第8話 神々の果実
第8話 神々の果実
神域の朝は、美しかった。
空は淡い金色に染まり、巨大樹の葉から朝露が零れ落ちる。風が吹くたび、花々が淡く発光し、甘い香りが草原を流れていった。
リリアは裸足で畑を歩いていた。
草が柔らかい。
露に濡れた足先がひんやりして心地いい。
薄い生成り色の作業用ワンピースに、麻布の前掛け。髪は後ろでゆるく束ねている。
王都にいた頃とは違う。
誰かへ怯えて身を縮める必要がない。
ただ土へ触れていられる。
それだけで幸せだった。
後ろから声がする。
「朝から働き過ぎだ」
振り返ると、白髪の少年――ノアが立っていた。
朝靄の中、相変わらず人間離れした美しさだった。白い髪は光を溶かしたようで、淡い灰青色の瞳は静かな湖みたいに澄んでいる。
リリアは苦笑する。
「だって気になるんです」
「昨日より葉が少し元気ない気がして」
ノアは呆れたように肩を竦めた。
「普通の人間なら気付かん」
「でも、この子たち苦しそうだったから」
リリアはしゃがみ込み、小さな苗へそっと触れた。
神域内部には、普通ではあり得ない植物が存在していた。
燃えるような赤を宿した果実。
夜空の星みたいに淡く輝く葡萄。
青白い光を纏う林檎。
神話級植物。
王国の伝承でしか語られない存在だった。
最初に見た時、リリアは目を疑った。
だがノアは当然のように言った。
「神域には神代の種が眠っている」
「お前が起こしたんだ」
その日から、リリアは毎日世話を続けていた。
土を耕す。
枯葉を除く。
水を引く。
枝を整える。
まるで小さな子供を育てるみたいに。
「おはよう」
「今日は暖かいね」
「お水いる?」
植物へ話しかけるリリアを見て、ノアは何度も変な顔をした。
「お前、本当に植物へ喋るんだな」
「え? だって、生きてますから」
「……変な奴」
そう言いながらも、ノアはどこか嬉しそうだった。
昼になると、母が籠を持ってやって来る。
「リリアー! ご飯よー!」
木陰へ敷かれた布の上には、昼食が並んでいた。
焼きたての白パン。
神域で採れた野菜のスープ。
香草入りの鶏肉。
山羊乳のチーズ。
そして、小さな果実の蜂蜜漬け。
以前の暮らしでは考えられないほど豊かな食卓だった。
父はスープを飲みながら感嘆する。
「最近、身体が軽いんだよなぁ」
母も笑う。
「肌まで綺麗になってきた気がするわ」
リリアは嬉しくなった。
大切な人が笑っている。
それだけで胸が温かくなる。
食後、再び畑へ向かう。
その時だった。
ふわり、と甘い香りが漂った。
リリアは足を止める。
「……あれ?」
風に混じる芳醇な香り。
蜂蜜みたいに甘いのに、どこか澄んでいる。
導かれるように奥へ進む。
そしてリリアは息を呑んだ。
炎の果実が光っていた。
真紅だった実が、黄金色へ変わり始めている。
まるで内部から太陽を宿したみたいだった。
隣の星蜜葡萄も淡く輝き、命樹林檎は青白い光を放っている。
空気まで変わっていた。
濃密だった。
生命そのものが溢れている。
リリアは震える手で枝へ触れる。
暖かい。
脈打っているみたいだった。
「すごい……」
思わず呟く。
すると背後から声がした。
「成熟が始まったか」
ノアだった。
彼は果実を見上げ、静かに目を細める。
「普通なら数百年かかる」
「えっ?」
「神話級植物は、人間に育てられる存在じゃない」
ノアはゆっくりリリアを見る。
「だが、お前は違う」
リリアは戸惑う。
「私、何も特別なことしてません」
「した」
ノアは即答した。
「愛した」
風が吹く。
黄金色の葉が揺れる。
ノアは静かな声で続けた。
「奪うためじゃなく、支配するためでもなく」
「ただ、育ってほしいと願った」
「そんな人間を、神域はずっと待っていた」
リリアは息を呑む。
胸の奥が熱くなる。
その時だった。
果実たちが一斉に輝いた。
眩しい金色。
光が神域全体を包み込む。
大地が微かに震える。
風が歌うみたいに鳴った。
リリアの頭へ声が響く。
『主を確認』
『神域管理権限移譲開始』
『適合率――完全一致』
リリアは目を見開く。
するとノアが静かに告げた。
「神域がお前を主と認めた」
その瞬間。
巨大樹がざわめいた。
花々が一斉に咲き誇る。
泉が金色に輝き、空気が甘く震える。
まるで世界そのものが祝福しているみたいだった。
リリアは呆然と立ち尽くした。
自分はずっと、いらない人間だと思っていた。
席がないと言われた。
泥をすすれと言われた。
平民だから価値がないと笑われた。
でも。
この世界だけは違う。
この大地は、自分を拒絶しない。
涙が滲む。
リリアは果実へそっと触れた。
暖かかった。
まるで、
「ここにいていい」
と、言われているみたいに。




