赤い福音
迷宮の中層――そこは、冒険者のアルトたちにとって行き慣れた場所だった。
揺らめく松明の火がなければ、目の前は見えない。
冷たい静寂の中、時折、土壁から滴る水の音が「ピタッ」と、どこからともなく響く。
アルトは先頭を歩きながらも、特に警戒していなかった。
「シュルルルッ――!」
突然、頭のすぐ上を何かがかすめ、風が後ろへと通り抜けていく。
反射的に足を止め、背後を振り返った。
そこには、闇に浮かぶ小さな赤い影がさらに小さくなっていくのが見えた。
あんな小さな魔物は見たことがない。
ちょっとした違和感を覚えたが、ここは中層。
油断しなければ、傷一つなく戻れる――そう思っていた。
再び歩き出そうとした、その時。
「ドゥン!……ドゥン!……ドゥン、ドゥン!!」
遠鳴りしていた重い音は、すぐに体を揺らすほどの地鳴りへと変わった。
何かがこちらへ猛スピードで向かってくる。
「おい! アルト!! 戻るぞ!!」
後ろから、仲間の大きな声が飛ぶ。
「あ、ああ……分かってる!」
その声に我に返ったアルトはすぐに返事をして、駆け出そうとした。
しかし、反射的に、正面の闇に目を向けてしまった。
それが失敗だった。
「……」
視界を埋め尽くしたのは、圧倒的に大きな闇。
逃げる時間、抗う方法がない。
先頭に立っていたアルトの身体は、正面から来たソレに巻き込まれてしまった。
アルトはその色すら確認できなかった。
◇◇◇
目の前が、赤く染まっている。
額を伝う熱い感触。
なぜか、右足が思うように動かせない。
まさかと思い、目で確認すると右足はつながっている。
一瞬、ホッとしたが、脇腹が内側から刺されるように疼く。
「ん、んん……」
できれば、一歩も歩きたくない。
しかし、もし、ソレが戻って来れば命はない。
震える赤い右手で土壁を押さえながら、入り組んだ死角へと移動した。
両手で土壁の土を握りしめ、拳を少しずつ下げて、ゆっくりと腰を下ろす。
あと少しで腰が地面につくところで力が尽き、無様に尻もちをついてしまった。
脇腹を強くエグられるような熱い衝撃。息が止まる。
「んあっ……」
仰向けのまま、ひきつった呼吸を繰り返して天井を見つめる。
脇腹の機嫌が直るのを待つが、収まる気配はない。
それどころか、脇腹が激しい癇癪を起こし出し、抗いきれずに意識を失った――
もうどれくらい時間が経ったか、わからない。
遠くで、足音が聞こえた気がした。
視界は赤黒くぼやけて、よく見えない。
ただ、ソレの豪快で目まぐるしい足音とは違う。
このままでは気づいてもらえない。
仰向けのまま、少しずつ、這い出すように、体を通路側へとずらす。
頭の半分だけが通路に出てしまったところで、力尽き、再び意識を失ってしまった――
◇◇◇
迷宮の中で、鎧が擦れるいくつもの音がほぼ同じリズムを刻んでいる。
一行は迷宮内に点在する「聖なる泉」の浄化を終え、帰路についていた。
「前方に何かあります!」
先頭の聖騎士が右手を上げ、一行を制止する。
生首が床に転がっているように見える。
単身で慎重にすり足で近づいていき、周辺を照らすと、胸をなでおろした。
通路に頭部だけがはみ出ており、死体ではないと分かった。
「大丈夫です!」
辺りの安全を一通り確認してから、一行に声を上げると、改めてしゃがんで頭部から脚まで照らす。
「まだ、若い冒険者のようですね」
止まっていた一行が歩み寄ってくる。
聖騎士たちの間を抜け、光を纏う純白の衣に身を包んだ聖女が顔を出した。
「あら。どうしたの?」
一行の中から、凛とした、しとやかで甘い声が響く。
土だらけ、血や汗でまみれて倒れている冒険者の首元に、彼女はためらいなく白い指で触れた。
しっかりとした脈動を確認すると、冒険者の胸を覆っていた布を自ら強引に左右に引き裂いた。
そして、あらわになった左胸の上に手を当て、静かに目を閉じた。
迷宮内が柔らかな白光で満たされる――
その光は彼女の手の下で一つの塊となって、しばらく輝いた後、一瞬光が強くなって消えた。
◇◇◇
アルトは顔に時折触れる髪の毛先で目を覚ました。
それまで迷宮内を支配していた冷たく重い空気が、彼女がかざした手によって、温かな空気に変わり、全身を包み込む。
じんじんと永遠に続くような脇腹の痛みがじわっと消えていく。
そして、右足のつま先にまで血が巡るような感覚が戻ってくる。
赤くぼやけていた視界が鮮明になり、心配そうに見つめる銀髪の美女――聖女クラリアの顔をはっきりと確認できた。
「あなたは運がいいわね……。私がここに来なかったら、死んでいたわよ」
「……あ、ありがとう、ございます……」
アルトは声を絞り出してお礼を言った。
安堵と同時に、額から冷や汗が出るのを感じる。
「あの、その……今、手持ちがなくて。お礼は、必ず……」
聖女による直接の治療。今の持ち合わせでは、その対価を払いたくても払えない。
申し訳なさそうにするアルトを見つめ、クラリアは微笑を深めた。
「気にしないでください。私が勝手にしたことですから」
クラリアは背後の聖騎士に短く目配せをすると、迷宮の出口へと再び歩き出した。
「運んでやるから、動くなよぉーー」
アルトは一番後ろを歩いていた巨漢の聖騎士の肩に担ぎ上げられ、一緒に出口へと向かった。




