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紅迷宮の澱  作者: そこらへんの宝箱
第一部 第一幕
11/12

第七話「届かない献身」

迷宮の口の階段を、二人は途中まで降りた。


ヴェロたちとは朝、迷宮の口で落ち合うことになっていた。それまでにはまだ間があった。三層へ降りる前に、もう一度装備を見ておくとセルウィウスが言った。だから二人は人気のない、見張り台からも離れた階段の踊り場まで降りて、そこで一度足を止めた。


セラフィナは聖印の留め具を布の上から押さえ直した。


踊り場の壁の窪みに灯火を一つ掛けて、彼女は腰の荷を解いた。薬包の数を確かめ、ギルド章の木札を確かめ、それから胸元の合わせの内側に手をやって、布で包んだ祈祷書の硬さを、一度、確かめた。ミラの母の祈祷書だった。降りるたびに、彼女はそれを胸元の深いところへしまい直すようになっていた。なくさないように。誰にも見られないように。


その手つきを、セルウィウスが見ていた。


「お嬢様」


その呼び方を、彼は人気のない場所で使う。


「ええ」


「明日の三層は、血の池の、手前まで行くと、ヴェロが言っていました」


「ええ」


「その先は」とセルウィウスは言った。「まだ、誰も、戻ってきていない場所です」


セラフィナは荷を結び直す手を止めなかった。止めれば、止めたことが伝わる。彼女はその先の言葉が来るのを待った。セルウィウスは、いつものように、問われたことには答え、問われないことは口にしない。だが今、彼は、問われてもいないことを、口にしようとしていた。


「お嬢様」


セルウィウスはもう一度、そう呼んだ。


「──そのお考えは、賛成しかねます」


◇◇◇


セラフィナは灯火のほうへ目を上げた。


「どのお考えですか」


「血の池の、その先へ、降りていかれること」


セルウィウスの声は低く短かった。いつもの彼の声だった。けれど、その声の前に、いつもより、わずかに長い間があった。彼が返答までに一拍置くのは、いつものことだった。今の一拍は、いつもより、ほんの少しだけ、長かった。


「あなたは、ここまで、よく、来られました」とセルウィウスは言った。「一層を覚え、二層を覚え、いまは、三層の入り口に、立っておられる。──ここで、止めることもできます」


「止める」


「ええ」


「あなたは、私に、止まれと言うのですか」


セルウィウスは答えなかった。答える代わりに、彼は一歩、足の位置を変えた。階段の踊り場の、彼女と暗がりとの間に挟まる位置だった。一層を降りたあの日から、彼がいつも立つ位置だった。


「私は」とセルウィウスは言った。「お嬢様に、生きて、いてほしいのです」


その言葉を、セラフィナは受け取った。


受け取りながら、彼女は、その言葉が彼の本当の言葉なのかどうかを量らなかった。量れば、量ったことが、また別の何かに変わりそうだった。彼女はただ、荷を結び直す手を、もう一度動かした。


「私も」とセラフィナは言った。「生きて、いるつもりです」


「血の池の、その先へ行けば」


「行かなければ、ならない場所が、その先にあります」


セラフィナはそう答えた。答えてから、彼女は灯火のほうへ目を戻した。なぜそこへ行かなければならないのか。それを、彼女は言わなかった。言えば、それは、口の外に出た分だけ、何か違うものに、なりそうだった。だから、彼女は、行かなければならない場所がある、とだけ言った。その先は、言わなかった。


セルウィウスは、それ以上すぐには問わなかった。


◆◆◆


枢機卿の私室には、その日、届くはずのものが届かなかった。


私室には窓がない。それで構わなかった。私には、窓があってもなくても、見えるものは変わらない。代わりに、私には音が届く。昼のうちに従者が部屋へ入ってくる、その足音が、いつも、薄い紙の束を運んでくる。机の端に、その束が置かれる、ごく小さな音がする。私はその音を、いつのまにか、待つようになっていた。


その日、足音は来た。だが、薄い紙の束を置く音は、しなかった。


「届いておりません」


従者は、そう言った。


「そうか」


私は、それだけ答えた。声は、いつも通り短かった。短くしなければ、待っていたことが、伝わる。待っていたことが伝われば、待つ相手のことが、たどられる。私は、待っていなかった顔で、従者を退がらせた。


退がる足音を聞きながら、私は机の端に、白い手袋の手を置いた。そこには、いつもの薄い紙の束が、まだあった。前に届いたものだった。新しいものは、その上に重ならなかった。


遅れているのだろう、と私は思った。


便りは、いつも、決まった頃に届くわけではなかった。書く者が、書ける時に書き、運べる時に運ぶ。道中には、人の目もある。だから、一日や二日の遅れは、これまでにも、あった。あったことを、私は、自分に言い聞かせた。遅れている。それだけのことだ。明日には、届く。


私は、それ以上考えるのをやめた。


机の端の薄い紙の束は、前と同じ厚みのままそこにあった。


◆◆◆


セラフィナとセルウィウスは、踊り場でしばらく向かい合っていた。


階段の底のほうから、冷たい空気が、流れ上がってきていた。その空気の底に、あの匂いが混じっていた。腐ろうとして、腐りきれない、奇妙な匂い。三層で嗅いだ匂いだった。それが、迷宮の口の、この踊り場まで、上がってきていた。


その匂いを嗅ぐたびに、彼女の中のあの「近い」という感じが強くなった。


何が近いのか、彼女は言葉にしなかった。けれど、近いという感じは、確かに、強くなっていた。だから、降りなければならなかった。止まることは、できなかった。止まっているあいだに、その「近い」ものが、行ってしまう。行ってしまえば、彼女が、ここまで降りてきた意味が、なくなる。


「お嬢様は」とセルウィウスが言った。「奇跡を、使われる」


「ええ」


「これまで、何人も、救ってこられました」


セルウィウスは、そう言った。彼の声の前の一拍が、また、少し、長くなった。


「フェルラム殿の脚を。ヴィタ殿の腕を。──ほかにも、数えきれないほど」


数えきれないほど、という言葉のところでセラフィナの手が止まった。


数えきれない。その言葉を、彼女は自分の中で、別の数と並べた。火の輪の八人を、彼女は数えきれなかった。戦いの中の八人も、数えきれなかった。けれど、それとは別の数があった。彼女が数えきれなかったのではなく、数えても、もう届かなかった数。


「救えなかった者も、います」


セラフィナは、そう言った。


セルウィウスは、答えなかった。


「ミラと、アレクは、私の手の届く場所に、いました」とセラフィナは言った。「手を伸ばせば、触れられる場所に。それでも、私の祈りは、間に合いませんでした。──ラウィスは、ちがいました。あの人は、自分から、私の声しか届かない暗がりへ、歩いていったのです。その声さえ、届きませんでした」


灯火の光が、彼女の聖印の赤い涙滴の宝石に薄く乗った。


「いいえ」と彼女は言い直した。「間に合わなかったのでは、ありません。私の祈りより、あの子たちのほうが、先に、祈りを聞ける側から、いなくなったのです。祈りは、届きました。届いた先に、もう、あの子たちが、いなかった。──奇跡には、できないことが、あります。人を生かす力では、変えられないものが、あります」


セラフィナはそこで、言葉を、切った。


切ってから、彼女はその先を、考えるのをやめた。なぜ救えなかったのか。なぜ、ある者には届き、ある者には届かないのか。それを考えようとすると、それが、何か、別の、もっと暗いものに変わりそうだった。だから彼女は、ただ、救えなかった、とだけ言った。その理由は、追わなかった。


「だから」と彼女は言った。「私は、降ります。私の手が、救える者を、救うために。──救えなかった者の、ぶんまで」


◇◇◇


セルウィウスは、しばらく何も言わなかった。


彼の目が、踊り場の床に解かれたセラフィナの荷のほうへ、一度動いた。薬包の包み。ギルド章の木札。それから、胸元の合わせの内側に彼女がしまった布の包み。彼の目は、その包みのあたりで、ほんの一拍、止まった。


止まってから、彼は目を灯火のほうへ戻した。


「お嬢様」とセルウィウスは言った。「お荷物が、軽くなりましたね」


「軽く」


「以前より。──持ち物を、減らしておられる。なくしては、困るものだけを、深くしまって。それ以外は、置いてこられた」


セラフィナは、彼の言葉にすぐには答えなかった。


彼の言うとおりだった。彼女は近頃、荷を減らしていた。一層を降りていた頃は、もっと多くを背負っていた。換えの法衣も、多めの薬包も。今は、なくしては困るものだけを胸元の深いところへしまい、それ以外を宿に置いてくるようになっていた。なぜそうするのか、彼女は自分でも、はっきりとは考えていなかった。


「身軽なほうが」とセラフィナは言った。「動きやすいので」


「ええ」とセルウィウスは言った。


彼は、それ以上は、その荷のことを言わなかった。問われないことは口にしない。彼は、また、説得の言葉に戻った。


「お嬢様」とセルウィウスは言った。


その声の前の一拍が、また、伸びた。さっきより、長かった。一拍が伸びるたびに、彼の言葉は、少しずつ痩せていくように、彼女には聞こえた。


「ルシアン様は」とセルウィウスは言った。「お嬢様の、ご無事を、願っておられます」


その名を、彼は、出した。


◇◇◇


セラフィナは、灯火のほうから彼のほうへ目を戻した。


ルシアン様。その名を、彼は説得の言葉の、いちばん最後に置いた。これまで、彼はその名を、めったに口にしなかった。問われたことには答え、問われないことは口にしない。その名は、問われなければ出てこなかった。今、彼は、問われてもいないのに、その名を出した。出して、それを、彼女を止めるための最後の言葉にした。


セラフィナの中で、何かが、静かになった。


決意が試されると、彼女は静かになる。ラウィスたちを看取った後の朝も、彼女は静かだった。二層の血河の岸辺で、フェルラムが「来るな」と言ったときも、静かだった。今も、彼女は静かになった。静かになった中で、彼女は、その名を受け取った。


「あの方は」とセラフィナは言った。「私に、止まれと、おっしゃったのですか」


「いいえ」


「では、あなたが、あの方の名を、出したのですね」


セルウィウスは、答えなかった。


答えない、ということが、答えだった。彼は、あの方の名を、自分の判断で出した。あの方が止まれと言ったから出したのではなく、彼女を止めるために、あの方の名を盾にした。


「あなたは」とセラフィナは言った。「あの方のために、私を、止めようとしている」


「ええ」


「私も」と彼女は言った。「あの方のために、降りています」


その言葉が口の外に出てしまったことに、彼女は、半秒遅れて気づいた。けれど、出てしまった言葉を彼女は引き戻さなかった。引き戻せば、引き戻したことが伝わる。だから彼女は、その言葉を、出したまま置いた。


なぜ、あの方のために降りるのか。それは、言わなかった。


あの方のために、とだけ言って、その先は言わなかった。その先を言えば、それは口の外に出た分だけ薄まる。あるいは、もっと悪いことに、別の誰かの耳に届く。届けば、あの方のための降下が、あの方を危うくする。だから彼女は、あの方のため、とだけ言って、その「あの方」が誰なのかも、なぜなのかも、言わなかった。


「同じ、あの方のために」とセラフィナは言った。「あなたは、私を止め、私は、降りる。──正反対のことを、しているのですね。私たちは」


セルウィウスは、その言葉を、聞いた。


聞いて、彼の声の前の一拍が、これまでで、いちばん長くなった。


◇◇◇


「お嬢様」とセルウィウスは、その長い一拍のあとで言った。


「私の役目は、お嬢様を、お止めすることです」


「ええ」


「ですが、お止めできないことも、わかっております」


その言葉を、セルウィウスは低く言った。彼の声には、咎める色も、説き伏せる色も、なかった。ただ、わかっている、という、それだけの声だった。彼は彼女を止められないことをわかっていた。わかっていて、なお、止めようとしていた。


「それでも」と彼は言った。「私は、お止めします。──それが、ルシアン様の、御意ですから」


御意。その言葉を、彼は、最後に置いた。


セラフィナは、その言葉を受け取った。受け取りながら、彼女は、その御意という言葉の、その下に、何があるのかを量らなかった。彼が、なぜ、こんなにも彼女を止めようとするのか。御意、というその一語で、彼が、何を包んでいるのか。それを、彼女は、開けて見ようとは、しなかった。開ければ、開けたものが、また別の何かに変わりそうだった。


彼女は、ただ、その御意という蓋を、蓋のまま受け取った。


「ありがとう」とセラフィナは言った。


その言葉に、セルウィウスは虚を突かれたように、一瞬口をつぐんだ。


「あなたが、私を止めようとしてくれること。それを、ありがたく、思います」とセラフィナは言った。「けれど、私は、降ります。あなたが、御意のために私を止めるように、私も、私の理由のために、降ります。──あなたには、止められません。あなたが、それを、わかっているように」


セルウィウスは、答えなかった。


答えないまま、彼は、彼女の荷のほうを、もう一度見た。胸元の合わせの内側にしまわれた、布の包みのほうを。それから、彼は目を灯火のほうへ戻した。戻して、彼は軽く頭を下げた。


「──わかりました」


その返事は、ひと呼吸だけ、遅れた。遅れたのは、彼女の答えが意外だったからではなかった。彼は、その答えを、たぶん、この踊り場へ降りてくる前から、もう、予期していた。その間は、彼が自分の中で、その答えと、自分の役目とを、もう一度整え直すための間だった。


整え直してから、彼はもう一度頭を下げた。


「お荷物の、確認は、お済みですか」


「ええ」


「では、宿へ。──明日は、早くから、降ります」


セルウィウスは、それだけ言って、踊り場の灯火を壁の窪みから外した。説得は、終わった。彼は、それ以上、何も言わなかった。問われないことは、口にしない。彼は、また、いつもの彼に戻った。


セラフィナは、胸元の合わせの内側にもう一度手をやった。


布の包みの、小さな硬さを、布の上から、一度だけ指で確かめた。ミラの母の祈祷書だった。ミラが、妹に渡してほしいと言ったもの。お父さんには秘密にして、と言ったもの。お姉ちゃんになれと言われた、なれないかも、と、半分だけ言って止まったもの。それを、彼女は、胸元の深いところにしまったまま降りていく。


妹に渡すには、地上へ上がり、その家を訪ねねばならない。名を変えて生きる彼女には、それができなかった。彼女が訪ねることは、その家を彼女の事情に巻き込むことだった。だから祈祷書は、渡されないまま、彼女の胸にあった。


救えなかった者の、遺したものを、胸に。救える者を、救うために。


セラフィナは、聖印の留め具を握り直した。


それから、踊り場の階段を、一段上り始めた。男の長い影が、その斜め後ろに並んだ。明日、また、降りる。今度は、血の池の、手前まで。そして、いつか、その先まで。


◆◆◆


便りは、二日遅れて届いた。


従者が、薄い紙の束を、机の端に置いた。その音を、私は聞いた。聞いてから、私は、しばらくその音のしたほうへ手を伸ばさなかった。伸ばせば、待っていたことが自分でもわかってしまう。わかってしまえば、それは、ただの待ち時間ではなくなる。


私は、従者を呼び読ませた。


報告は、淡々としていた。妹は無事だ。体調も崩していない。仲間と組んで、降り続けている。これまでと、同じだった。何も、変わっていなかった。私は、それを、聞いた。聞いて、息を、ひとつ、整えた。胸の奥が、いつものように、わずかに重い。長く待つと、ここが、軋む。


無事だ、と私は思った。


思ってから、私は、その紙の上の、もう一つのことに気づいた。便りには、いつも、書かれた日が記されていた。何月の、どのあたりに書かれたものか。私は文字を読めないが、従者がそれを、いつも最初に読み上げる。その日付が、私の覚えていたものより古かった。


私は、それを二度読ませた。


二度目も、同じだった。便りに記された日は、思っていたより前の日だった。書かれてから、私の手に届くまでに、思っていたより長くかかっていた。無事だ、と便りは言う。だが、その無事は、今の無事ではなかった。便りの記された、その日の無事だった。その日から今日までのあいだ、妹が、どうしているか。それは、この便りには書かれていなかった。書かれようがなかった。便りは、書かれた日までしか知らない。


私は、机の端の薄い紙の束の上に白い手袋の手を置いた。


指の腹に、紙の薄さが伝わった。前に届いたものの上に、今、新しい一枚が重なっていた。重なって、束は、少しだけ厚くなった。けれど、その厚みは、過去の厚みだった。いちばん上の新しい一枚さえ、もう過去のものだった。


無事だったのだ、と私は思い直した。


二日遅れたのは、道中の事情だろう。書く者が、書ける時に書き、運べる時に運ぶ。そのあいだに、人の目を避け、道を選ぶ。だから、遅れることもある。これまでにも、あった。これは、ただの、遅れだ。私は、そう思おうとした。


思おうとして、うまく、いかなかった。


◇◇◇


次の便りは、もっと遅れた。


前のときは、二日だった。今度は、四日だった。その次は、六日だった。私は、便りと便りのあいだの日を、数えるようになっていた。アウグスティーノとの茶の間を、私はかつて数えたことがあった。三つ、と数えたあたりで、声が落ちる。今度は、茶の間ではなく、便りと便りのあいだの日を、数えた。一つ、二つ、と数えていって、その数が、前より伸びているのが、わかった。


二日が四日になり、四日が六日になった。


それだけのことだ、と私は思おうとした。便りの遅れには、いろいろな理由がある。妹は、一つの場所に留まらない。深いところへ降りていく。妹が、自ら、見えない場所を探しているのだ。誰の目にも触れない場所を。私が、それを掴めずにいるのも、妹が、掴ませまいとしているからだ。だから、便りも遅れる。それは、妹が、無事に、隠れている、ということでもある。


そう、思おうとした。


けれど、数えてみると、その伸び方には、何か、規則のようなものがあった。二日、四日、六日。一つずつ、同じだけ伸びていく。偶然の遅れなら、不揃いになるはずだった。ある時は遅れ、ある時は早く。それが、揃って伸びていく。


偶然だ、と私は思った。たまたま、揃って見えているだけだ。私は、便りを待ちすぎている。待ちすぎていると、いろいろなものが、揃って見えてくる。それは、待つ者の、目の、ぼやけ方だった。私は、このところ、よく眠れない。眠れぬ夜が続くと、いろいろなものが、ぼやけて感じられる。きっと、そういうことだ。


きっと、そういうことだ、と私はもう一度自分に言った。


言いながら、私は、揃って伸びていく数を頭の中から追い出しきれなかった。


◇◇◇


ある夜、便りがひどく遅れた。


前の便りから、もう、ずいぶんになった。次が、来るはずの頃を過ぎていた。過ぎても、来なかった。私は、私室で、机の端の薄い紙の束の上に手を置いて、待っていた。待っていることを、私は、自分に認めていなかった。ただ、机の傍にいた。机の傍にいる理由が、ほかにあるようなふりをして。


私は、立ち上がりかけた。


立ち上がって、人をやろうかと思った。妹のいるあたりへ、人をやって、無事を確かめさせようかと。立ち上がりかけて、私は、その手前で座った。動けば、妹を晒す。私が誰かを捜していると知れれば、向こうの目が、私の手の先をたどって、妹に届く。今、向こうが妹に届いていないのは、私が、動かずにいるからだ。私が、座っているからだ。


座る、というのは、何もしないことではなかった。


座っていることは、毎日、選び直さなければならなかった。立ち上がりたい、という気持ちを、毎晩、座らせる。それが、私の、唯一の、守り方だった。私は、座ったまま、机の端の薄い紙の束に手を置いていた。前に届いたものだった。新しいものは、まだ、その上に重なっていなかった。


私は、その薄い紙の束を引き寄せた。


いちばん上の一枚を、私は、指でたどった。文字は、読めない。だが、私は、その一枚のどこに、何が書かれているかを覚えていた。従者が、何度も読み上げたから。妹の本当の名は、そこにはない。報告には、妹の本当の名は使わない。偽りの名が、紙の上に、妹の代わりに置かれている。その偽りの名のあたりを、私は、指の腹で、一度なぞった。


なぞっても、その名は読めなかった。


文字は、私の指の下で、ただの紙の凹凸だった。何の形も結ばなかった。私には、それが、妹の名でないことしかわからない。偽りの名であることしか。その偽りの名が、いま、どこにいる妹を指しているのか。それは、この紙には書かれていない。書かれていても、私には読めない。


私は、指を紙から離した。


なぞっても、届かなかった。私が、ここで、妹の無事を案じていることも、便りの遅れを案じていることも、何も、妹には届かない。届かない場所で、私は、指で、読めない名をなぞっている。


封蝋の刻みは、正しかった。


私は、その刻みを、指で確かめた。蝋の表面の、小さな刻み。私と、もう一人のあいだだけで決めた、印。それは、いつものとおり、正しかった。形も、深さも、変わっていなかった。この糸は、まだ、生きている。便りは、まだ、届く。印は、正しい。


正しいのに、私は、安心できなかった。


なぜ、安心できないのかが、私にはわからなかった。便りは届く。印は正しい。妹は、便りの中で、無事だった。何も、変わっていない。何も、変わっていないのに、私の指の下で、何かが、わずかに、いつもと違っていた。違っている、というその感じも、確かめようがなかった。私は、目を覆っている。文字も読めない。違っているのが、便りなのか、糸なのか、それとも、ただ、私の、ぼやけた感じ方なのか。判じる手立てが、私には、なかった。


私は、その手を薄い紙の束の上に、しばらく置いたままにした。


私は、自分が間違った形を信じることを、恐れていた。


◇◇◇


机の上の薄い紙の束は、前より少しだけ厚くなっていた。


遅れながらも、便りは、届き続けた。届くたびに、私は、その一枚を、束の上に重ねた。重ねるたびに、束は、厚くなった。けれど、その厚みは、私を安心させなかった。厚くなる束の、いちばん上の一枚は、いつも、過去の無事だった。重なった過去が、厚くなっていくだけだった。


新しい一枚は、束のほかの紙より、薄かった。気のせいかもしれなかった。けれど、指の腹で量ると、その一枚は、前のものより、わずかに薄いように思えた。書かれたことが、少なかったのか。それとも、書く者が、ますます慎重になって、短くしたのか。多くを書けば、奪われたときに、多くが漏れる。短さが、書いた者の、慎重さだった。きっと、慎重になっただけだ。私は、そう思おうとした。


薄い一枚を、厚い束の上に重ねて、私はその上に、白い手袋の手を置いた。


指の腹に、束の厚みが伝わった。幾月もの便りが、その厚みに畳まれていた。厚くなった束の重さは、たしかに私の手のひらの下にあった。けれど、その重さの上で、いちばん新しい一枚の、薄さだけが、私の指に残った。厚い束の、いちばん上の、いちばん薄い一枚。それが、いまの、妹だった。


私は、その手をしばらく動かさなかった。


片づける、ということは、しなかった。明日も、その糸は生きているだろう。明後日も。便りは、まだ、届く。遅れながら、薄くなりながら、それでも、届く。届いているうちは、妹は、無事なのだ。あの日の、無事なのだ。私は、その、あの日の無事を、束の上で間遠に受け取り続ける。それが、いまの私にできることだった。


布の下で、私は、目を閉じた。


閉じても、開けても、見えるものは変わらない。妹の行き先が、見えないことも。便りが、なぜ、遅れていくのか、わからないことも。正しい印が、なぜ、安心させてくれないのか、判じられないことも。見えないものを、私は、背負っていく。


机の端の厚くなった束の、いちばん上の薄い一枚に、私はもう一度手を置いた。


それきり、手を、動かさなかった。

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