第10話 ネクタル
第10話 ネクタル
神域に、果実の季節が訪れていた。
巨大樹の枝には黄金色の実が揺れ、風が吹くたび甘い香りが流れていく。朝露を含んだ果皮は宝石みたいに輝き、畑全体が淡い光を纏っていた。
リリアは籠を抱え、果樹園を歩いていた。
白い麻のワンピース。
袖をまくり、腰には深緑の前掛けを巻いている。髪は後ろで緩く結ばれ、額には汗が滲んでいた。
収穫の最盛期だった。
炎の果実。
星蜜葡萄。
命樹林檎。
神話級植物たちは、どれも信じられないほど豊かに実っている。
父が驚いた声を上げる。
「まだあるのか!?」
「こっちもいっぱいですよ!」
母も籠を抱えながら笑っていた。
「こんなに採れるなんてねぇ」
収穫された果実は、屋敷裏へ並べられた巨大樽へ運ばれていく。
木樽は人の背丈ほどもあった。
リリアは果実を見下ろし、小さく息を吐く。
甘い香り。
濃密な生命の匂い。
ノアが後ろから言った。
「本当にやるのか」
「うん」
「神話級果実を酒にするなど、神代でも狂人しかやらん」
リリアは苦笑した。
「でも、この子たちを一番活かせる気がするんです」
彼女はそっと果実へ触れる。
柔らかい。
暖かい。
まるで鼓動しているみたいだった。
リリアはゆっくり靴を脱いだ。
白い足が草へ触れる。
父が少し慌てる。
「り、リリア?」
「大丈夫。踏み潰すのが一番早いから」
ノアが呆れた顔をする。
「お前、本当に豪快だな……」
リリアはくすっと笑った。
そして、樽へ足を入れる。
果実が弾けた。
ぷちり、と。
次の瞬間、濃厚な香りが辺りへ広がる。
甘い。
花蜜みたいに甘いのに、どこか透き通っている。
リリアは素足で果実を踏み始めた。
柔らかな果肉が足裏で潰れる。
黄金色の果汁が溢れ出す。
とろり、と光を帯びた液体が樽の中を満たしていく。
父が呆然と呟いた。
「なんだ、この香り……」
母は頬を染めていた。
「ふわふわする……」
星蜜葡萄が弾けるたび、淡い光が舞う。
炎の果実は熱を帯び、命樹林檎は清らかな香気を放つ。
神域の風がざわめいた。
まるで世界そのものが祝福しているみたいだった。
数日後。
発酵が始まる。
樽の中で黄金色の液体が静かに泡立っていた。
甘い香りが屋敷中へ満ちる。
父は毎日そわそわしていた。
「まだ飲めないのか?」
「駄目です」
「ちょっとだけ!」
「駄目です」
リリアは笑いながら樽を混ぜる。
木杓子を回すたび、光る液体がゆっくり揺れた。
ノアが横で呟く。
「神域の魔力濃度が上がってる」
「え?」
「この酒が周囲の生命力を引き上げている」
リリアは樽を見つめた。
発酵が進むほど、液体は透明感を増していく。
黄金というより、もはや液体の光だった。
そして熟成の日。
樽を開けた瞬間。
芳香が爆発した。
風が吹く。
光が舞う。
甘く、深く、どこまでも澄んだ香り。
誰も言葉を失う。
リリアは小さな硝子杯へ液体を注いだ。
とくり、と。
黄金の酒が揺れる。
それは、もはやこの世の飲み物ではなかった。
神酒。
【ネクタル】
ノアが静かに呟く。
「完成したか……」
その時だった。
神域の入口が騒がしくなる。
村人が慌てて駆け込んできた。
「た、大変だ!」
「行商人が倒れた!」
リリアたちは急いで向かう。
そこにいたのは、一人の老人だった。
豪華な服は泥まみれ。
金刺繍の上着も裂け、顔色は死人みたいに青白い。
護衛たちが泣きそうな顔をしている。
「旦那様!」
「医者を!」
ノアが眉を寄せた。
「死にかけてるな」
老人は苦しそうに喘いでいた。
息が浅い。
唇は紫色。
身体からは死臭すら漂っている。
リリアは咄嗟に叫んだ。
「ネクタルを!」
父が驚く。
「えっ!?」
「早く!」
リリアは杯を老人へ運ぶ。
護衛が怒鳴った。
「何を飲ませる気だ!」
だが老人は震える手で杯を掴んだ。
「……もう、どうせ死ぬ」
掠れた声。
そして、ネクタルを一滴飲む。
瞬間。
光が溢れた。
老人の身体が黄金色に輝く。
止まりかけていた呼吸が戻る。
皺だらけだった肌に血色が差す。
白髪が艶を取り戻す。
護衛たちが絶叫した。
「旦那様!?」
老人はゆっくり目を開ける。
その瞳には、生気が宿っていた。
「……痛く、ない」
震える声だった。
彼は自分の手を見る。
動く。
呼吸できる。
生きている。
老人――大商人ガルドは、呆然とリリアを見上げた。
「あなたが……助けたのか……?」
リリアは困ったように笑った。
「飲み物が効いただけです」
ガルドの目から涙が溢れる。
彼は震えながら地面へ跪いた。
土へ額を擦り付ける。
「この命、あなた様に捧げます」
護衛たちも慌てて跪く。
リリアは目を丸くした。
「え、ええっ!? そんな大袈裟な……!」
ノアは横で静かに笑う。
「始まったな」
「え?」
「お前の時代が」
神域の風が吹く。
黄金色の果樹が揺れた。
その甘い香りは、やがて世界そのものを変えていくことになる。




