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紅迷宮の澱  作者: そこらへんの宝箱
第一部
13/20

第九話「七つになった火の輪」

その一団は、七人だった。


街を抜けて、七人は迷宮の口へ向かった。


通りは人で埋まっていた。頭の上には、赤と白と金の色布が通りの幅いっぱいに何筋も渡してあった。冬の朝の光がその布を透かして、道の上に薄い色を落としていた。祭の支度だった。


露店が両側から張り出して、道を狭くしていた。木剣や、布で作った獣の人形を並べた店もあった。呼び声が左右から重なって、そこかしこで白い息が立っては消えた。


槌の音は、その奥で続いていた。見上げると、屋根より高いところに木の組みが立ち上がりかけていて、その上で人が動いていた。


縁に飾りのついた大判の触れが、壁にも柱にも貼ってあった。どれも同じ触れだった。


子供が二人、人の脚のあいだを駆け抜けていった。前を走る子は獣の人形を高く掲げ、追う子は木剣を振りかぶっていた。二人はセラフィナの膝の脇を掠めて、振り向きもせずに人混みの奥へ消えた。


露店の並びの切れ目に、人の輪ができていた。どこの一団が選ばれるか、という賭けのようだった。一団の名がいくつか、輪の中を行き交っていた。彼女の知らない名だった。若返りの秘薬が競りに出たらいくらになるか、という話をしている声もあった。


次の主が近いらしい、と明るく言い交わす声を、彼女は短いあいだに二度聞いた。同じ言葉が、彼女の中では別の重さをしていた。


七人は、その人混みを縫うように歩いた。人の流れは七人の前で割れ、過ぎたところで閉じた。呼び声は、七人の頭の上を越えて、別の誰かへ届いた。


迷宮の口へ近づくほど、人は減っていった。色布の筋が頭の上から途切れ、呼び声が遠くなり、安宿の並ぶ一帯のいつもの静けさになった。通りのざわめきは、そこではひとつづきの遠い音になっていた。


縁の石柵の先に、降りる階段が暗がりへ続いていた。その底から、冷たい空気が上がってきた。


ヴェロが先頭で、サギッタが斥候を引いた。ウェントゥスがその後ろで、頭上に風を一つ用意していた。隊の真ん中にヴィタとセラフィナがいた。


神官が二人なら手が回る、とヴェロは前にも言っていた。手当てに向かう距離が、二人なら半分になる。


フェルラムが後ろを引き受ける位置に下がり、イグネリアがその傍についた。


七人で、迷宮の口から降りた。


一段降りるごとに、頭の上の音は薄くなった。槌の音が消え、呼び声が消え、やがて七人の足音だけになった。


一層を抜け、二層に入った。青い光の底を、七人で歩いた。苔の光が七つの影を、いつもと逆向きに地面に落とした。七つの影が草の原の上に並んで伸びた。


セラフィナはその影を見るともなく見た。見て、近い順にと数えようとした。


数えて一つ、数えに来ない影があった。来ない一つはいつも後ろにいた。後ろにいて、影を落とさなかった。


後ろの暗がりに、長い影はなかった。


二層の奥まで、七人は降りた。草の原が尽きて、光のまばらになった岩の地面に変わった。先頭はフェルラム、壁の印を辿った。


岩の壁に、剣ではない別の傷──硬いもので岩を引っ掻いたような、平行した抉りの跡が、高いところから下のほうまで伸びていた。


何度か、七人で通った場所だった。


その抉りの前で、ヴェロが足を止めた。


「ここから降りる」とヴェロは言った。「血の池の手前までだ。前に降りた道を辿る。──サギッタ、先頭。ウェントゥスは頭上に用意しとけ」


「はい」とウェントゥスが答えた。


サギッタが弦に矢を一本乗せて、暗がりへ踏み入った。七人はその後に続いた。


イグネリアがセラフィナの傍で、低く言った。


「セレナさん」


「ええ」


「あんた、また後ろ見たね」


セラフィナは、すぐには答えなかった。


イグネリアはそれ以上は訊かなかった。その後ろにいつも立っていた長い影が、もういないことにも、たぶん気づいていた。


けれど、イグネリアはその影がどこへ行ったのかを訊かなかった。彼女はただセラフィナの肩に、いつもの薄手の上着を降りる前にもう一度掛け直した。


「下は冷える」とイグネリアは言った。


それだけだった。


セラフィナは頷いた。頷きながら彼女はもう一度、後ろを見そうになって見るのをやめた。後ろの暗がりに聞こえない一つは、もういなかった。


◇◇◇


暗がりの先は、深く降りていた。


岩の地面が傾斜して下のほうへ続いていた。降りるほど空気が変わった。二層の甘いような、胸の奥が冷たくなる匂いが、ずっと濃くなった。


その濃い匂いの底に、もう一つ腐ったような匂いが混じってきた。腐ろうとして腐りきれずにいるような、奇妙な匂いだった。


その匂いを、セラフィナはもう知っていた。


前に三層へ降りたとき、その匂いは鼻の奥に張りついて離れなかった。嗅ぐたびに彼女の体の、芯のところが冷たくなった。今も、彼女はその匂いを嗅いだ。嗅いで、芯のところが冷たくなるのを待った。


待ったが、前ほどには、冷たくならなかった。


匂いは前と同じ匂いだった。腐ろうとして腐りきれない匂い。鼻の奥に張りつく匂い。それなのにその匂いが、前ほど彼女の芯を刺さなかった。鼻がその匂いに慣れていた。


慣れたということが、いいことなのかどうかは分からなかった。


降りるほど、傾斜は急になった。


足元の岩が湿っていた。一団は灯火を低く保って、二拍遅れて返ってくる自分たちの足音の中を、降りていった。光は相変わらず進まなかった。掲げた灯火が、暗がりに染み入る前に、どこかで消えた。


「足元」とフェルラムが後ろから短く言った。


降りるほど、上に戻る道が、後ろに長くなった。


セラフィナは降りながら、来た傾斜を一度振り返った。振り返ると、降りてきた道が暗がりの中へ登っていくのが見えた。登りきった先に、二層の苔の光が薄く滲んでいた。


その光は降りるほど遠くなった。降りた分だけ、戻る道は長くなった。


降りるのは、いつでも降りられた。戻るには降りてきた分を、また登らなければならなかった。降りるたびに、登る分が増えた。


降りる足は、止まらなかった。


止まる理由は、何もなかった。一団は血の池の手前まで降りる手筈だった。その手筈どおりに、七人は降りた。


降りながら、戻る道が後ろに長くなるのを誰も口にしなかった。それは、降りる者の当たり前のことだった。


降りれば、戻る道は長くなる。それだけのことだった。


ただ、その当たり前のことがセラフィナの中で、一度形になった。


降りた分は、戻る分になる。降りるほど、戻る分は増える。戻る分が増えても、降りる足は止まらない。それが、降りるということだった。彼女はその当たり前のことを降りながら、芯のところで一度確かめた。確かめてから、また前を見た。


◆◆◆


血の池の手前まで降りたところで、ヴェロが足を止めた。


そこは、岩の壁が両側からせり出した狭い場所だった。せり出した壁のあいだに、岩の根元が窪んでいた。上からも横からも、襲われにくい窪みだった。


その先に、広い暗がりが開けていた。暗がりのずっと底のほうで、何か大きなものの流れる音がした。血河の滝が、池に注ぐ音だった。落ちる音と注ぐ音が、二拍遅れて暗がりの底から返ってきた。


「ここで夜営する」とヴェロは言った。「血の池はこの先だ。──今日はここまで。明日、その先を見に行く」


七人は、その岩の窪みに身を寄せた。


ヴィタが窪みの真ん中に、小さな火を起こそうとした。火種を岩の地面に置いて、乾いた燃料を組んだ。だが火はなかなか燃え移らなかった。三層の空気が湿っていた。燃料の表面で火種が、じじと音を立てて小さくなった。


「貸して」とイグネリアが言った。


イグネリアが指先で火を生んだ。その火を、組んだ燃料の縁にそっと置いた。


火は勢いよく燃え上がりはしなかった。縁からゆっくりと焦げを作りながら広がった。燃料の真ん中のいちばん太いところは、芯を黒く残していた。


イグネリアの火はいつも、そうだった。焦がしながら、何かを残した。


火がゆっくりと燃え始めた。


七人が、その火を囲むように座った。


火を挟んで、ヴェロとヴィタが近く座っていた。ヴィタが懐から小さな紙片を取り出して、火の明かりに近づけて何か書き込んでいた。書いては、ヴェロのほうを一度見た。


ヴェロはそれに気づかず、サギッタと明日の道のことを話していた。サギッタはヴェロの言葉に、顎を引いて応えた。それきり、何も言わなかった。


ウェントゥスが兄の隣に、少し近く座り直した。サギッタはそれをされるままにしていた。妹のほうを、一度も見なかった。


火の明かりが二人の輪郭を、揺れながらなぞった。


それから火の向こうに、イグネリアとフェルラムがいた。


イグネリアが火を見たまま、フェルラムに何か言った。フェルラムは低く短く答えた。セラフィナには、その言葉は聞こえなかった。


聞こえなかったが答えたあと、フェルラムが火から目を上げてイグネリアのほうを一度見た。一度だけ見て、また火のほうへ目を戻した。


イグネリアはそれに気づいたのかどうか、火を見たまま、フェルラムのほうへ少し体を傾けていた。フェルラムは傾けられるままに、そこにいた。退きもせず寄りもせず、ただ火の傍にいた。


二人のあいだの距離は近かった。近いまま、二人はそれ以上近づきも離れもしなかった。火の明かりが二人を、薄く温めていた。


セラフィナはその火の輪を、近い順にと数え始めた。


ヴェロ。サギッタ。ウェントゥス。ヴィタ。フェルラム。イグネリア。それから、自分。


数えて一つ足りなかった。


聞こえない一つが、もう後ろにいない。


それを彼女は、火の輪の中でもう一度確かめた。確かめても、その一つは戻ってこなかった。聞こえないものは、戻ってきても聞こえなかった。ただ、後ろの暗がりにその一つが、もういないことだけが彼女の中にあった。


火の輪の外は、暗かった。


「セレナさん」


イグネリアの声が、火の向こうから届いた。


「こっち来な」


セラフィナは、火のほうへ目を戻した。イグネリアが自分の隣の、火の傍の場所を軽く叩いていた。火の明かりに近いほうの場所だった。


「あんた、また火の外見てる」とイグネリアは言った。「外は寒い。──火の傍に、いな」


セラフィナは火の傍へ座り直した。


座り直すと、火の明かりが近かった。イグネリアがすぐ隣にいた。


イグネリアはセラフィナが座り直すと、彼女の聖印の留め具に手を伸ばした。留め具の布の合わせのところを、自分の指で一度確かめた。


それから、薬包の入った袋の口を指で確かめた。最後に、肩に掛けた上着の襟元を整えた。


イグネリアは、そのあいだ、何も言わなかった。


ただ、確かめた。イグネリアの指が、留め具の合わせを結び直した。薬包の紐を結び直した。襟元を整えた。確かめながら彼女は、ときどき火の向こうのフェルラムのほうへ目を上げた。フェルラムは火を見ていた。


「これでいい」


イグネリアはそう言って、手を離した。


セラフィナは胸元の合わせの内側に、一度手をやった。布で包んだ硬さがそこにあることを、布の上から確かめて手を離した。胸元の深いところまでは、イグネリアの指も来なかった。


火が、低くなり始めた。


七人は一人、また一人と横になった。火の輪がほどけて、暗がりの中の息になった。


フェルラムの低くゆっくりとした息。イグネリアの少し浅い、けれど規則正しい息。ヴェロの息と、サギッタの息とウェントゥスの息とヴィタの息。


セラフィナはその息を、暗がりの中で聞いた。聞いて、また近い順にと数えた。数えて、足りなかった。足りないまま、彼女は目を閉じた。


イグネリアの掛けてくれた上着は、温かかった。火は低くなりながら、まだ焦げを作っていた。その焦げる火のほうへ、彼女は体を少し寄せた。


◇◇◇


夜が更けても、血の池の音は、止まなかった。


暗がりの底で、血河が池に注ぎ続けていた。落ちる音と注ぐ音が、二拍遅れて絶え間なく返ってきた。その音の向こうに、もう一つ別の音はなかった。ただ流れる音だけが、暗がりの底から上がってきた。


セラフィナは、目を開けた。


火はもう、ほとんど消えていた。芯の黒いところに、わずかに赤いものが残っていた。


その赤いものの明かりで、彼女は起き上がったフェルラムの背中を見た。フェルラムが火の傍で、鎧の留め金を一つ一つ指で確かめていた。


左の肩当ての金具のところで、彼の指はほかより少し長く止まった。止めてから、彼はその肩当てを軽く押した。位置を確かめるように。


それは彼が降りる前に、いつもする所作だった。


セラフィナはそれを見るともなく見た。フェルラムは左の肩当ての金具を、もう一度押した。それから、手を離した。


彼がその肩当てを、なぜほかの金具より長く確かめるのか。それを、セラフィナは知らなかった。彼はそれを説明しなかった。


フェルラムが、火の残りのほうを、見ていた。


イグネリアがその隣で、目を覚ましていた。イグネリアも起き上がっていた。二人は消えかけた火の傍に、近く座っていた。何も言わなかった。


ただ火の残りの赤いもののほうを見ていた。フェルラムの肩当てに、その赤いものが薄く乗った。


イグネリアの手が火に、もう一本枝を足した。火がまた、縁から焦げを作りながら、少しだけ広がった。少しだけ広がった火が二人を、また薄く温めた。


セラフィナは目を閉じた。


◇◇◇


朝が来たのかどうかは、分からなかった。


三層には、朝も夜もなかった。光が進まない暗がりは、いつまでも暗いままだった。ただ、一団が決めた頃合いに目を覚ました。


ヴェロが灯火を高く掲げた。七人はその灯火の光の中で身支度を整えた。火はもう、消えていた。芯の黒いところだけが、岩の地面に残っていた。


「行くぞ」とヴェロが言った。


七人は、岩の窪みを後にした。


血の池の手前のその先へ。広い暗がりが、灯火の光の縁の向こうに開けていた。


灯火を高く掲げても、その光は暗がりの先まで進まなかった。光が空間に染み入る前に、暗がりのどこかで消えた。


その暗がりのずっと底のほうで、血河が池に注いでいた。落ちる音と注ぐ音が、二拍遅れて返ってきた。


セラフィナは、その暗がりのほうを見た。


暗がりの先に何があるのかは、見えなかった。光がそこまで届かなかった。前に下見をしたとき、ヴェロは言っていた。


血の池の向こうから先は、黒風が出る。血の池の手前までは、死んだものがいる。骨だけになった人型。


それから、生きていた頃の戦い方を覚えているもの。それらが、この暗がりの先にいた。


その先へ、七人は降りていく。


ヴェロが、擦り切れた見取り図を、もう一度広げた。途切れた線の先へ灯火の明かりを寄せて、その線のいちばん先のあたりを指で辿った。前に自分たちで描いた線だった。途切れた先は、何も描かれていなかった。


「ここまでは描いた」とヴェロは言った。「これより先は誰も描いてない」


ヴェロは、その途切れた線の先をしばらく見ていた。それから、見取り図を巻き取った。


セラフィナは、岩の壁を一度見た。


岩の壁にフェルラムの印が点々と残っていた。剣の先で刻んだ浅い傷だった。前にここを降りたとき、フェルラムが刻んだ印だった。


その印を辿れば、来た道が分かる。来た道が分かれば、戻れる。彼女はその印を一つ、目で辿った。


辿って、その印が前に降りたときよりも、わずかに低い位置にあるような気がした。確かめようがなかった。岩の壁は暗がりの中で、どこも同じに見えた。


彼女はその気がしただけのものを追わなかった。追わないまま、また前を見た。


「セレナさん」


イグネリアが傍で低く言った。


「離れないで」


「ええ」


七人は、灯火を低く保って、暗がりの先へ足を踏み入れた。


降りた分は戻る分になる。降りるほど、戻る分は増える。セラフィナはその当たり前のことを、もう一度芯のところで確かめた。確かめて、前を見た。


前は暗かった。灯火の光はその暗がりの先まで、進まなかった。光が暗がりに染み入る前に、どこかで消えた。


その暗がりの先に、死んだものがいた。


セラフィナはその暗がりの先へ、足を進めた。背の低い影が、灯火の明かりの中で伸びた。その影の隣にもう、長い影は並ばなかった。


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