第6話 ありがとう、最高の精神鍛錬の学園
第6話 ありがとう、最高の精神鍛錬の学園
神域に朝が来る。
淡い金色の光が巨大樹の葉を透かし、草原には朝露が宝石のように散っていた。澄み切った空気を吸い込むだけで、胸の奥まで洗われる気がする。
リリアは裸足で草を踏みながら、小さく息を吐いた。
柔らかい。
温かい。
この大地は、どこまでも優しかった。
神域が現れてから数日。
リリアの生活は一変していた。
荒れていた土地は豊かな畑へ変わり、泉には透き通った水が満ち、見たこともない果実が枝を撓ませている。
朝食の卓にも変化があった。
木の皿には焼きたての白パン。
神域で採れた黄金色の果実。
香草入りの卵料理。
湯気立つ乳粥。
以前なら冬祭りでも並ばないような食事だった。
父が何度も目を丸くする。
「夢じゃないよな……?」
母は果実を一口齧り、目を潤ませた。
「甘い……こんな果物、初めて……」
リリアは小さく笑った。
その笑顔は、学園にいた頃よりずっと柔らかかった。
けれど時折、ふと過去を思い出す。
冷たい石床。
空腹。
焼けた制服。
笑い声。
あの学園の日々。
夜。
リリアは一人、神域の丘へ座っていた。
空には満天の星。
風が銀色の草を揺らしている。
その時、不意に後ろから声がした。
「まだ苦しいか」
振り返る。
白髪の少年が立っていた。
ノア。
神域の管理者。
月光みたいな淡い瞳で、静かにこちらを見ている。
リリアは少し考えてから答えた。
「……苦しくないって言ったら、嘘になります」
ノアは黙って隣へ座った。
風が吹く。
静かな夜だった。
リリアは膝を抱え、小さく笑う。
「私、ずっと思ってたんです」
「どうして私ばっかりって」
声は穏やかだった。
けれど、その奥には積み重なった痛みが滲んでいる。
「頑張っても笑われて、努力しても踏みにじられて」
「貧乏で、平民で、それだけで駄目なんだって……何度も思いました」
ノアは何も言わない。
ただ聞いている。
だからリリアは続けた。
「でも」
彼女は空を見上げた。
星々が静かに瞬いている。
「今は、少しだけ違うんです」
「違う?」
「はい」
リリアは微笑む。
その笑顔は、どこか吹っ切れていた。
「学園での日々は、本当に辛かったです」
「貧困も、飢えも、寒さも、蔑まれることも、孤独も」
「毎日苦しかった」
声が震える。
けれど彼女は泣かなかった。
「でも、あの時間があったから」
リリアは胸へ手を当てる。
「ここに、たくさん残ったんです」
ノアが静かに問う。
「何が」
リリアはゆっくり答えた。
「愛です」
風が吹く。
「人に優しくされた時、どれだけ嬉しいか知れたから」
「喜びも」
「温かいご飯を食べられるだけで泣きそうになるから」
「平和も」
「誰にも怯えず眠れる夜が、こんなに幸せだって分かったから」
彼女の声は穏やかだった。
まるで祈りみたいに。
「辛抱強さも」
「親切も」
「善良でいたいって気持ちも」
「信仰も」
「温和さも」
「自制も」
「謙虚さも」
「謙遜も」
「感謝も」
リリアは小さく笑う。
「たくさん、育ったんです」
ノアは静かに目を細めた。
神域の風が、リリアの亜麻色の髪を揺らす。
「だから私……」
彼女は遠くを見つめた。
その瞳には、もう絶望だけはなかった。
「学園を憎み切れないんです」
翌朝。
リリアは村へ向かう荷馬車に乗っていた。
神域で採れた果実や薬草を売るためだ。
村人たちは驚きながらも、彼女を歓迎した。
「最近元気そうだな、リリア」
「綺麗になったねぇ」
市場は賑やかだった。
焼きソーセージの香り。
蜂蜜菓子。
香辛料。
笑い声。
以前は、そんな場所へ来るだけで惨めだった。
金がない。
買えない。
空腹だけ抱えて帰る。
でも今日は違う。
リリアは焼きたての肉入りパイを買った。
熱々の肉汁が溢れ、香草の香りが鼻へ抜ける。
思わず頬が緩んだ。
「美味しい……」
その瞬間。
ふと視界の端に、王都行きの馬車が見えた。
王立魔導学園の紋章。
リリアは立ち止まる。
胸の奥が少しだけ痛む。
けれど。
彼女は静かに馬車へ向かって歩いた。
そして。
深々と頭を下げた。
市場の人々が不思議そうに見る。
けれどリリアは気にしなかった。
小さく、穏やかに呟く。
「ありがとうございました」
風が吹く。
白い雲が流れる。
リリアは目を閉じた。
脳裏に浮かぶ。
冷たい床。
黒パン。
涙。
嘲笑。
焼ける痛み。
孤独。
全部。
全部、自分を壊すためのものだと思っていた。
でも違った。
あの日々が、自分の心を耕していた。
踏みにじられても腐らない心。
折れても立ち上がる心。
不撓不屈の精神。
それを手に入れた。
リリアはゆっくり顔を上げる。
翡翠の瞳は、静かに澄んでいた。
「霊の実を培うことができました」
そして、柔らかく微笑む。
「ありがとうございます」
王都の方角から吹いてきた風が、彼女の髪を優しく揺らした。




