第2話 壊された教科書
第2話 壊された教科書
王立魔導学園の朝は早い。
まだ空気に夜の冷たさが残る時間から、寮生たちは講義へ備えて動き始める。廊下には磨き抜かれた床の匂いと、厨房から漂う焼き立てパンの香りが混ざっていた。
リリアは薄い毛布から身を起こした。
平民寮の部屋は狭い。
貴族寮のような暖炉も絨毯もなく、石壁は朝になると冷気を含んで白く曇る。小さな木製机と簡素な寝台だけが置かれた部屋だった。
それでもリリアは、この部屋が嫌いではなかった。
少なくとも、一人になれる。
誰にも笑われない。
昨夜遅くまで復習していたせいで、机には開いたままの魔法理論書が置かれていた。擦り切れたページには細かな書き込みが並び、インク染みの跡がある。
努力だけが、自分の武器だった。
リリアは制服へ袖を通した。
濃紺の特待生制服。
襟元は何度も洗ったせいで少し白くなっている。胸元の銀糸もほつれかけていた。
けれど、ちゃんと整えなければならない。
鏡代わりの窓硝子に向かい、亜麻色の髪を丁寧に結ぶ。
その時だった。
コンコン、と扉が鳴る。
「はい」
小さく返事をして扉を開ける。
だが誰もいない。
廊下には朝靄の冷たい空気だけが流れていた。
不思議に思いながら足元を見ると、小さな紙切れが落ちている。
拾い上げた瞬間、リリアの顔色が変わった。
『平民は裏口を使え』
震える指で紙を握り潰す。
遠くから笑い声が聞こえた。
「引っかかったわ」
「ほんと鈍臭い」
エレナ派閥の女子たちだった。
巻いた金髪を揺らしながら、宝石付きの髪飾りを光らせて笑っている。
リリアは俯いた。
反論してはいけない。
耐えるしかない。
そう自分へ言い聞かせ、教室へ向かう。
だが席へ着いた瞬間、息が止まった。
教科書が裂かれていた。
昨夜まで大切に使っていた魔法理論書が、真ん中から乱暴に引き裂かれている。ページは水に濡らされ、インクが滲み、ぐしゃぐしゃだった。
リリアは震える手で本を持ち上げた。
紙が冷たい。
指先に水が染みる。
「あ……」
声にならない。
周囲からくすくす笑いが漏れる。
「虫でも湧いたんじゃない?」
「平民の本なんて薪以下だもの」
「臭かったしちょうどいいわ」
エレナが優雅に椅子へ腰掛けながら扇子を開く。
今日は淡い薔薇色のリボンを制服に合わせていた。香水の甘い香りが教室に漂う。
彼女はわざとらしく目を丸くした。
「あら、壊れてしまったの?」
「可哀想。でも平民には新しい本なんて買えないかしら?」
周囲が笑う。
リリアは唇を噛んだ。
買えない。
事実だった。
あの教科書は父が二ヶ月分の食費を削って買ってくれたものだ。
脳裏に父の笑顔が浮かぶ。
『学べる時に学べ、リリア』
胸が締め付けられる。
その時、教室の扉が開いた。
ジュリアスだった。
赤髪を朝日に煌めかせながら、悠然と教室へ入ってくる。高級な黒の制服には金刺繍が施され、胸元にはアルヴェイン公爵家の紋章が輝いていた。
誰もが道を開ける。
王のようだった。
ジュリアスは裂けた教科書を見下ろし、鼻で笑う。
「まだ使う気か?」
リリアは小さく答える。
「……勉強しないと、ついていけませんから」
「は」
彼は冷たく笑った。
「家畜が学問を覚えてどうする」
教室がまた笑いに包まれる。
リリアは教科書を抱き締めた。
破れた紙の端が掌に刺さる。
痛かった。
けれど、それより胸の方がずっと痛い。
午前の講義中、リリアは必死で板書を書き写した。
だが休み時間になった瞬間、ノートが消えていた。
机の中にも、鞄の中にもない。
周囲を見渡す。
誰も目を合わせない。
その時、後方から声がした。
「これ?」
女子生徒の一人が笑いながらノートを持っていた。
次の瞬間、それを窓から放り投げる。
「あっ……!」
リリアは慌てて廊下へ飛び出した。
階下の中庭。
噴水の水にノートが落ちている。
慌てて拾い上げる。
紙はびしょ濡れだった。
文字が溶け、インクが指に付着する。
ぽたり、と水滴が床へ落ちた。
周囲では貴族生徒たちが笑っていた。
「泳がせてあげたのよ」
「平民には水浴びが必要でしょう?」
リリアは何も言えなかった。
怒ったら負けだ。
泣いたらもっと笑われる。
だから濡れたノートを抱え、黙って教室へ戻った。
その日の夜。
講義を終えて寮へ戻ったリリアは立ち尽くした。
扉が開かない。
鍵が変えられていた。
「え……」
何度押しても開かない。
後ろからくすくす笑いが聞こえる。
エレナ派の女子たちだった。
「平民って鍵も持てないのね」
「犬小屋にでも泊まれば?」
「泥でも食べて寝なさいよ」
冷たい廊下。
窓の外では雨が降り始めていた。
春雨の湿った匂いが漂う。
リリアは小さく肩を震わせた。
すると寮母が現れる。
太った中年女性だった。
リリアは必死に頭を下げる。
「あの、鍵が……」
だが寮母は面倒そうにため息をついた。
「騒ぎを起こさないでちょうだい」
「でも……入れなくて……」
「貴族の皆さまに迷惑をかけるんじゃありません」
それだけ言い残し、去っていく。
誰も助けない。
教師も。
寮母も。
生徒も。
リリアは俯いた。
腹が鳴る。
夕食も抜きだった。
厨房へ行った時には、もう料理は残っていなかったのだ。
結局その夜、リリアは寮裏の小さな物置で過ごした。
藁の匂い。
湿った木材。
冷たい隙間風。
膝を抱えながら、小さく震える。
腹が空いて眠れない。
涙が頬を伝う。
その時、ふと昼間の机を思い出した。
ナイフで深く刻まれた文字。
『平民は泥でもすすってろ』
リリアは唇を噛む。
悔しい。
苦しい。
帰りたい。
でも。
それでも。
「……負けたくない」
掠れた声で呟く。
誰にも聞こえない小さな声だった。
外では冷たい雨が、静かに降り続いていた。




