第9話 土を育てる者
第9話 土を育てる者
朝の神域には、柔らかな霧が流れていた。
巨大樹の枝から露が零れ、湿った草が朝日を受けて銀色に光っている。遠くでは澄んだ水音が響き、花々の甘い香りが風へ溶けていた。
リリアは両手で木桶を抱え、畑の間を歩いていた。
生成り色の麻ワンピースに、深緑の前掛け。袖は肘までまくり上げられ、頬には少し土が付いている。
貴族令嬢みたいな華やかさはない。
けれど今の彼女は、昔よりずっと綺麗だった。
表情が穏やかだからだ。
「うーん……ちょっと固いかな」
リリアは畑へしゃがみ込み、土を指で掬った。
黒い土。
だが少し水持ちが悪い。
彼女は真剣な顔になる。
すると後ろから声がした。
「また土を触ってるのか」
ノアだった。
白髪を風に揺らしながら呆れた顔をしている。
リリアは笑う。
「だって大事なんです」
「果実ばかり見てると、土が疲れちゃうから」
ノアは肩を竦めた。
「神域の土は普通より遥かに豊かだ」
「それでもです」
リリアは真面目な顔で言った。
「土も生きてるんですよ」
そう言いながら、木桶の中身を広げる。
枯葉。
雑草。
砕いた枝。
そして黒っぽい腐葉土。
発酵した甘い土の匂いが漂う。
ノアが眉を寄せる。
「それ、また腐った葉を集めたのか」
「腐ってないです。育ってる途中です」
「同じだろ」
「違います!」
リリアはむっと頬を膨らませた。
その顔が少し幼くて、ノアは吹き出す。
「変な奴」
リリアは構わず作業を続ける。
雑草を細かく刻む。
腐葉土へ混ぜる。
そこへ水を加え、ゆっくりかき混ぜる。
発酵した熱がふわりと立ち昇った。
森の匂い。
雨上がりの土みたいな、落ち着く香りだった。
「これは堆肥です」
「土へ栄養を返すんです」
ノアは興味なさそうに見えて、実はじっと見ている。
「神域の植物は魔力で育つんじゃないのか」
「魔力だけじゃ駄目です」
リリアは真剣な顔をした。
「土が痩せると、植物は苦しくなるから」
彼女はそっと畑を撫でる。
優しい手つきだった。
まるで誰かを労わるみたいに。
その時、地面が小さく動いた。
「きゃっ」
土の中から、にょろりと何かが顔を出す。
ミミズだった。
太く、艶のある大きなミミズ。
ノアが露骨に顔をしかめる。
「うわ」
「可愛い!」
「どこがだ」
リリアは嬉しそうにミミズを持ち上げた。
「見てください、元気ですよ!」
「見せるな」
ノアが本気で後ずさる。
リリアはくすくす笑った。
「ミミズは土を柔らかくしてくれるんです」
「この子たちがいる土は、良い土なんですよ」
「お前、本当に変わってるな……」
リリアは嬉しそうにミミズを腐葉土へ戻した。
昔なら、こんな風に笑えなかった。
学園ではいつも怯えていた。
泥臭い。
貧乏臭い。
平民臭い。
何度もそう言われた。
けれど今は違う。
泥の匂いが好きだった。
腐葉土の温かさが好きだった。
土に触れると安心する。
それはきっと、自分も土みたいな存在だったからだ。
踏まれても。
汚いと言われても。
命を育てる側だった。
昼になると母が畑へやって来る。
「お昼できたわよー!」
木陰には昼食が並んでいた。
焼きたての白パン。
神域野菜のシチュー。
香草で焼いた川魚。
果実の砂糖煮。
湯気が立ち、香りだけで腹が鳴りそうだった。
父は豪快に笑う。
「最近、飯がうますぎて太りそうだ!」
母も笑う。
「あなた、畑仕事増えたから大丈夫よ」
リリアはパンを千切りながら微笑む。
こういう時間が、愛しかった。
誰も怒鳴らない。
笑わない。
馬鹿にしない。
ただ一緒に食べて、笑う。
それだけで胸がいっぱいになる。
食後。
リリアは再び畑へ向かった。
すると、異変に気付く。
「あ……」
炎の果実の葉が、昨日より鮮やかになっている。
星蜜葡萄の粒は透明感を増し、命樹林檎は甘い香りを放っていた。
土だ。
土壌改良が成功している。
リリアは思わず顔を輝かせた。
「すごい……!」
彼女は夢中で畑を見回る。
雑草堆肥。
腐葉土。
ミミズ混入。
水路改善。
全部が繋がっている。
植物たちは、ちゃんと応えてくれていた。
その瞬間。
大地が淡く光る。
風が吹く。
神域全体が、ふわりと呼吸したみたいだった。
ノアが静かに目を細める。
「また広がるぞ」
「え?」
次の瞬間。
地面が震えた。
森の奥へ向かって、大地が伸びていく。
草原が増える。
泉が生まれる。
花畑が広がる。
空間そのものが拡張されていく。
リリアは息を呑んだ。
神域は、土地を愛するほど成長する。
それを実感した。
ノアは小さく笑う。
「やはりお前は面白い」
「普通の人間は、神域で黄金や力を求める」
「だが、お前は雑草とミミズで喜んでいる」
リリアは照れ臭そうに笑った。
「だって、土が元気になると嬉しいから」
ノアはしばらく黙っていた。
やがて、小さく呟く。
「……神域が、お前を好きになるわけだ」
夕陽が広がる畑を黄金色に染めていた。
風が吹く。
柔らかな土の匂いが、世界いっぱいに満ちていた。




