第1話 泥をすする特待生
第1話 泥をすする特待生
春の朝だった。
王都アストレアの空には白い雲が薄く流れ、石畳には昨夜の雨がまだ淡く残っている。磨き上げられた白亜の塔が陽光を受けて輝き、その姿はまるで神殿のようだった。
王立魔導学園。
王国最高峰の貴族学園であり、魔法と血統こそが全てだと信じられている場所。
その巨大な正門の前で、リリア・フェルンは小さく息を飲み込んだ。
胸が苦しいほど緊張している。
両手で抱えた革鞄は、何度も補修した跡がある古いものだ。角は擦り切れ、肩紐は色褪せていた。それでも昨夜、母が丁寧に磨いてくれたおかげで少しだけ艶が戻っている。
リリアは自分の制服の裾をそっと撫でた。
濃紺の特待生用制服。
だが貴族用のものと違い、生地は薄く、飾り刺繍もない。胸元の銀糸も最低限で、陽の下では安っぽさがすぐに分かる。
それでも、リリアにとっては宝物だった。
家族総出で仕立て代を工面したのだ。
昨夜、母は泣きながら言っていた。
「立派になってね、リリア」
父は照れ臭そうに笑い、
「お前ならやれるさ」
と言ってくれた。
だから頑張ろうと思った。
怖くても。
平民は自分ひとりでも。
リリアは深呼吸し、校門をくぐった。
瞬間、空気が変わった。
香水の甘い香り。
磨き抜かれた革靴の音。
笑い声。
色鮮やかなローブ。
金糸の刺繍。
貴族令息令嬢たちが、まるで舞踏会のように華やかな姿で談笑している。
その中で、リリアだけが場違いだった。
ひそひそと声が聞こえる。
「見て、平民制服……」
「本当にいたのね、特待生って」
「うわ、田舎くさい」
喉がきゅっと縮む。
けれど俯いてはいけない。
リリアは自分にそう言い聞かせ、教室へ向かった。
一年A組。
王国中の名門貴族子弟が集う最上級クラス。
扉を開けた瞬間、教室の空気が静まった。
赤い絨毯。
大理石の床。
窓辺には白薔薇。
教室というより貴族の応接間だった。
数十人の視線が一斉にリリアへ向く。
そして次の瞬間、笑い声が起きた。
「なんだあれ」
「本当に平民じゃない」
「制服が安っぽすぎるわ」
リリアは唇を噛み、空いている席を探した。
すると、教室後方の窓際に座っていた青年が足を組みながらこちらを見た。
燃えるような赤髪。
鋭い金色の瞳。
圧倒的な存在感。
ジュリアス・アルヴェイン公爵令息。
王国でもっとも高貴な血を持つ男だった。
彼はゆっくり口角を上げる。
その笑みは、人を見る目ではない。
虫でも眺めるような冷たい目だった。
「なぜ家畜が教室にいる?」
静まり返った教室に、その声はよく響いた。
一拍遅れて、爆笑が巻き起こる。
「家畜ですって!」
「言い得て妙だわ!」
「確かに餌でも食べに来たみたい!」
リリアの顔が熱くなる。
耳の奥まで焼けるようだった。
けれど言い返せない。
もしここで騒げば、特待生資格を失うかもしれない。
家族の期待を裏切るわけにはいかなかった。
リリアは震える指を握り締め、空いていた最後列の席へ座った。
その時、隣の女子生徒が露骨に椅子を遠ざけた。
「臭いうつりそう」
また笑い声。
リリアは黙って教科書を開いた。
紙の匂いが少しだけ心を落ち着かせる。
大丈夫。
勉強しに来たのだ。
耐えればいい。
そう思っていた。
だが昼休み、その希望は簡単に壊された。
食堂へ向かったリリアは立ち尽くす。
広大な食堂には豪華な料理が並んでいた。
香草の効いたローストチキン。
湯気立つ白パン。
濃厚なクリームスープ。
焼き立ての果実パイ。
銀食器が陽光を反射し、眩しいほど美しい。
だが。
リリアの席だけがなかった。
長机には全て名前札が置かれている。
しかしどこにも「リリア・フェルン」の名はない。
周囲からくすくす笑いが漏れる。
「席ないんだ」
「平民だもの」
「床がお似合いじゃない?」
エレナ・ローゼンベルク侯爵令嬢が、扇子で口元を隠しながら優雅に笑った。
淡い金髪を巻き、美しい青いドレス風制服を纏った少女だった。
「家畜は床で食べるものでしょう?」
取り巻きたちが笑う。
リリアは息を呑んだ。
胸が痛い。
視界がぼやける。
けれど腹は空いていた。
朝から何も食べていない。
リリアはゆっくり食券を握り締め、壁際の床へ座った。
冷たい石床だった。
スカート越しに冷気が染みる。
受け取った昼食は、硬い黒パンと薄い豆スープだけ。
貴族たちの豪華な食事とは比べものにならない。
それでもリリアは両手を合わせた。
「いただきます」
小さく呟き、黒パンを齧る。
ぱさぱさしていた。
喉に刺さるように硬い。
けれど飲み込む。
その時、目の前に影が落ちた。
見上げるとジュリアスが立っていた。
彼は蔑むようにリリアを見下ろす。
「本当に食ってるのか。床で」
周囲がどっと笑う。
リリアは唇を震わせながら答えた。
「……食べないと、生きていけませんから」
その瞬間、一瞬だけ教室が静かになった。
だがジュリアスは鼻で笑った。
「そうか。なら這ってでも生きろ」
彼は踵を返し、仲間たちと去っていく。
香水の匂いだけが残った。
リリアは俯く。
ぽたり、とスープに雫が落ちる。
涙だった。
泣いてはいけない。
ここで泣けば負ける。
分かっているのに、止まらなかった。
冷たい石床の上で、リリアは静かに黒パンを齧り続けた。




