる。それはまさに、悪を排し、光が勝利した瞬間を祝う英雄譚のようだった。
その光景を、私はただ、冷めた目で見つめていた。
拍手が一段落したところで、ルシウスは私を顎でしゃくった。
「エルヴィラ。貴様は明日を以て、王都から追放とする。我がソル・インヴィクトゥス帝国の領土から立ち去り、二度とその穢れた姿を私の前に現すな。……何か弁明はあるか? 見苦しく泣き喚くなら、今のうちだぞ」
ルシウスは、私が絶望に顔を歪め、足元に縋り付いて許しを請う姿を期待しているのだろう。アメリアもまた、私の破滅を特等席で見物しようと、目を皿のようにしてこちらを凝視している。
しかし。
私はゆっくりと背筋を伸ばし、彼らの期待とは裏腹に、静かに微笑んでみせた。
「――いいえ、殿下。弁明など、何もございません」
私の声は、騒がしい会場の中で、驚くほど明瞭に響き渡った。
泣き言一つ言わない私の態度に、ルシウスは不快そうに眉をひそめた。
「……強がるな。婚約を破棄され、国を追放されるのだぞ? 貴様のような無能な女が、外の世界で一人で生きていけると思うのか? お前の代わりなど、この国にはいくらでもいるのだ!」
「お前の代わりなど、いくらでもいる」
その言葉が、私の頭の中で心地よく反響した。
ああ、本当に、素晴らしい言葉だわ。
私は心の底から湧き上がる歓喜を押し殺し、深く、優雅な一礼を捧げた。それは、王太子に対する最後の、そして最大の皮肉を込めた礼だった。
「左様でございますか。私の代わりなど、いくらでもいるのでしょう?」
私は顔を上げ、ルシウスとアメリア、そして周囲の貴族たちを一人一人、見据えた。
「ならば、何も憂うことはございませんね。どうぞ、そちらにいらっしゃる『真なる聖女』様と共に、この素晴らしい国を末永く繁栄させてくださいませ」
一歩、後ろへと下がる。
「精々、束の間の平穏を楽しんで下さい。――それでは、ごきげんよう」
踵を返し、私は大広間を歩き出した。
背後から、ルシウスの「ふん、最期まで不遜な女だ!」という忌々しげな声が聞こえたが、もうどうでもよかった。
私の歩みを遮る者は、誰もいなかった。貴族たちは、まるで疫病神を避けるかのように、私に道を譲った。
私はそのまま、一度も振り返ることなく、光に満ちた大広間を後にした。
────
王宮の最上階にある私の私室へ戻ると、私は荷造りを始めた。
荷造りといっても、持っていくものはほとんどない。数着の着替えと、亡き母の形見である古い魔導書、そしてわずかな旅費だけだ。この部屋にある豪華な家具や宝飾品は、すべて王家や公爵家からの借り物に過ぎない。未練など、ひとかけらもなかった。
窓の外を眺めると、王都の夜景が広がっている。
魔導具の街灯が美しく輝き、人々は今夜の祝祭を楽しんでいるのだろう。彼らは知らない。自分たちが拠って立つ大地が、どれほど脆いバランスの上で成り立っているかを。
「さて……最後の仕事をしましょうか」
私は床に座り込み、精神を集中させた。
私の意識は、王宮の地下深く、あの漆黒の祭壇を通り抜け、さらに深層にある「大結界の核」へと潜っていく。
そこには、巨大な水晶のような形をした魔力の塊があった。
本来であれば透明なその水晶は、今や王家が放つ過剰な光の魔力によって、内側からひび割れ、爆発寸前の熱を帯びている。それを、私の黒い魔力が外側から包み込み、優しく、しかし強固に抑え込んでいた。
「十年間、よく耐えてくれたわね」
私はその核に、そっと意識の手を触れた。
そして、私と結界を結んでいた「血の盟約」を、静かに、しかし確実に解除していった。
パキリ。
頭の中で、何かが割れるような音がした。
私の身体から、大結界へと繋がっていた目に見えない「管」が、次々と切り離されていく。
その瞬間、押し寄せていた凄まじい圧迫感から解放され、私の魂は驚くほど軽くなった。
長年私を苦しめていた、あの凍えるような寒さや、血管を焼くような苦痛が、嘘のように消えていく。
「あは……っ、本当に、消えた……」
私は自分の両手を見つめた。魔力の逆流がなくなり、肌にほんのりと赤みが戻ってくるのが分かった。私はもう、国の生贄ではない。ただの自由な一人の人間だ。
一方、主を失った大結界の核は、一瞬激しく明滅した。
しかし、完全に崩壊することはなかった。
なぜなら、神殿の司祭たちやアメリアが、私の術式を盗み見て構築した「代替の制御陣」が、自動的に起動したからだ。
彼らは、私がただ座って祈っているだけだと思い込み、「自分たちでも同じことができる」と過信していた。だからこそ、私を追放することに躊躇いがなかったのだ。
確かに、アメリアの持つ豊富な光の魔力を流し込めば、一時的に結界は維持できるだろう。
だが、彼らは致命的な勘違いをしている。
結界を破壊しようとしているのは、外の魔獣だけではない。
王家自身の「制御できない過剰な光」こそが、内側から結界を焼き切ろうとしているのだ。
闇を以て光を中和する技術を持たないアメリアが、さらに光の魔力を注ぎ込めばどうなるか。
それは、燃え盛る火に、油を注ぐようなものだ。
「私の代わりはいくらでもいる、ですか」
私は小さく笑った。
アメリアの魔力であれば、持って数ヶ月、いや、早ければ数週間というところかしら。
過剰な光によって内側から膨張した結界は、やがて臨界点を迎え、大爆発を起こすだろう。
防壁を失った王都には、外世界から「常闇の谷」の魔獣たちが、飢えた狼のように押し寄せるに違いない。
でも、それはもう、私の知ったことではない。
私は荷物をまとめた鞄を肩にかけ、部屋の扉を開けた。
夜明け前の、一番暗い時間帯。
私は誰にも見送られることなく、静かに王宮の裏口から外へと出た。
冷たい夜風が、私の頬を撫でる。
これほどまでに、空気が美味しいと感じたのはいつ以来だろうか。
東の空が、うっすらと白み始めていた。新しい一日の始まり。そして、私の新しい人生の始まりだ。
「さようなら、ソル・インヴィクトゥス帝国。私の愛した、愚かな国」
私は一度だけ王宮を見上げ、そして、二度と振り返ることはなかった。
足取りは軽く、私の心は、かつてないほどの解放感で満たされていた。
これから始まるであろう、あの傲慢な王太子と、泥棒猫の妹の破滅を思い描きながら、私は未知なる外の世界へと、最初の一歩を踏み出したのだった。




