白い引き紐
あれから、何事もなかったかのように日常が戻った。
アルトは以前と同じように迷宮の土を踏んでいる。
ひんやりと湿った空気が、肌を通して伝わってくる。
かつて窮地で自分を見捨てた連中と一緒ではない。
今は、ギルドで声をかけ合っただけの、素性を知らない即席の仲間たちだ。
彼らも窮地になれば自分の命が大切だろう。だから、互いに無理はしない。
自分は、自分で守る。
道中の会話は一つもないまま、延々と洞内に響く、不揃いな足音が耳障りだった。
今回受けたのは、比較的安全と言われる上層での鉱物採掘。
実入りは少ないが、今のアルトにはそれくらいが丁度よかった。
慎重に、慎重に行く。それだけでいい。
胸に手を当て、深く、ゆっくりと呼吸する。
かつて赤く染まった記憶を振り払い、アルトは迷宮の中へと歩みを進めていく。
近くに下位の空飛ぶ魔物が何匹か天井付近を飛んでいた。
最悪、それらに牙をむかれたとしても、噛みついて、血を吸うくらいしか攻撃手段はない。
仲間たちも気にすることなく、淡々と鉱物の採掘を続けていた――
そんな時だった。
「……っ!」
大気を切り裂く鋭い風切り音。
振り返った時に目の前にいたのは、小さな赤い体の魔物。
肩で息をして浮いている。
その小さい手が握りしめた、予想もしなかった刃が、アルトの背中を捉え、そのまま右足へと食い込んだ。
よりにもよって、あの時と同じ場所――右足。
「かぁぁぁぁーーーーっ!」
塞がっていた傷口が割け、血が噴き出す。
一拍遅れて、えぐられるような痛みが全身を駆け巡り、喉の奥から勝手に声が出てしまった。
慎重に、慎重にと繰り返しても、予測不能の凶刃には全く無意味だった。
地面に落ちた錆びだらけの刃を恨めしく見つめた。
結局、その日は誰からも手を差し伸べられなかった。
そして、アルトは一人で血を止めるので精いっぱいで、それ以上の採掘はできなかった。
◇◇◇
「これで、全部か?」
同行した仲間のひとりが、銀貨を受け取って無愛想に言った。
「ああ……。悪い、俺のせいで……」
アルトは掠れた声で謝罪を口にする。
魔物の不意打ちで負傷したアルトを連れての帰還は、予定を大幅に狂わせた。
採掘の時間は削られ、成果は明らかに少ない。
公平に分配された銀貨をそれぞれ手にすると、労いの言葉ひとつなく、夜の闇へと次々と消えていった。
アルトは震える手で、残りの銀貨を数える。
次の採掘に行ける日までの宿代と食事代を考えると、足りない。
これでは、聖女様にお返しができない。
じくじくと疼く右足の傷を手で押さえる。
しばらく採掘は無理だろう。
ギルドの待合室で、アルトは一人、うなだれていた。
◇◇◇
アルトは杖を突き、血のついた足を引きずりながら、修道院へと向かった。
夕闇に高くそびえる白い石造りの門。
それだけでも神聖で、近寄りがたく見える。
「あの……、以前、クラリア様に助けていただいた者ですが」
門に立つ巨漢の聖騎士に伏し目がちに、やっとの思いで告げた。
「またケガをしたのか」
聖騎士は手慣れた感じでアルトを持ち上げ肩で背負う。
突然担ぎ上げられ、アルトの視線は地面に釘付けになった。
そのまま運ばれたのは、薄暗い廊下の先にある、隣を布一枚で仕切っただけの簡素な小部屋。
「特別だぞ。じゃあな」
アルトは小部屋にある粗末な寝台に降ろされた。
アルトが見上げた時には聖騎士は背中を向けて去っていく。
「ありがとうございます」
聖騎士は肩の上で人差し指と中指を動かし、アルトに合図するように消えた。
アルトはそのまま、しばらく待った――
そして、部屋に入ってきたのはまだ幼さの残る無表情な子供だった。
子供は言葉もなくアルトの前に膝をつくと、右足を縛っていた血まみれの布を手早く解いていく。
「聖女様、直々の治療を受けたんですね」
傷跡に残る、クラリアの治療痕を感じ取ったのだろう。
「はい……。あのお礼は、必ず、次の依頼で……」
アルトが自分に言い聞かせるように言葉を紡いだが、子供は短く首を傾げただけだった。
そのまま無造作に、幼い掌を傷口にかざす。
クラリアの手から感じた、あの全身を包み込むような多幸感はない。
ただ、じわじわと這い回るような、こそばゆい感触が、アルトの傷口をゆっくりと塞いでいった。
「とりあえず、歩けるはずです。また傷口が開くかもしれないので、しばらくはムリをしないでください」
そう言いながら、子供は新しい包帯を巻き直していく。
(気にしないで……)
あの時、クラリアが浮かべた柔らかな微笑みを思い出し、今の惨めな心を無理やり上書きしようとした。
それでも、新しく巻かれた真っ白な包帯を見つめると、息が詰まる。
その包帯は、返せない恩義で自分を縛る足輪のようだった。




